第22話 二級印刻師に合格した謙一の祝宴を二人で開く

 半年後、二級印章彫刻師に合格した謙一を茉莉が食事に誘って、二人で合格を祝った。

連れ立って入ったのは、店内に木の香りが匂い立っているような木屋町四条の割烹店「ふじ半」だった。

「いらっしゃいませ」

女将が明るい笑顔で二人を迎え入れた。

カウンター席に座り、出されたおしぼりで手を拭いながら茉莉が訊ねた。

「わたし、こんな和食のお店へ入るのは初めてだけど、謙ちゃんは此処へよく来るの?」

「うん、兄弟子に連れて来て貰ったり、仲間と一緒に訪れたりして、ちょくちょく来ることは来るな」

店の雰囲気は、カウンター席十席、テーブル席が二つ、奥に四人ずつ坐れる小座敷が二部屋、こじんまりした作りで気負いなく落ち着ける感じだった。

「此処は会席料理だけでなく、新鮮な魚を和洋折衷の現代風にアレンジして食べさせて貰える若者向けの割烹店なんだ、謂わば、現代料理の店でもあるんだな」

「ふ~ん、そうなんだ」

 最初に、黒塗りの一段重に入った突き出しが出された。中には、ユリネに雲丹を塗って胡麻を散らせたものや生のホースラディッシュ、小鉢に入ったイクラが入っていて、まるで箱庭の世界だった。

なんて女心をくすぐる演出なの・・・

茉莉は嬉しくなった。

「此方を召し上がりながら、お品書きからお好きなお料理をご注文下さい」

店主がにこやかに促した。

全体的に創作料理的な品々が多かったが、古典的な「甘鯛の塩焼き」や「穴子の天ぷら」など、素材をフルに生かす料理も並んでいた。

謙一と茉莉は思い思いに好きな品々を注文した。

「生湯葉の蟹餡ソース」・・・生湯葉で蟹と練り物を巻いて、出汁味の餡掛けになっている一品で、出汁が利いて上品な味だった。

「穴子の天ぷら」・・・脂の乗った穴子をサクサクの衣の天婦羅にしたもので、衣サクサク、中味はジューシー、蕩ける味だった。

「美味しい!将に五つ星だわ」

思わず茉莉が声を挙げた。

「村沢牛や河内鴨など肉料理のご用意も御座います。炭火焼きや特製の出汁で季節の野菜と一緒にサッと炊いた出汁しゃぶも御座います。如何でしょう?」

店主が伺うように訊ねた。

二人は「村沢牛の出汁しゃぶ」を頼んだ。

店主がその次に供したのは「甘鯛の鱗焼き」だった。

「肉厚の甘鯛を鱗付きで焼き上げました。お皿に張った出汁と一緒に召し上がって下さい」

酒にぴったりの料理だった。

「高田さん、お酒のお好きなあなたに取って置きの一品が有るのですが、一献如何でしょう」

そう言って女将が小さなグラスに日本酒を注いだ。

二口、三口呑んだ謙一が、う~ん、唸った。

ヨーグルトのような香りにバニラの香が混じり、ぴちぴちした躍動感のある味だった。同時に苦みとスパイシーさがあり、後口も仄かにほろ苦かった。口の中で酸味を中心に味が変化して飽きの来ない感じがした。和食に良く合うさっぱりした辛口だった。

「わたしにも一口頂戴」

茉莉も直ぐに頬を綻ばせた。

「これは飲めない私にも飲み易いし、食事の美味しさを生かす味だわね」

「そうですね、良い表現をなさいましたね。切れや力と滑らかさを併せ持った“淡麗”よりも“端麗”なのですね」

女将がすかさず後を受けた。 

二人が最後に食したのは、中華風に味付けしたミンチを薄い餅で包んで揚げた「餅餃子」だった。意外な組み合わせに今日の四つ星の美味だった。

「ご馳走さまでした」

「有難うございました」

美味い料理と二人だけの打ち解けて寛いだ祝宴で、心も躰も満ち足りた茉莉と謙一は割烹「ふじ半」を後にした。

駅への道すがら、謙一が言った。

「俺は文学者でもないし哲学者でもない。だから人が生きて行く上での在るべきモラルや倫理など、そんな難しいことは解からない。だが、人間ってのは、誰しもが悲嘆、慨嘆、挫折、絶望、憤怒、怨念、或いは、忍耐、克己、許容、受容、矜持、意地、誇り、希望、再生、そんなもんを胸の中一杯に溜め込んで生きているもんだ。それは言葉なんかで一括りに出来ないもっと深くて重いものだろうけど、それを音として紡ぎ出すのが音楽であり創作であるんじゃないかな」

「そうね、あなたの言う通りだわね。人間は皆一人ひとり自分の過去を背負って生きているのよね。その過去がどんなに辛くて苦しいものであっても、それを消し去ることも無くすことも出来はしない。今日という日は昨日までの過去の上に成立っているんだし、それはその人本人だけのものだから、過去が消えてしまえばその人の存在そのものも消滅してしまうことになるしね」

「人生はぬかるむ夢のようなものだが、時折、陽も差すだろう、そう思って生きて行くしか無いだろう、人は皆、心の中に重い澱のようなものを抱えて歯を食い縛って生きている。俺もお前も、二度と後戻りしないように、これから、アイデンティティをしっかり持ってやって行こう、な、茉莉」

 二人が見上げた空には数え切れない小さな星がきらきらと瞬いていた。

茉莉がそっと謙一の腕をとった。あれっという表情をした謙一だったが何も言わずに前を向いて歩を進めた。

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