第13話 謙一、二年経って初めて仕事を任される

 謙一は高校を卒業後、(有)龍鳳印刻堂へ就職し、社長で一等印刻師の岡本龍鳳に師事して印章彫刻師の道を目指した。一生他人に使われて心身を擦り減らすサラリーマンよりも、腕に仕事をつけて将来は独り立ちも可能な職人になろうと、大学進学は頭に無かった。

然し、母親から、今の時代、大卒は人生のパスポートみたいなものだから絶対に出ておかなければ駄目だ、と強く勧められて夜間大学に通うことにした。

 謙一は最初から印章彫刻師になる心算ではなかったし、手に職がつけられる仕事なら何でも良かったが、昼間働いて夜に大学へ通わせてくれる仕事先は殆ど無かった。幸いにして印章彫刻師の岡本龍鳳が謙一を雇ってくれた。従業員は十人しか居なかったが、昼間働いて夜は大学へ通いたいと言う謙一の健気な申し出を聞き入れてくれた。

 

 印章彫刻師は国家検定の一つで、更生労働大臣に公証された者の称号である。一級と二級とが有り、一級の受験資格は六年から七年以上の実務経験が必要で、検定試験には実技と学科の二つの試験がある。更に、より一層の技術と地位の向上を図る為に技能グランプリが開催されて、一級合格者達がその技を競い合ってもいる。一人前の彫刻師になるには十年以上の修業が必要であった。

社長の岡本龍鳳が持つ一等印刻師の資格は日本印章協会により付与される最難関の印章彫刻資格であり、全国に数多く存在する一級彫刻師が一年間に亘って毎月課題作品を提出し続け、その高い基準点を毎回クリアーして、その上で、毎年十一月に開催される審査会において著名な師範による厳しい審査を受け、技術・人物共に優れていると評価されてはじめて取得出来るものであった。それだけに(有)龍鳳印刻堂における修業は極めて厳しいものがあった。

 

 謙一は最初、仕事をさせて貰えなかった。

謙一がやらされたのは、家の掃除、車の運転、材料の買出しなどの使い走りで、偶に、仕事の指示を貰うと、それは彫刻刀の研磨や印材の面擦りなど準備や段取りばかりだった。伝統工芸のこの職場では、新人の謙一に宛がわれた仕事は、来る日も来る日も下働きの下仕事と何の変哲も無い画一的な機械彫りであった。最初の実習で一通りの作業は教わったものの、実際にやらされた仕事は、謙一の創意と工夫など何処にも入れ込む余地は無かった。謙一はそんな仕事を一年余り続けた。謙一は次第に辛抱の緒を切らし堪忍の袋を破って酒に逃げ、時として酒場の女と戯れもした。辛うじて謙一を支えたのは、これ如きのことで泣いてたまるか、負けてたまるか、始めたからには一人前の彫刻師になるんだ、という意地と矜持だった。


 二年経って漸く、少しは創作印を手伝う仕事になって行った。

暑い夏の日の昼下がりに龍鳳が謙一を事務室に呼び入れた。

「高田君、君、創作印を一つ彫ってくれないか」

「えっ、本当ですか?僕が独りで彫るんですか?」

「ああ、一寸知り合いに頼まれてね。そんなに難しいものじゃなくて良いんだよ。君の勉強にもなるだろうから、是非、頼むよ」 

脚の骨を折って寝た切りになっていた老婦人が、独りで歩けるようになりたいと一生懸命にリハビリに頑張っている姿に心を動かされた知り合いが龍鳳に依頼して来た、ということだった。

「高価で立派なものじゃなく、その老婦人が早く元気に歩けるようにとの願いと祈りを籠めて彫り上げられたものが欲しいそうだ。材料からデザインなど皆、君に任せるから是非、彫ってあげてくれ給え」

「解りました。頑張ります、先生」

老婦人は七十七歳で、名は桐島美禰、干支は辰、ということだった。


 謙一は先ず材料の選定から始めることにした。

象牙や水牛、柘や彩樺等の高級印材も在ったが、楓、桜、椿、山椒、竹、ハナミズキ、ざくろ、茶等の木材類が多く積まれていた。彼はイラストと文字を彫ることを考えて自然木を選ぶことにした。自然木は堅さも形も木肌も全く異なるが、人の手にやさしく手触りが良い。謙一は楓を使うことにした。楓は歪みや割れ等の変形に強く、耐久性に勝れて欠け難いので印鑑に最適の材質であった。

 それから次に彫刻刀の選別を始めた。

刃先の幅が異なる、然も後ろにも刃の付いている刀を十二、三種類選び出し、それらを全て研ぐ準備に取り掛かった。機械を使って単一のものを彫るのではないので、後ろにも刃の付いている彫刻刀が入用だったし、通常一週間に一度は研がなければならないものだったので、最初に全部を研ぐことにした。頑張っている老婦人の為に世界でただ一個の印章を創ろう、機械で彫ればみんな同じ物になってしまう、それでは意味が無い、手で彫れば全く同じ形や絵柄が出来上がることは無い、材料は堅くて手彫りは大変であるが、何とか喜んで貰えるものを創りたい、謙一はそう考えて道具の研磨にも力を入れた。グリップになる柄の部分の籐がぼろぼろになった彫刻刀や刃が減って来ているものは、籐を自分で巻き直してから研いだ。汗を流して研いでいる謙一の姿を、時折、龍鳳がちらっと見たが、取り立てて何も言わなかった。

 翌日、謙一は彫り込む絵柄と文字とデザインを考えた。

余り難易度の高いものは今の自分には上手く彫れそうもないと知っている謙一は、老婦人の干支と彼女の姓名だけを彫ることにした。それも出来るだけシンプルになるようにと考えた。

干支の辰の図柄と桐島美禰の文字を形や大きさや配置を変えて何枚ものデザインを描いてみたが、今日一日では謙一の満足出来るものは描けなかった。

自宅に持ち帰った謙一はそれらのデザイン画を母親に見せた。

広げられた七、八枚のデザインを見て母親は、真剣な面持ちで暫くの間思案していたが、無造作に、これが良いんじゃない、とその中の二枚を指差した。

「どうしてこれが良いんだ?」

「どうして、って。感じよ、直感よ、わたしのインスピレーションよ。だって、そういうものでしょう、デザインなんていうものは」

謙一がよく見ると、なるほど、辰の図柄も文字の形も躍動的で頑張る老婦人にふさわしい感じがした。その躍動感のイメージを基本に謙一は、丸印ではなく角印にしようと決めた。正方形の下辺に沿って姓名を草書体で彫り、その上部に辰が跳ね踊っている昇竜の構図を考えた。跳ねている昇竜は、懸命に歩行訓練を続ける老婦人にはより相応しいだろうと思った。自分の技能不足を考えて、辰の図柄と姓名の文字が重ならないようにすることも忘れなかった。幾ら凝った良いデザインでも自分が上手く彫れなければ絵に描いた餅に終わってしまう。

 次の日、謙一は龍鳳に前日考えたデザインの構図を見て貰った。

謙一の話を聞き、ラフデザインをじっと見ていた龍鳳は「うん、なかなか面白そうじゃないか、これで良いんじゃないか」と賛同してくれた。序でに、印章の大きさは、この図柄だと正方形の一辺の長さは四センチ位は要るだろうな、とアドバイスもしてくれた。

 楓の木で丈七センチ、一辺四センチの印材を作った謙一は、愈々、彫りの作業を始めることにした。これまでの二年程の経験で一通りの工順は解かっていたが、上手く出来るかどうかは極めて不安で自信は無きに等しかった。が、謙一は自分ひとりで、独力で唯やり遂げることだけを考えることにした。窮すれば通じるだろう、と腹を括った。

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