蝋売り安兵衛
小林一咲
第1話 無宿の蝋燭売り
江戸の町は朝靄に包まれていた。路地に立ち込める湿った空気には、昨夜の雨の名残が微かに混じっている。安兵衛は早くから動き出していた。肩に下げた箱には、彼が作り上げた蝋燭がびっしりと詰まっている。山椒や沈香、梅の香を染み込ませた特製品だ。
蝋燭売りの声が響き始めると、町人たちがちらほらと顔を出す。その声は、どこか野暮ったいが、聞きようによっては不思議と耳に残る抑揚があった。
「ほれ、灯りが心を照らす、香りつき蝋燭はいかがだ!」
安兵衛は笑みを浮かべて客の顔を伺いながら、商品を一つずつ取り出して見せた。その中には、彼が昨夜寝ずに調合したばかりのものもある。
「なんだい、また新しい香りかい?」
常連の一人であるお兼が声をかける。年の頃は四十を少し過ぎたくらい、八百屋を切り盛りしている江戸っ子女房だ。
「へえ、今朝こしらえたばかりで。どうです、梅の花の香りですよ」
安兵衛は得意げに蝋燭を掲げた。その蝋燭からは、遠く春の野を思わせる清らかな香りが漂ってくる。お兼は鼻先を近づけると目を細めた。
「これはまた、いい香りだねぇ。旦那に使わせたら少しは機嫌も直りそうだ」
「お旦那、また喧嘩かい?」
安兵衛は苦笑しながら蝋燭を一本手渡す。
このように、彼の蝋燭は町人たちにとって単なる実用品以上の価値を持っていた。暮らしに小さな癒しをもたらし、時に夫婦の仲や家族の縁を取り持つ媒介にもなっている。
しかし、安兵衛の目の奥には、どこか影があった。彼は、誰にも話すことのない過去を背負っていた。
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昼下がり、安兵衛は通りを歩いていると、一人の武家風の男に呼び止められた。男は二十代半ば、粗野な雰囲気の中に奇妙な冷たさが漂っている。
「おい、蝋燭売り。噂を聞いて来たんだが、その香りの蝋燭ってのを見せてもらおうじゃないか」
「へい、もちろんでございます」
安兵衛は腰を折り、品の入った箱を開けて見せた。
男は無言で蝋燭を手に取り、鼻先に寄せた。次の瞬間、彼の目に閃きが走ったようだった。
「これは――面白いな」
その一言には妙な響きがあり、安兵衛の胸に微かな警戒心を呼び起こした。
「ところで、お前のその技術、売る気はないか?」
「はて、売るとは?」
「俺の屋敷に来い。そうすれば、この香りの蝋燭を江戸中に広めてやる」
安兵衛は一瞬言葉を失ったが、すぐに口元に笑みを作った。
「ありがたいお話でございますが、わたしの蝋燭はこの肩箱と共に町を歩いてこそ、というのが売りでして」
男の目が細くなった。その視線の裏に、ただならぬ気配が漂う。
「そうか。まあ、考えておけ」
武家風の男は蝋燭を一本手に取り、代金を払って立ち去った。その背中を見送りながら、安兵衛の心にはざわつくような感覚が残った。あの男が何者なのか、そして彼の言葉の背後にあるものが何なのか――それを知るにはまだ時間がかかりそうだった。
### 次回予告
町人たちに愛される蝋売り安兵衛。しかし、謎の武家との出会いを機に、彼の平穏な日常が揺らぎ始める。
蝋燭を巡る陰謀と、安兵衛が背負う過去が交差する第二話、「火事場の影」をお楽しみに。
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