8.雅親の弟

 雅親に自分の本名を告げてしまった。

 おむつのCMでデビューしたころから恋は「逆島恋」で「逆島愛」の息子で、家では馨と呼ばれていたが、その名前を知っているのはごく一部の人間しかいない。

 保育園や小学校、中学校、高校、大学では本名を書いていたはずなのに、周囲は恋を「恋」と呼んだ。

 恋にとってもこの名前が自分の名前だという自覚があったし、「恋」と呼ばれれば振り向く自信しかなかった。


 雅親の小説を読んで、小説の中の人物に心を重ねて、恋は雅親と話したいことがたくさんあった。けれど休憩時間の十五分ではとても足りない。

 もう少し延長してくれないか。

 まだ恋は雅親と喋りたい。

 そんな甘えがあったのかもしれない。


 雅親に名前を告げると、漢字を確認されて、それだけで雅親は部屋に行ってしまった。


 残された部屋で恋は小説の続きを読んでいた。

 両親に愛されて育ち、兄弟とも仲がよく、平凡だけれど幸福な主人公が、一人の女性と出会う。その女性は父親に暴力を振るわれて、母親が女性を連れて逃げてシェルターに入って育った人物だった。

 主人公は彼女を愛して、彼女も主人公を愛する。

 けれど、主人公はいつしか彼女との愛に疑問を感じるようになる。

 それは生まれや育ちが違うことではなくて、もっと根本的なこと。

 最初は主人公は恵まれた育ちだから彼女の気持ちが分からないのではないかと思っていたが、小説はそれほど単純ではなかった。

 主人公が彼女と別れようと思ったのは、最初は育ちの違いからかと思っていたが、それ以上の深いものがあった。

 主人公は愛されて育っていたが、自分が愛されることに疑問を抱いていた。そして、自分のことを愛せない自分に苦しんでいた。


 身勝手な主人公だと思う気持ちもないではないのだが、それ以上に心理描写が真に迫っていて主人公がどれだけ自分を虚ろな人間と思っているかなど伝わってくると、同情すらしてしまうくらいなのだ。


 この小説が映画か舞台化されるとしたら、恋はどの役をやりたいだろう。


 もう少し体が小さかったころなら、恋は女性役もやっていた。

 背が伸びて体付きががっしりしてしまってから、恋は男性役しかできなくなった。

 もしできるならば、彼女役をやりたい。

 できないのならば主人公でもいい。


 そんなことを考えながら読み進めていたら、マンションの玄関ががちゃがちゃと音を立てて、開いた。

 反射的に隠れようとする恋だが、雅親によく似た色素の薄い髪と目なのに、顔だちはきりりとした雅親よりも背の高い男性に気付いて、思わず名前が口をついて出た。


「みっくん!?」

「えー……」


 確か天音はそう呼んでいたはずだ。弟の雅親は「まさくん」、末っ子の充希は「みっくん」。


「なんで逆島恋が俺を『みっくん』呼びするわけ? ていうか、姉さん、逆島恋をこんなところに隠したのか!?」

「僕のこと知ってるの?」

「テレビ見てないのか? ずっとテレビはあんたと有名女優のスキャンダルで埋め尽くされてるよ」


 そういえば、雅親と暮らし始めてからテレビは付けていない。リビングに大きなテレビがあるのだが、それを雅親が日常的に付けることはなかったし、恋もわざわざテレビで大きく映される自分の顔など見たくなかった。


「姉さんがマネージャーしてる逆島恋でしょ? 知らないわけないじゃん」

「サインする?」

「ファンじゃないからな!」


 ファンサービスをしようとしたら断わられてしまった。

 充希は買ってきたものを冷蔵庫に入れて時計の針を確認している。充希も雅親のサイクルは知っているようだ。

 ソファに座った充希とローテーブルを挟んで正面に座ると、恋は充希を気にしながら本の続きを読む。

 紙の本はあとどれくらいで終わりが来るのかが持っているだけで分かってしまう。


 主人公は自分を含めて誰も愛せないままに終わってしまうのか。それとも彼女を迎えに行くのか。

 ページをめくる手が止められない。

 最終的に主人公は彼女に手紙を書くところで終わっていた。読まれるか分からない手紙という古いツールに気持ちを託した主人公。その手紙が読まれて彼女が主人公の元に戻ってくるのか、戻らないのか、それも雅親に言わせてみれば「読んでいるひとに委ねます」なのだろう。


 読み終わったころに二時四十五分になって雅親が部屋から出てきた。


「みっくん、来てたなら声かけてくれてよかったのに」

「雅親の邪魔はできないよ。ケーキ買って来てる。どれか迷って四つ買ってきてよかった。逆島恋がここにいるなんて思わなかった」

「四つも買って来てくれたんですか?」

「雅親、この時間はコーヒーだろ? 俺が入れるよ」


 立ち上がってマグカップを取り出して、カプセル式のコーヒーメーカーを操って充希は雅親と充希と恋の分のコーヒーを入れてくれた。恋の分は紅茶を飲んだ後のマグカップだったが、飲み干していたので文句は言わなかった。


 最初のころは紅茶を飲み終わると恋はマグカップをシンクに置いておいた。雅親との時間を過ごすにつれて、雅親が飲み終わったマグカップがちゃんと空になっているか確かめていることに気付いて、飲み終わってから証明のようにローテーブルに置いたままにするようになっていたのだ。

 マグカップが空になっていると雅親は嬉しいようだ。少しだけ感情の薄い顔に笑みを浮かべたりする。

 そのマグカップは洗ってコーヒーに使われるのだが、充希は洗いもしなかった。それに文句があるわけではないが、兄弟なのに全く違うと思ってしまう。


「みっくん、どうして急に帰ってきたのですか?」

「最近雅親から連絡がないからどうしたのかなって思ったんだよ。雅親、俺にメッセージくれるじゃん。『ちゃんと食べてる?』とか『単位は取れそう?』とか」

「返事がないから鬱陶しいのかと思っていました」

「俺、メッセージ見るとその場で『分かった!』って言って、返事書かないタイプなんだよな」

「それ、改めた方がいいですよ、みっくん。お兄ちゃんだからいいんだけど、他のひとはそういうの通じませんからね。考えてることは伝えないと通じませんよ」


 雅親が兄の顔をしている。

 なんとなく恋は面白くなくて皿に乗せられたミルフィーユをフォークで大きく崩してしまった。ミルフィーユはどうしても綺麗に食べることが難しい。


「分かってるよ、雅親にしかしてない」

「姉さんにはちゃんと返事していますか?」

「してるよ」


 兄弟の会話に全く入っていけないで拗ねている恋に、充希が鋭い視線を向ける。


「どうして、こいつがここにいるのか!」

「みっくん、他人を『こいつ』とか言っちゃダメです」

「どうして、逆島恋がここにいるんだよ」

「それは、姉さんが他に行かせる場所がないからって頼んできたのです」

「他にどこでもあるだろ。ホテルとか。豪華なスイートルームでも借りればよかったんじゃないか?」

「それじゃ、彼、暮らせませんよ。ルームサービスにも限りがあるし、ホテルのレストランに行けば顔を知ってるひとに写真を撮られるかもしれません」

「それを雅親が心配しなくていいだろう。本当にお人好しなんだから」


 呆れた様子の充希に、恋も少し同感だった。

 姉の天音に押し付けられたからと言って、雅親は恋に親切すぎる。

 恋が自分は特別なのではないかと勘違いしてしまうほどに。


「みっくんは……」

「やめて! 俺のこと『みっくん』って呼んでいいのは姉と兄だけだ」

「充希くんは、僕がお兄さんに迷惑をかけていることが不満?」

「不満に決まってるだろう? 俺、知ってるよ。逆島恋と付き合った女が言ってたの、ネットで読んだ。『料理も掃除も全くできない。全部私にやらせて当然だと思っているのに腹が立った』って」

「それは、そうだけど……」

「兄は小説家として仕事もしてるんだけど、あんた」

「ひとに『あんた』とか言わないでください」

「逆島恋は、俺の兄を過労死させるつもりかよ!」


 そこまではっきり言われて恋がその可能性に気付いていないわけがなかった。

 明らかに恋は雅親に負担をかけている。

 雅親は小説家として売れていて、月に一冊くらい本を出していて、物凄く忙しいはずなのに、恋は雅親に全ての面倒を見させている。


「私はいいんです。家事は苦にならないし、彼は私が余らせている紅茶の二杯目を飲んでくれているだけなんですから」

「それ、何の比喩?」

「一人分の家事と二人分の家事は変わらないってことです。料理も一人分作るのと二人分作るのは変わらないし、掃除もちょっと長い髪の毛が落ちてるくらいのことで気にならないですからね」


 はっきりと雅親がこういうことを口にしたことがあっただろうか。

 恋があっけにとられていると、雅親が充希に言う。


「みっくん、お兄ちゃんは大丈夫ですよ」

「また、それかよ……。俺が小さいときも、雅親はずっとそう言って我慢して……」

「我慢なんてしてないです。みっくんは可愛くてお兄ちゃんの宝物だったから、なんでもしてあげるのが幸せでした。自分でするって言いだしたときには寂しかったんですよ」

「それで、次は逆島恋にしてやってるのか! 本当に雅親はとんだお人好しだよ!」

「呼び捨てにしないでください」


 それだけ言うと、充希は雅親の訴えを無視して帰る準備をしている。

 時計の針が三時を指そうとしているからだ。


「また来る! そのときには、そいつ、追い出しといて!」

「『そいつ』とか言わないで」

「逆島恋、追い出しといて!」


 無茶苦茶に言われた気もしたが、雅親の気持ちも伝わってきて、恋は喜べばいいのか、申し訳なく思えばいいのか分からなくなっていた。

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