第22話 守りたいもの 1
『あらあら、大変! 今日はぎゅうぎゅう、大渋滞ね』
覚えのある声が、一帯に響き渡る。
〈神樹〉の妖精の声を聞いた地点に戻ってきたレイトリーンたちは、思わず足を止めた。野生動物や小人が密集する上を、水をそのまま布にしたようなドレスをまとった少女が飛んでいる。長い髪が森の緑を透かして輝いていた。彼女は、レイトリーンたちに気づくと、両目を見開く。
『レイトリーン! 騎士のあなたも一緒ね?』
「ティーネさん」
レイトリーンが手を振ると、ティーネこと水舞の妖精はくるくる回りながら下りてくる。エイヴァが、戸惑いがちに会釈した。
『ヤーデルグレイスには会えた?』
「はい、おかげさまで」
『よかった、よかった。おめでたい日ね』
その場で踊った妖精は、しかし二人の方を見て目を瞬く。
『あら? ユレンは一緒じゃないの?』
「え?」
問われた二人は、慌てて振り返る。〈神樹〉に続く道の上に、少年の影はない。ユレンに何も言わず飛び出してきてしまったことに気づいて、レイトリーンは慌てた。
「あ、あの、その……」
『――ああ。きっとヤーデルグレイスに捕まっているのね。心配性なんだから』
妖精は、つんと顎を持ち上げて、腰に手を当てる。その可能性を考えていなかったレイトリーンは唖然とした。まっ白な感覚が過ぎ去った後にやってきたのは、安堵である。彼は王城のごたごたには関係ない市民なのだ。巻き込まずに済むなら、その方がよい。
『お二人も、しばらく隠れていた方がいいわ。今は道がとってもぎゅうぎゅうだし、森のまわりに危ない人たちがいるから』
妖精が、二人の頭上を飛び回りながら告げる。レイトリーンは弾かれたように顔を上げた。
「そ、それは……森の北東の、兵士たちのことでしょうか?」
妖精はぴたりと止まる。露のような瞳が、ひきつった王女の顔を映し出した。
「わたくしたちは、その場所に行きたいのです。できるだけ早く」
『あそこに行く? それはよくないわ、レイトリーン』
子供のような声が、冷える。
『あなたはきっと、死んでしまう』
「それでも――」
レイトリーンは踏み出した。青い瞳が、妖精を真っ向から見上げる。
「今、あの場にいるのは王城の関係者です。陛下がこの場にいらっしゃらない以上、わたくしが行かなければなりません」
喉が渇く。胸が擦り切れそうだ。それでもレイトリーンは、言葉を紡いだ。妖精が、初めての物を見る赤子のように、頭を傾ける。
『わからないわ。彼らはあなたの護衛でも何でもないのに』
「わたくしの護衛だった者も、その中にいるかもしれません。彼らにこれ以上、〈翠蓋の森〉を傷つけさせるわけにはいかない」
レイトリーンは叫ぶように反論した。自分でも不思議だったが、ほとんど意地になっていたように思う。妖精はしばし無表情でその場に浮いていた。だが、ふいに目を細める。
『……ふふっ。そう』
レイトリーンたちは、突然笑い出した妖精に困惑の視線を向ける。妖精はさらに大きな笑い声を立て、手を叩いた。
『あなた、そういうところはシェイマシーナにそっくり!』
「え?」
『それじゃあ、しかたがないわね。こうなったあなたたちはヤーデルグレイスでも止められないもの!』
歌うように言った妖精は、突然前へと飛び出した。水のごときドレスをなびかせて、目を白黒させている人間たちを振り返る。
『ついていらっしゃい、レイトリーンに騎士のあなた。“裏道”で、行きたいところに案内してあげる。――特別よ?』
エイヴァが目をみはる。レイトリーンは「ありがとうございます!」と一礼して、小走りで妖精に追いついた。
裏道と言うだけあって、妖精が導いたのはまともな道ではなかった。いや、そもそも本来の森の中ですらない。木立の狭間の空中に、突然開いた大きな穴。その中は白い空間で、どこから出たのかわからぬ泡がそこらじゅうに浮かんでいた。
道、と呼ぶには不安定な場所を、恐る恐る歩く。ほんの数分行ったところで、前からまぶしい光が差し込んだ。服と髪をきらめかせた妖精が、回りながら飛んでいく。レイトリーンは思わず目を細め、それでも足を止めなかった。
光が収まる。草木のざわめきが耳に届く。風は温かく、埃っぽい。
レイトリーンは少しずつ目を開けた。そして、言葉を失う。
目の前に広がっていたのは、森だった。植生から見て〈翠蓋の森〉で間違いない。しかも、先ほどまでとは違う場所だ。遠く、木々の狭間から、緑色の丘陵がのぞいていた。
「ここは……」
『あなたたちが行きたい場所の、すぐ近く』
かろうじて呟いたレイトリーンに、妖精があっさりと答えを贈った。さらに絶句した王女のかたわらで、エイヴァも口を半開きにしている。
「あ、あの短い時間で……森の端に来た、ということですか……」
『すごいでしょ。裏道よ。わたしとあのこの、秘密の道』
妖精は得意げに笑う。どう返してよいかわからず、二人は曖昧にほほ笑んだ。
そのとき、耳慣れない音がした。重い物を強く叩きつけたような、低音だ。レイトリーンとエイヴァは、はっと顔を見合わせる。次の瞬間、走り出した。エイヴァがとっさに王女の手を取る。
レイトリーンは彼女に頭を下げたのち、ちらと振り返った。
「ティーネさんは隠れていてください! 彼らに見つかっては大変ですので!」
『あらあら、たいへん、大変ね』
少女の声は、あっという間に背後へ流れる。彼女の行動を見ないまま、レイトリーンたちは草をかき分けた。
ほどなくして不自然に視界が開け、足もとの起伏が激しくなる。見れば、ところどころに自然のものではない穴が開いていて、飛んできたらしい木の枝や石が散乱していた。埃っぽさも、先ほどよりひどくなっている。
「なぜ、ここだけこんな――」
激しい口調で呟いたエイヴァが、眉を跳ね上げた。レイトリーンも息をのむ。
考えるより先に、足が止まる。
視線の先にあったのは、本来森にはないはずの、金属のきらめき。装備を固めた兵士の集団が、草木を乱暴にかきわけて、こちらへ歩いてきていた。ガチャガチャと音を立てていた彼らは、すぐに止まる。向かいから人が来ていることに気づいたらしい。
「な――」
レイトリーンは、唇を震わせた。
「何を……なさっているんですか……?」
声は、上ずって震えていたが、大気を揺さぶるほどに大きかった。
兵士たちは、誰も何も答えない。ただ、困ったように互いを見ているようだった。
エイヴァが無言で、レイトリーンをかばうように立つ。そのとき、兵士たちとは違う足音がして、誰かが前に進み出てきた。
「これはこれは、レイトリーン殿下。ご無事で何よりです」
灰色の髪をなでつけた、痩せ型の男性。黒い脚衣と白い上衣の上から、深い緑色の布地に金色の刺繍が入った長衣を羽織った彼は、この頃しわが目立つようになった顔に、薄っぺらい笑みを乗せていた。
「ザニーニ大臣……」
レイトリーンは、やっとの思いで男性の名を口にする。
覚悟はしていた。しかし、実際に荒れた森の中で彼と遭遇すると、言いようのない感情がこみ上げる。赤黒いものが渦を巻き、どろどろとせり上がってくるようだった。
うずくまってしまいたいのを堪えて、レイトリーンは息を吸った。
「う、後ろの兵士たちは、あなたが率いていらっしゃったのですか」
「ええ。実戦における指揮官は別にいるので、その表現は適切ではありませんが……数を揃え、装備と食糧を整え、共に〈翠蓋の森〉へ来るよう命じたのは私です」
ザニーニは、笑みを乱すことなく答える。そのことがレイトリーンには恐ろしかった。
「なぜ、このようなことをなさるのです。陛下のご命令を受けてのことですか」
「おや。レイトリーン殿下は、お父上が『神聖な森を蹂躙せよ』とご下命なさるお方だとお思いで?」
口調には、あからさまな悪意がにじみ出ていた。それは、レイトリーンだけでなく、父王にも向けられたものだろう。
細く開かれた瞼の間から、黒い瞳がのぞく。
王女は夜空のごとき瞳で、それを見つめ返した。
「国王陛下に無断で兵を動かすなど……いくら内務大臣といえど、許されることではありませんよ。そもそも、あなたにその権限はないはずです」
声が震える。心臓が今にも破裂しそうなほど高鳴っている。気を抜けば涙が出そうだ。それでもレイトリーンは声を張った。すぐ隣に感じる護衛の温度が、彼女を少しだけ強くした。
ザニーニは、王女の小さな勇気を嘲笑で粉砕する。
「ご心配なく。この者たちは、我がザニーニ家に従っております。同じネフリート王国を守る兵ですので、まぎらわしい装備をしていますがね」
――つまりはザニーニの私兵、またはそれに近い者ということだ。レイトリーンたちが愕然としている間に、ザニーニはしゃべりつづけた。
「殿下がいつまでもご帰還なさらないので、お怪我でもなされたかと思い、私共がお助けに参ったのですよ」
「〈翠蓋の森〉は〈翡翠竜〉様が守る神聖な森です。わたくしが害されることなどあり得ません」
レイトリーンは反射的に言い返した。しかし、ザニーニは鼻を鳴らす。
「そうでしょうか。〈翡翠竜〉の領域とはいえ、森は森。虫や獣までもが、皆あなた様に友好的なはずがない。少しの不注意で、襲われて命を落とすこともあるでしょう」
「ですが、わたくしは今、生きてここにいます。ですので、あなた方の助けは不要です。兵を引いてください」
冷たい汗が吹き出す。目の前がぐらぐらする。それでもレイトリーンは、今もっとも言うべきことを言った。
精いっぱい力を込めて、ザニーニを見る。だが、彼は眉ひとつ動かさない。
「そうですなあ」
薄い唇が、三日月の形にゆがんだ。
「――ですがそれは、あなた様が王都まで戻らねば、陛下には伝わりませぬ」
ザニーニは、細木のような手を挙げる。
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