護る者、護られる者

 日暮れて仄暗さを帯びた洋館を、女と童が駆けてゆく。まだ一昼夜を過ごしたばかりの広大な邸の胎内を、しかし年来住み慣れたかの迷いの無さで先頭の女がひた走る。その背中に童が離されぬよう食らいつく。嗚呼、何故嵐はいつも唐突に訪れるのか、唐突に戸を叩くのを嵐と呼ぶだけなのか、そんな問を立てる暇など自らかなぐり捨てて、本来なら客人に過ぎなかった二人組は息を弾ませながら、四半刻前に踏み入った収蔵庫へと再び駆け戻る――。


「ユキちゃん居るかい――チッ、灯は点いたままか」


 乱暴に扉を開けざま言い放ったシャクの、頭の巡りは先刻までとは比べ物にならないほど冴えている。誰もおらぬのに火が灯る、それが何を意味するか――彼女女給らは掃除も半ばにこの部屋を立ち去ったのだ、否、立ち去らざるを得なかったのだ!


「姐さん、やっぱり怪盗は一度この部屋に来たみたいだ」

「わかってる。引き返すよ、希井斗きゐと


 収蔵庫を矢の如く飛び出しつつも、芍の裡では思念がぐるぐると渦を巻く。怪盗はどこへ行った。鷹ノ眼石は奪われたのか。逃がしてしまえば自分も責を問われようか。あれこれ浮かんで消えるが所詮、今し出てきた地下室の埃のようなもの、掃いて棄てれば取るに足らぬ。それより芍の胸にこびりついて離れないのはやはり、昨夜世話をしてくれた、あの澄ました顔の。


「くそっ、何て迂闊。何であたいはあの娘ユキたちだけ地下に残してきちまったんだい!」


 階段を駆け上がる間もつい詮無きことを思いもすれば、言いもする。それが悲しき人の性というものさ。あの娘は確かに引き受けた。怪盗に襲われる危険も知っていた。だからこれはあの娘の責で、さもなければ命じた貞吉の責なのだ。あたいは関係ない――などと、割り切れるならそもそも芍は奔ってなどいるものか。戯れとはいえ護ると請け合った女一人、護らぬ奴に何ほどの価値があるというのだろう――!


「姐さん、余計なこと考えないで。それと怪盗と鉢合わせしても、いきなり飛び掛ったりしちゃダメですよ」

「お前だって身代りになるなんて言ったくせに。そんな気取った口を利くのは、あたいに駆け比べで勝ってからにしな」

「何をぅ」


 女と童の間がぐっと詰まる。芍は段飛ばしで小さな影を引き離す。希井斗も必死に足を動かし応えてみせる。息は早く草履の音は忙しなく、けれども両者共に不思議と口元には笑みが浮かんだ。こんな時に不真面目なと嗤うなかれ。芍も希井斗も、危機の折こそ遊戯あそびが要るのだと知っている――。

 昇りきった勢いのままに廊下へと飛び出すと、暗く狭かった視界が急に拓けて明るくなって。同時にキャッ、と高い悲鳴。思わず立ち止まると壁灯の明りの下には尻餅ついた女の姿――地下へユキと一緒に来た女給の片割れと、芍は即座に認めて声を掛けた。


「悪い、大丈夫かい」

「お、お、お客様! ユキが……ユキさんが……」


 消え入りそうな声に芍は思わず駆け寄るも、女は手を借りることなくスッと立ち上がった辺り、芯は決して弱くないらしい。


「失礼致しました」

「何があったい?」

「収蔵庫に怪盗が現れたんです。凄く鼻が利いて、目当ての石をユキさんが持ってるとすぐ見抜いて、力ずくで奪っていったの」

「チッ、何てこった」

「それでユキさんは石を取り返そうと怪盗の後を追って……あの娘、まだこのお邸に入ったばかりなのに。なのにあんな勇敢に……ごめんなさい。私、動けなくて――」

「もういい、わかった。後はあたいらに任せな。自分を責めんじゃないよ」


 行くよ希井斗、と傍らの相棒に呼びかけて、芍は再び床を蹴る。去りゆく背なに、女の声の切なる響き――ユキさんをお願い――唇噛まずにいられるか。怖かったろうに。かいなに容れてやりたいのは山々だけど、一つしかないこの身体が恨めしい。


「で、結局ウマ野郎はどこ行ったかね」

「玄関や他の出口は外しましょう。そういう場所は貞吉さんが手を回すはず」

「じゃあそれ以外、怪盗が逃げるのに選びそうな場所といったら――」


と口を動かしながらも足は片時も淀むことなく進む、進む。実のところ、芍の勘はとうに怪盗の行先を突き止めてあったのだ、今日一日邸内を漫ろ歩いたのがここにきて活きた。足の描いた見取図をば虚空へと広げてみれば、相応しき場所はここしかない、と。

 日は沈みて月は昇る。地下に潜る者は地上へと戻る。旅の燕が必ず古巣へ帰ってくるように、広間より始まった駆け比べの終点も、また同じ広間であった。


「あっ、警邏の人たちが集まってます」

「やっぱりあそこか」


露台バルコニーへと続く螺旋段にはすでに、二十余の制服姿。降りてくる者を通さぬように固めているということは、即ちその先にお尋ね者の姿有り、芍の勘もピタリと当り。


「あっ、君たち。ここは危険だ。離れてい――」


 邏卒が一の言葉はそこまでで、代わりに漏れたは苦悶の呻き。包囲を体当たりで突破した芍に続いて希井斗も謝りながら階段を駆け上がる。制服共は口々に退去を命ずれども体は海割の伝説よろしく後退る、しかし決して弱腰だと詰ってやるな。庶民カタギを捕える隙に泥棒に逃げられる、そんな転倒をしでかせば世間の笑い者では済まないのだから。

 露台に出ると、途端、空に藍が満ちた。とはいえ星明りは室灯に馴れた者には些か頼りなく、目が闇と和すまでの一時芍たちは立ち止まり、足の酷使で乱れた息を整える。吹き抜ける風は招きであるか、それとも退くべしと告げる警笛か。此処が森奥の邸であると思い出させる夜気の涼しさも、火照った身体に心地よいどころか却って熱を奪い、意志を挫くかの不穏さを纏うような……弱気の似合わぬ芍をして斯様な悲観へと至らしむるのは、ここまで口にするのを避けてきた悲劇の想像で、しかも尚悪いことにその想像は、おそらく実を結んでしまうのだ――女の、鋭い叫び。遅れて男たちの怒号。


(姐さん、あっち!)

(ああ――)


 声を殺しつ歩み寄り、身は死角となる柱の元へ。しかしそこから見えた胸を切り裂く光景に、芍は希井斗の静止も空しく舞台へと躍り出た。

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