第壱章 -2- 出刃包丁と夜の街

「さて行こうかね。ご両人。夜道を駆けて遊ぼうかぃ」

 

 力の入れどころも見当たらない空へ、右の足をぐっと踏み込んで勢いをつけて足を伸ばす。はためく羽織と着流しはまるで翼のように風をつかんだ。目の端を流れる闇夜で輪郭がまばらな家々、置かれた木材。まばらな灯火がさらに形を失い線になって視界を流れる。

 その瞬間だけは、かつて戦闘機で空を駆けていた自分に戻る。祖国の家族を守る為、命を失う覚悟で訓練だけを繰り返した。

 

 しかし結果として私の命は繋がれて、守るべき家族はすでにいない。

 

 風が頬を撫でながら流れていく。高度を上げると雲の合間から月光が溢れていた。反転し、身を翻しながら私は空を駆けた。

 大通りを抜けると十字に道が交差し、レンガ造りの高い建物が見えた。あれだけ西洋文化を嫌っておきながら、まだ依存している。人は物に依存しなければ生きていけない。好き嫌いなど口に出すことを拒んでしまうほどに。文明を得た人は結局のところ、物に支配され生きている。

 細く伸びた塔の中央には丸く大きな時計が、針を直上に伸ばしているのが見えた。

 そして広く開けた交差点の中央にふたりの人影が見える。細く伸びる月明かりがふたりの影を伸ばしていた。

 

 片方がおそらく付喪つくもだろう。人の形を保っているから付喪之人つくものひとだろうな。つまり少なくとも人がひとり、物に食われてしまったというわけだ。


 私は歯噛みし、ふたりへ向けて距離を詰める。眼前に迫った時、ふたりがはっきりと見えた。

 砕けた腰で両手を使って後ずさる女がいる。真っ白なワンピースドレスに藍色のブラウス。白いエプロンと頭には黄色のタンポポにも似た髪飾りをつけていた。黒いパンプスは地面を滑り、白い顎先で男を見上げている。男は右手を振り上げており、月光が鈍い銀色を強めて反射した。

 

 包丁を握った男が身につける開襟かいきんシャツはひどく汚れて裾はベルトから出ている。薄茶色のパンツは開襟シャツとは対照的に整えられていて不気味だった。


 間に合うだろか。

 

 私は強く宙を踏む。風を纏って顔を上げ、右足を突き出し男の胸を蹴り上げた。勢いのままに跳ね飛ばされた男は視界から消える。離れた場所から土煙が上がった。ガラガラと重たい石が崩れる音も闇夜に響く。

 

 地に足をつけ、男を飛ばした方向から視線をそらさず見据えていると、着物の裾をつかまれた。見下ろすとすがりつくように女給仕の格好をした女が、私を見上げている。病的と思えるほどに白い肌が月明かりで青白く見えた。影を作るほどのまつ毛は丸い瞳を大きく見せ、小ぶりで整った鼻先とふっくらとした唇が、どこか同じ国の女とは思えなかった。


 なんともこれは美人さんだね。私はできる限りの尊大な笑みを浮かべつつ、キセルを右手に握る。


「こんな夜更けにこんばんは。痴情のもつれかい?」


 そうでないことは知っている。相手は物が人の魂を食って、人の形を持った付喪之人だ。神にでも成り果てようと、さらに人の魂を集めているのだろう。さすがに夜目にも慣れてきたなと肩の力を抜く。


「助けてください! 急にあの男が! 出刃包丁を持って! 私を襲ってきたのです」


 女の声には涙が含まれている。震えた声と虚脱した足に反して袖をつかむ力は筋が浮かぶほどに強い。


「あんたくらい美人なら。恨みくらいは買うだろう? 心当たりはあるかい?」


「いいえ何にも・・・見たこともない人でした」


「そりゃ災難だ。今日のことはすっかり忘れてどこかに消えたらいい」


 腰が・・・と言って女は目線を地面へ向ける。


「それはなんとも面倒くさい。ならそこでじっとしておくことだ。俺の後ろを離れんように」


 はい。と女はようやく袖から力を抜いた。まったく人から私の物を握られるなんて、いい気分がしない。

 私は収まりつつある土煙へと視線を戻す。素肌にじっとりと緩い汗がまとわりつく。頬を湿った風が撫でるのと同時に土煙が縦に裂け、地面に亀裂が走る。地面を裂きつつ目には見えない何かが近づいてきていた。私はとっさに女の首根っこをつかみ、地面を蹴って横へと飛んだ。自分ひとりの重さなら煙にまけても女は違う。なんとも人は重いばかりで役には立たない。

 はね上げられた砂利が体にあたり姿勢を崩す。今度は私も同様に地面に伏せて、裂けた地面の先を見た。包丁を右手に体を揺らしながら歩く開襟シャツの男がいる。

 

 無造作に伸びた髪が方々へ伸び、病的に痩せこけた瞳の見えぬ細い目であるのにもかかわらず、視線は私を、そして後方に控える女に据えられているのはわかった。

 男はゆったりとした鈍色の軌跡が残る動作で、包丁を握ったまま腕を真横に伸ばす。薙ぐように包丁を振るうと、透明なはずの空間が歪む。


 舞い上がる土煙のおかげでよく見えるねぇ。


 ともかく女をなんとかしなければならない。私は紫煙を燻らせて女に吐きかけ口火を切った。


「可憐な洋装も今の世じゃ恨む人も少なくねぇな。ならば共に逃げようかい。風よりも速く霧よりもおぼろに消えてしまおう」

 

 女は丸っこい顔をかしげて私を見ている。私は再び女の首根っこをつかんで地面を跳ねた。足元を風が薙ぐのがわかった。

 なるほど風で裂いているわけだ。

 さすがに刃物の付喪は厄介だ。それも人の魂を食って付喪之人となったなら、余計な能力まで得てしまうからなおさら厄介である。透明な空間の揺らぎは私を追い越し、視線の向こうで、積み上げられた瓦礫を砕く。横に裂かれた瓦礫は舞い上がり、地面に振り注ぎながら、稲光みたいな音を立てる。

 煙に巻かれた女は私の腕に追従し、寄り添うようについてくる。西洋かぶれな建物の端まで飛んで身を下ろす。

 レンガ造りの角に身をかがめると、女は不安そうに私を見上げていた。


「まぁまぁ。説明はできねぇが。悪い夢でも見たと思ってくれ。明日には忘れているよ」


「でもでも。あいつは・・・何なのですか?」


「さぁね。それもまた知らなくていい。明日には消えてる」


 あなたは・・・? と女は濡れた唇を開くも私は答えない。答える必要もない。

 夜の私は朝を迎えて夢と幻に消える。これ以上、今夜は人にかかわるのはごめんだった。

 付喪だけで十分なのだ。

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