第60話

「お約束でもなさっていたんですか?」


 応接間に向かう廊下で三上から尋ねられる。来客に気付きすぐに台所へ来て紅茶とお茶菓子の準備を手伝ってくれた。


「い、いえ……全く」

「この前は突然お父様もいらっしゃいましたが……あの時も一葉様はご存知なかったんですよねぇ」

「はい……」

「嫁入りの日は一葉様おひとりでしたのに……随分ですわね」

「み、三上さん?」


 いつも菩薩のような三上にしては珍しく棘のある言い方だった。


「心配だ気がかりだなんだって言う割にはお二人とも保胤様しか見ていないんですもの」


(あ、やっぱり三上さんも気付いてたんだ……流石長年緒方家に勤めていらっしゃる方だわ……)


「あ……! 申し訳ございません……一葉様のご家族に対して失礼なことを」


 三上はハッと我に返り、一葉に謝罪する。


「……そんなことないです。ありがとうございます」


 自分を庇おうとしてくれる三上の気遣いが嬉しかった。


「失礼いたします」


 応接間の扉をノックして中へと入る。


「……え」


 目に入って来た光景に一葉の身体が固まる。


 ソファに座った玲子の生足が見えた。


 着物の裾ははだけ、白く長い足が応接間の絨毯の上に伸びている。足袋も脱ぎ、綺麗なつま先まで露わになる。その足元、彼女の前に跪いている保胤の後ろ姿。


「な……何をなさってるんですか……?」


 固まっている一葉の代わりに三上が慌てて尋ねる。


「庭で足をくじかれたんです。もう……あんなにはしゃぐからですよ」

「ごめんなさぁい」

 

 甘えかかるような玲子の声。


「あ、あら大変……私がお手当いたします」


 三上がお茶菓子を乗せたトレイを机に置き、玲子に近寄ろうとした。


「結構です。保胤さんが絆創膏を貼ってくださいましたから」


 玲子はピシッと手を前に出し三上を制する。近づかないでと言わんばかりの牽制だった。


「保胤さんって本当にお優しいのね……こんなに気遣いに溢れた方だったなんて感激です」

「僕はあなたがこれほど快活な女性だとは思いませんでした。庭で足をくじくだなんて、まるでおてんば少女だ」

「やだっ! 少女だなんて」


 保胤の言葉に玲子は恥ずかしがるように身を捩る。


「……お紅茶、こちらでよろしいでしょうか」


 一葉は紅茶を注ぎ保胤と玲子二人分のティーカップを机に置こうとした。


「あ、ソファの近くに置いてくださらない? 足が痛くてそこまで移動するが辛いの」


 玲子はソファの傍にあるサイドテーブルを指さす。


「それならお手を」


 保胤は立ち上がり、玲子の手を取る。


「どうせならお姫様だっこで運んでくださると嬉しいわ」

「ふ……本当に子どものような方だ」


 困ったような、どこか楽しんでいる保胤の声。


 一葉は玲子に言われた通り、ソファ近くのサイドテーブルに二人の紅茶を置いた。


「……失礼いたします」


 一葉は急ぎ足で応接間を出る。

 逃げるようにぱたぱたと廊下を走り、そのまま階段を上り自室へと逃げ込むように入るとバタンッと扉を閉める。


 一葉は扉にもたれ掛かり、自分のつま先を見た。

 

 左足の小指。

 そこにはまだあの日の絆創膏が貼ってあった。





「……ッ」

「沁みる?」

「だ、大丈夫です」


 あの日、一葉は保胤から手当てを受けた。

 食堂の椅子に座る一葉の前に保胤は跪き、怪我をした左足を自分の太ももへ置く。


 左足の小指の爪は割れて、足袋に滲んだ血のシミはさらに広がっていた。


 一葉は保胤が着替えている間に足袋を履き替えようとしたが、浴衣に着替え終わった保胤が救急箱を持って降りて来た。

 一葉に椅子に座るよう命じる。これぐらい自分で出来ますと一葉は断ったが保胤は譲らず、大人しくされるがままとなった。


(炊事の次は傷の手当てまで……緒方商会の次期社長になんてことをさせているのかしら……)


 保胤の気遣いはありがたいけれど、いたたまれない気持ちになる。


「結構血が出ていますね……やはり医者を呼んだ方がいいんじゃないかな」


 保胤は消毒液を染み込ませた布で、優しく一葉の小指をぬぐう。


「爪が割れたぐらいで大げさです」

「“ぐらい”じゃない」


 一葉の言葉に被せるように保胤は強く否定する。


「今度から出掛ける時はうちの車を使ってください。僕が出社で出払っている時は車夫を呼んで」


 丁寧に消毒した後、保胤は一葉の小指にくるりと絆創膏を貼った。


「あ……ありがとうございます。お手数お掛けして申し訳ありませんでした」

「いいえ。あ、絆創膏を変える時は言ってください。それも僕がやります」

「子どもじゃないんだから……それに大した怪我じゃありません。数日したら傷も消えます」

「それはそれでちょっと寂しいな」

「えっ?」


 保胤は高級な靴を扱うような丁寧な手付きで一葉の足を持つ。


「あ……あの……もう大丈夫です。離してくださいませんか……?」


 保胤の太ももの上から引っ込めようと足を軽く持ち上げたが、逃げるなとばかりにぐっと掴まれ引き戻される。


「一葉さんの足の爪って随分小さいね」

「そうなんでしょうか……? 他人と比べたことがないので分かりません……」

「小さいです。きれいな桜色で……まるで貝殻みたいだ。あなたはこんなところまで可愛いんですね」


 踵を軽く持ち上げてまるで観察するように一葉の足の指を一本一本触れていく。


「感想は結構ですから……あの、もう離してください」

「うん」

「うんって、保胤さ―――ッ!!」


 一葉は小さな悲鳴をあげた。

 身に覚えのある、生温かい感触が、信じられない場所から感じたからだ。


「ちょっ……何して……ッ」


 一葉が下を見ると、自分の前に跪いていた保胤がさらに頭を下げて一葉の足の甲に口づけていた。


「なんてことを……!」


 保胤の唇は一葉の足の指の股に移動し、親指を口に含む。


「やめて! 汚いから……ッ!」


 ちゅぷっと水音を立てて一葉の指を口から離す。 


「あなたの身体に汚いところなんてありませんよ」

「そういう問題じゃありません!!」

「だめだよ、逃げないで。もう少しだけ……」


 はぷ、と気の抜けた音を立てながら保胤は一葉の親指を食む。


 言い知れぬぞくぞくとした感覚が一葉の背中に立ちのぼる。


「一葉さん……」


 保胤は恍惚な表情を浮かべながら一葉の足を指を一本一本口に含む。分厚い舌は一葉の足の指に絡まりながら強く吸う。そのたびに一葉は声が出そうで必死に自分の口元を押さえた。保胤の動きはますます大胆になっていく。太ももが浮くほど足を高く持ち上げて軽く膝を折り曲げる。小刻みに一葉の足に口づけを落としていく。


 まるでこの行為を一葉に見せつけるようだった。


「や……いや……お願いです……もう止めてください……ッ」


 羞恥で目に涙を溜めながら保胤に懇願する。熱に浮かされた顔で保胤は一葉を見つめる。


「……じゃあ約束してください」

「え……?」

「こんなこと僕以外誰にも絶対させないで。僕以外の人間に触れさせないでください」

「あ……あなた以外で……こんな恥ずかしいことする方誰がいるって言うんです!」

「いますよ。ご自分が思っている以上にあなたは魅力的だから。僕はね、本当は一葉さんを誰にも見せないでこの館にずっと閉じ込めておきたいと思ってるんです」


 そういうと、取り上げられまいと駄々をこねる子どものように保胤は一葉の足をぎゅっと抱え込む。


「僕だけを見て、僕だけに触れて、僕だけを欲しがってくれたら……どんなにいいだろう」


 保胤は一葉の足を下ろして手を離した。ようやく解放されて一葉は安堵したが保胤の顔が徐々に近づいてくる。


「わ……分かりました! 分かりましたからもう止めてください!!」


 保胤の顔の前に両手を広げて口づけを拒む。掌に保胤の薄い唇の感触がして、それだけのことで胸は跳ねた。


「そんな嫌そうに顔を背けなくても……」


 保胤は傷ついたように眉毛を下げる。一葉の手を取ってどけさせて再び口づけを試みる。


「だ……だめ! 今はだめです!」

「どうして? 口づけなんて今更でしょう?」


 一葉はずるずると椅子から滑り落ちながら保胤から逃れようとする。


「だ、だ、だって……! 自分の足の味なんて知りたくないです……!!」

「…………ぷっ」


 一葉の言葉に保胤は吹き出した。笑いのツボを押されたのか一葉から身を離してくつくつと笑っている。


 そうしてひとしきり笑った後、「おいしいですよ?」と余計な一言を発してさらに一葉の怒りを買うのだった。





「誰にもさせないでって言っておいて……自分はどうなんですか……」


 一葉はあの日の保胤を思い出しながらぽつりと寂し気に呟く。左足の足袋を脱ぐと絆創膏は剥がれかけていた。

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