第55話

「……痛ッ」


 歩くたびに足がじんじんと痛む。

 よくみると、白い足袋は左足の小指のあたりが血で滲んでいた。長距離を歩きすぎて足を痛めてしまったようだ。


 緒方家の館は都内に位置するが、高低差の激しい高台の街にあった。

 江戸時代の地割りの名残が残る街で、周辺は武家屋敷の広い邸宅が並んでいる。いわば高級住宅街だ。住民は車を所持しているのがあたり前で、歩いて移動する人間は少ない。その中でも緒方家の邸宅はかつて藩主の山荘があった場所に建てられたこともあり、深い深い森の中にあった。


「……んしょっと」


 痛む足を引きずりながら両手に抱えた荷物を持ち直し、一葉はゆっくり歩く。森の中ということもあり周辺は夜のように暗く静かだった。ぽつぽつと見える小さな街灯を頼りに館へと続く長い坂道を一歩、一歩登っていく。


「あ……」


 ようやく正面玄関が見えた。

 一葉は気力をふり絞って、前へ前へと進んでいく。


「か、一葉様!!」


 玄関を開けてただいま帰りましたと声を出す前に三上が飛んできた。


「ご無事で良かった……! お帰りにならないから心配いたしました! 一体どうなさったんです……!?」

「三上さん、ごめんなさい……お買い物してたら道に迷っちゃって……」


 手に持っていたとうの籠を三上に見せるようにひょいと持ち上げる。中にはじゃが芋、玉ねぎ、人参。杉の経木きょうぎで包まれた牛肉が入っていた。


「ずっとお店を探されていたのですか……? 三上が買いに行きましたのに……!」

「……あ、ええと……じ、実家に立ち寄っていたんです! 長居してしまって、それで遅くなっただけなんです!」

「そ……そうなのですか……?」

「お夕飯の支度が遅くなっちゃってごめんなさい……すぐ準備しますね!」


 一葉は急ぎ足で台所へ向かおうとした。

 三上がためらいがちに一葉の背中に声を掛ける。


「あの、一葉様。申し訳ありません。私、ちょっと用がありまして……本日はこれにて失礼をさせていただこうかと思っているんです」

「あ……!」


 一葉は血の気が引き、顔を引き攣らせる。


「わ……私が帰ってこないせいでお待たせしてしまいましたね……本当にごめんなさい……」


 三上が首を振る。


「一葉様は何もお気になさらないでくださいませ。お夕飯の準備、お手伝いが出来ずに申し訳ありません」


 三上が深々と頭を下げるものだから、一葉はますますいたたまれない気持ちになった。


 くつくつと鍋の中でお湯が煮える。

 トントンと包丁で野菜を切る。

 広い館に一人だとやけに大きく聞こえる。


(三上さんに迷惑掛けちゃったな……あんな嘘までついて……)


 道に迷って帰るのが遅くなったのは半分嘘だった。

 玲子と別れた後、一葉は近くの河川敷でぼんやりと時間を潰していた。家を出る前は早く帰りたいと思っていたのに、真っすぐに帰る気持ちにどうしてもなれなかった。

 

 軽く油のひいた鍋に牛肉を入れる。炒めて白っぽくなったら一口大に切ったじゃが芋、人参、玉ねぎを入れる。


(料理はいいな……作っている間は他のこと何も考えなくて済むから)


 野菜にも油が回ったら今度は浸かるほどの水と、酒を大匙入れて蓋をする。鍋を見つめながら一葉はそっと自分の襟足を触れた。切った時よりも少しだけ伸びているように感じた。


 ――大丈夫、髪なんてすぐに伸びるもの

 ――全て終わったら好きなだけ伸ばせばいい

 ――髪も身体も自由になれるのだから


 自分を慰めるために何度も何度もそう言い聞かせてきた。だが、髪が伸びたとしても自由になったとしても、あの日切り刻まれた心は元には戻らない。


(保胤さん……初めて会った時、私の髪が短いことどう思われたかしら……)


 この館に来て初めて保胤と会った時のことを思い出す。


(私が名乗った時……嘘だって言ってたな)


 緒方家の庭で初めて会った時、保胤は睨みながら一葉に近づいてきた。不審者に遭遇したかのような形相だった。


 ――え、あ、ええと、か、勝手に入って申し訳ありません! 喜多治一葉でございます!


 ――嘘だな


 あの時の怪訝な保胤の顔を思い出す。


(あれは、私がこんな失礼なことする人間だとは思わなかったって意味だったのかな)


 自分が好意を寄せた相手はこんな無礼で傲慢な人間だったのだろうかと失望したに違いない。


(ずっと傷つけてばかりだわ……)


 保胤はあくまで任務の標的。

 緒方商会の情報を聞き出すためだけの結婚。

 どう思われたってどうでもいいはずなのに、彼を傷つけたのだと思うといつも胸が苦しくなる。


(……保胤さん今夜は遅いんだよね)


 一葉は胸のあたりをぎゅっと握る。


(早く……帰って来ないかな)


 足の小指の痛みは増して、立っているのが段々と辛くなってきた。一葉の身体がふらりと揺れた。


「お鍋、沸騰してますよ?」


 ――カチリ。


 背後から手が伸びて鍋の火を止める。ふらつく身体を支えるように大きな掌に肩を抱かれる。顔をあげると、一葉は目を大きく見開いた。


「ただいま、一葉さん」


 まだ帰るはずのない保胤がそばにいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る