第49話
「一葉さん?」
一葉は保胤の腕を掴んでいた手を上げて遠慮がちに保胤の頬に触れた。高揚した顔で涙目になりながら保胤の顔に近づいていく。
「……!」
口づけなどついさっき保胤としたのが生まれて初めてだった。自分の方からするなんて、はしたなさと恥ずかしさで気を失いそうだ。
だけど、どうすれば保胤が安心してくれるのか考えた末、この方法以外思いつかなかったのだ。恋愛経験も乏しく色指南も受けていない一葉にはこれが精一杯だった。
「あ……少しズレちゃいましたね……」
目を瞑ったままで顔を近づけたものだから位置が定まらず保胤の唇の端に自分の唇を押し付ける形となった。丁度そこは保胤の傷に当たる場所で、目を開けると薄ピンク色のケロイドが見えた。
「わっ!」
背中から掻き抱くように一葉の身体を引き寄せる。
「あ……ご、ごめんなさい。勝手に傷に触るようなことして……痛かったですか?」
保胤は無言のまま一葉の肩に額を乗せてぐりぐりと押し付ける。まるで大きな獣が身体を擦りつけて甘えているような仕草だ。
「ねぇ……もう一回してください。もう一回あなたからして」
一葉は保胤の頬をゆっくりと撫でる。
(……やっぱり、ずるい人。そんな顔……私に見せないでよ)
代々続く名家・緒方家の嫡子であり、東京の、いや日本経済の中心に立つ大商会の重役。商人として別格の才能を持ち私情では決して動かず徹底的な秘密主義。冷酷無情な覆面の男。
そんな男が、自分の前では笑って怒って妬いて悲しんで、幼い子どものように甘える。
「一葉さん……駄目ですか? やはり僕では嫌?」
保胤はねだるように一葉の掌に自分の手を重ねて頬を寄せる。
(愛おしいだなんて……思ってしまうじゃない)
自分にだけさらけ出される素顔。傷のあるこの男が堪らなく愛おしい。
(これは……任務なのに……)
緒方家という家柄も、
大商会の重役という立場も、
上品で端整な面貌も一切関係なく、ただのひとりの男として自分の前に全てをさらけ出すこの男のことを。
(あなたのことを……好きになってしまいそうになる……)
一葉は自分の気持ちから目をそらすように、目を閉じて保胤に唇を再び自分の唇を重ねた。
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