第7話
実は、僕は動体視力にはそれなりに自信がある。幼稚園の頃からドッジボールではいつも最後まで残っていたし、割と何かを見逃すということも少ない。視界外のものはともかく、視界の中であれば日常生活で見えるものなら大抵は目で追える。要はものを避けるのが得意な方なのだ。痛いのを嫌がる臆病な性格も関係しているかもしれない。しかしそれは当然、自分に向かってきたものに対しての話であり、自ら向かっていったものを避けるられるほど器用なわけではなくて。
結論を述べると、僕は足の痛みに加えて頬の痛みも負っているのだった。結構じんじんとした痛みと熱を頬から感じるので、鏡で見れば赤さがよくわかるのではないだろうか。
「せ、世良町君……!」
「……!」
文字通り突然間に割って入った僕に、先ほどの口論の当事者二人を含め周囲の人々が驚きの視線を向けている。対して僕は痛みのせいもあるのか比較的落ち着いている。あれこれ考えるより、痛みが勝っていたのだ。
「ち、違う!私はそんなつもりじゃ……私のせいじゃない!」
これまで見たことがないくらいにあたふたしている女帝。実際、無意識のうちに手が出たんだろう。加えて、その手を出した相手は自分が先ほどまで怒りを向けていた相手とは違う人物なのだ。混乱するのも無理はない。間の悪いことに、相手は一応足を怪我しており、叩かれた衝撃で踏ん張ることもできず、倒れ込むように近くの机に手をついたのも罪悪心や恐怖心を煽ったのだろう。
「……」
何か言葉をかけようと体勢を起こして、女帝の方を向くが、何も言葉が出てこない。そのせいか、殴られたことを怒ってただ無言で睨みつけているように見えたのこもしれない。
「ッ!」
女帝は唐突に駆け出して教室から出ていく。その一部始終を見ていた教室中の生徒は何も言葉を発せずにいた。……このままはまずい。僕は机の中から急いで手帳を取り出し、ペンを走らせる。そしてそのまま、ページを破いた。
「お前もこい。どうせサボり常習犯だろ」
「……そうだね」
彼女の返答を聞いて、教卓を経由して教室から出る。女帝が走って行ったのは東側だ。とにかく追いかけなくては。
「よーし、午後の授業始めるぞー……ん?空席があるが」
教室に入ってきた教師は空席を見ると一瞬疑問符を浮かべたが、すぐに教卓に置かれたメモに気がついた。
「なになに……2人とも体調不良か?まあ、避難訓練でなんかあったのかもしれんし仕方ないか。ほら、日直号令ー」
メモ用紙には体調不良で授業を欠席するという旨の連絡事項。世良町の怪我と、本人の日ごろの真面目な態度も相まって、教師はすんなりそれを受け入れる。
至って普段通りの教員と、昼休み終了ギリギリに教室に戻ってきた何も知らない生徒はさほど関心を示すことなく授業の準備に入る。一方、先ほどの一連の出来事を見ていた生徒たちは、その残されたメモが嘘であることを分かり切っていたが、あえてそれを指摘するようなことはしなかった。面倒ごとになるのを恐れたのか、知っている者同士、周囲の生徒と顔を見合わせては、何も知らない生徒と同様にワンテンポ遅れて準備を始める。彼らは時の流れに従って、普段通りの日常に戻っていった。
「どこ行ったんだ……?」
「多分外だね」
走ることは出来ないので、壁に手を当てながらも、やや急足で女帝の姿を探す。ボソッと呟いた言葉に横を歩く彼女が答えた。
「あの子は東側に向かって行ったけど、東階段の上は屋上だから出られない。かといって引き返すとなれば、授業中の他学年の教室前を横切らなきゃならない。となると、階段を降りてそのまま昇降口付近に向かったと考えるのが自然かな。昇降口横切ったら来賓とか外部の人間用に受付があるけど、あそこは常に誰かしらいるからそっちには行かないだろうし」
「……よく分かるな」
確かに言われてみればそのルートを通った可能性が一番高い。授業が始まった以上、人目に触れるのは避けたいだろう。僕だってそうだ。
「可能性の一つだよ。トイレに駆け込んだとかもあり得るし」
彼女は僕に歩調を合わせながら答える。足を気遣ってくれているようだが、目を合わせようとはせず、ただ前を見据えている。
「……ごめんね。私を庇ったせいで……」
一呼吸置いてからそう口にされた彼女の言葉は、いつもより随分と元気がない。ともすれば大して大きくもない2人分の足音で消えてしまうのではないかとさえ思われた。
「それは僕が勝手にやったことだから気にしなくて良い」
実際、手を上げたのは向こうであって、謝るべきは彼女ではない。しかし、数歩歩いてから僕は再び口を開く。
「でもお前、わざと煽っただろ。それも必要以上に」
「……」
やはりこちらに目を合わせない。実のところあの会話には違和感があった。彼女は確かに人の気持ちに疎いところがあるし、地雷を踏み抜くようなところがある。でも、そこには悪気がないのだ。思ったことをそのまま言った結果、相手を不快にさせているというタイプである。しかし、今回は明らかにそうではなかった。彼女は思ったままを口にしたのではなく、感情を乗せ、敵対の意志を向けていたのだから。
「別に怒ってるわけじゃない。実際、見下されてたんだろうし、お前にどんな考えがあろうとも、言い返されてタジタジしてるあいつを見るのは嬉しかった。悪いけど、ざまあみろ、とさえ思ったよ」
「……それで?」
相変わらず視線を合わせてはくれないが、無言を貫くことなく彼女は僕の言葉の先を促す。その反応を受けて、僕はゆっくりと続けた。
「でも、最後のはダメだ。全く分からない相手の親のことさえ悪く言うのは良くない。子どもみたいな理由だけど、僕がそれをされたら、嫌だから」
彼女と話していてはずなのに、独り言のように小さく漏れ出た言葉。そう、僕はただ嫌だったのだ。親という存在を悪く言われることが。……いや、それだけではない。彼女の口から、特定の誰かを貶す言葉を、聴きたくなかったのだ。
「……ふーん」
彼女は階段を降りる足を止めた。少し先を降りていた僕は踊り場から彼女を見上げる。その顔に少し影がかかっているように見えるのは、きっと角度のせいだけではない。階段の手すりを撫でるように手を置き、彼女は続けた。
「……子どもなのは私も同じだよ」
「え?」
「私、我儘結構言うし」
一段、彼女が階段を下る。
「周りに迷惑いっぱいかけるし」
また一段。
「面白そうって理由だけで行動することも多い」
トンっ、と彼女が階段を降りるたびに軽い足音が耳に届く。
「あとはね……」
さらにぐっと距離を詰めてくる。もう手を出せば触れられる距離。
「割と怒っちゃうんだ」
それでも更に近づいてくる彼女に思わず後退りする。そんな僕を見て、彼女はうっすらと口元に笑みを浮かべながら、その軽い足音を寄せてくる。
「だからね……」
足がもつれた。ぐっと視界が下降する。体を後退させようにも、背中から硬い感触が返ってくるだけ。やや薄めの制服越しに、微かに壁の冷たさを感じる。恐怖か、戸惑い。或いは。自分がどんな表情をしているかも分からない。この場でそれを知るのは彼女ただ1人。動かなくなった視界を、ただただ彼女が埋めていく。
座った状態の僕に視線を合わせるように、彼女は僕の前で両膝をついた。磨かれたように美しい瞳が、真っ直ぐに僕を見据えている。水鏡のようなそれに、意識もろとも惹きつけられた。
ふと、頬に感じられた温もり。彼女が、僕の頬に触れている。しなやかな指先が、彼女の体温が、文字通り頬を通して伝わってくる。その感覚は右だけではなく、左にも。彼女は、僕が顔を逸らすことも許さなかった。
彼女の瞳の中に、僕が写った。この距離ならば瞬きの音さえ感じらそうな、それほどの距離。あまりにも近づいた彼女の顔に、思わずギュッと目を瞑った。
その時───
コツン
「もっと自分を大切にして。君が我慢できても、私は我慢できないんだから」
額を合わせて、紡がれた彼女の言葉。優しさ、そして悲しさを感じさせたそれは、微かに震えていたように聴こえた。
そのまま、僕達は息の仕方を忘れた彫像になった。
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