木陰の彼女は~逃げた先で出会った不思議ちゃんと僕の話~

雨菊小枝

第1部

第1話

 長いものには巻かれるべきかどうかと問われれば巻かれるべきだと思う。人ごみに逆らって行動しても基本自分に得はないだろうし、空気を読まない言動は白い目で見られるものだ。無抵抗、無接触、それをこなせばきっとそれなりの毎日が送れるようにこの世界はできている。そんなことは分かっている。それでも感情は理性で制御できないことがあるというのもまた事実なわけで。結論を述べると───


「その辺にしといたら?」


 その発言とともにあの場面に一石投じた僕の行動はあまりに理性的でなく、僕らしくないものだったのである。







 いじめというのは年、国、場所関係なくどこでも起こりえる。人間には優劣に限らず、差がある。差があれば侮蔑や嫉妬が生まれるもので、自分より下だと感じるものに攻撃してしまう。人間はそういう生き物なのだ。弱いものをいじめたくなるというのは生物の本能みたいなところがあるのだろう。


 教室の隅、一人の女子に複数人の男女が寄ってたかって、やれ調子乗ってるだの、やれ気味が悪いだの口を開けば罵詈雑言、僕が見たのはそんな光景だ。暴力を振るったり物を隠したりという類のいじめではない。やってはいけないことと認識してか、あるいはいじめの証拠が残らないようにするためかはわからないが、どのみち見ていて気持ちのいいものではなかった。少女はもちろん、見て見ぬふりするクラスメイトもやはり笑顔とは言えず、終始笑顔なのはいじめている当人たちだけ。そんな反吐が出そうな光景に投げかけた言葉は場を一時硬直させるには十分だったらしい。


 その場でのいじめは一応収まったが、後日以降、今度は僕が無視されるようになった。ただのクラスメイトはおろか、仲の良かった友人でさえ挨拶を返してくれない。クラス中の気味の悪い視線と空気が僕にまとわりついていた。どうやらいじめていた方々のクラスでの影響力は想像以上に強く、また、僕の友人との関係は想像以上に脆かったようだ。いや、そもそも新学年になってまだ間もない時期。友達なんてもの、僕にはいなかったのかもしれない。1年生の時に同じクラスだった人もいるけど、そういう人と関係を深めておけば、また違った今あったんだろうか。そんなありもしない可能性を思い浮かべてしまう。




 これまで当たり前だったものが急になくなり、とてもじゃないが居心地のいいとは言えない環境。昼休みになっても開くことのない己の口。相変わらず嫌な視界、気味の悪い音。僕は逃げるように弁当を抱えて教室を後にする。そんな日々が一、二週間も続けば多感な思春期男子の精神はすっかり疲弊してしまっていた。


 高校2年生を、青春真っただ中にあるだろう時間を満喫するつもりでいたのに。







 季節は五月中旬。比較的過ごしやすい時期のはずなのに、人目が気になってしょうがない。クラスや学年に関係なく、すれ違う人間の目が、話す生徒の声が、どれもが自分を指しているような気さえする。


 いつものように教室を去った後、廊下を進み行く。自分の歩みがだんだん早くなる。少しでも遠く、人の姿も声も届かないどこか静かな場所へ行きたかった。


 ……そうだ。第二校舎の方なら人は少ないのではないだろうか。本校舎からは離れているし、人通りも少ない。校舎裏の方ならゆっくりと一人で過ごせるはずだ。そんな考えのもと、第二校舎の裏を目指し、最後の角を曲がる。その瞬間だった。


 かすかに吹いた爽やかな風。風によって木の葉達が音を奏でる。日の光を存分に受ける木の下、ベンチに腰掛ける一人の少女の姿があった。木漏れ日の中、目線を落とし小さな文庫本をめくっている。ショートヘア、でいいのだろうか。丁寧に切りそろえられた髪がふわりとして見えるのは風の影響だけではないだろう。やや離れていてもわかる端正な顔立ちは高校生にしてはずいぶんと大人びて見えた。美しく、どこか現実味にかけるような光景を前に、先ほどまで感じていた焦燥感や苛立ち、悲しみは不思議なくらいに落ち着き、美術館で絵画でも見ているような何とも言い表せない気持ちが僕の心に現れたのだった。


 すっかり読書に没頭しているのか、その場から動かない僕に少女は気が付いた様子がない。時が止まったようだった。


 そんな沈黙を破ったのは一際強い風。少女の手元から何かが僕の方に飛ばされてきた。思わず、飛んできたそれに両手を向ける。風が収まった後、そっと手を開くと中にあったのは月とウサギが描かれたかわいらしくもどこか風流な栞。いいセンスだなあと思っていたが、ハッとして顔をあげる。そこには、ハトに豆鉄砲を食らったようにキョトンとした先ほどの少女がいたのだった。


「あ、えーと……これ」


 少女に歩み寄った後、そう告げながら先ほどキャッチしたしおりを差し出す。その様はさながら初めてお見合いをさせられている若者である。


「あ、どうも。ありがとうございます」


 少女は声を発し、恐る恐る栞を受け取る。急に現れた僕に対してやや警戒心が見られるものの、その栞は大切なものだったのか、かすかに口をほころばせていた。


「あの……」


 少女は続ける。何を言われるのかと少々身構えたら───


「弁当、大丈夫……?」


「あ」


 思わず振り返る。両手で物をキャッチしようとすれば、手にしていた物は当然手放す。無意識のうちに、風呂敷に包まれた弁当箱を地に落としてしまっていたようで、見事に上下さかさまになっていた。慌てて駆け寄って、恐る恐る開いてみる。中身を確認して、僕は苦笑いしながら告げるのだった。


「何とか食べられはするかと」







 それから、彼女から再び感謝と謝罪を受け取った後、弁当も開けてしまったのならここで食べていってはどうか、とベンチへの着席を勧められた。悪いし結構だと最初は断ったのだが、もたもたしていたら昼休みが終わってしまうとか、自分のせいでもあるのだから場所くらい提供すると言われ、他に行く当てもなかった僕はお言葉に甘えることにした。


 正直、人がいるとは想定外だったが、彼女と過ごすことにはこれまでのような抵抗は少なかった。それは、彼女が少なくとも同じクラスの人間ではないからか、あるいは先ほど見た光景のせいか、はたまた美人だったからなのかは分かりかねる。しかし、とにかく落ち着いて昼食をとることが可能になったという点ではありがたいことだった。


 僕が横で弁当を食べ始めると、彼女は横で再び読書を始める。ここ最近は場所をとっかえひっかえして弁当を口にしていた。口に運んだものからは味なんて感じられなくて、作ってくれた母に精一杯の作り笑いで「ごちそうさま」と告げる毎日だった。


 しかし今日は違う。木漏れ日の温かさ、風の涼しさは安らぎを感じさせる。木々のさざめき、彼女が本をめくる音には耳を塞ごうなどとは思わない。いつもより五感が喜んでいるような気がしつつ、ゆっくりと口に卵焼きを運ぶ。多少形は崩れてしまっているが、噛むとトロリと甘さが広がった。それはずいぶんと久しぶりに感じた甘さで、幼いころから大好きな味。ああ、三つ子の魂百までとはこのことか。自分の久しい感情を思い出させてくれた、おふくろの味だった。


「何か、あったの?」


 ふと、彼女が問いかけた。どうして、と返すと彼女は心配そうにこう言った。


「だって、泣いてるみたいだから」


「え」


 そう言われて初めて、自分の頬を涙が伝っていることに気が付いた。慌てて制服で拭い去り、何ともないと告げる。


「ほら、そろそろ予鈴もなるし、戻ろう」


 慌てて残りの弁当を頬張ると彼女にそう言って席を立とうとする。そんな僕の服の袖を彼女は掴んで───


「ちょっと、話さない?」


 優しい声音で、どこか不安そうにそう言った。先ほどの絵画のようなものとはまた異なる、儚げさと、何か不思議さを感じる表情に思わず息をのむ。そうして固まった時間はどれほどだったのかはわからない。自分を現実に引き戻したのはいつもより遠く聞こえる予鈴の音だった。


「やーい、さぼりー」


 いたずらっぽくはにかむ少女を見て、観念したように僕は腰を下ろす。




 罪悪感や背徳感がある一方で、どこか湧き上がる不思議な気持ち。僕、世良町匠せらまちなるは十六歳にして初めて授業をさぼったのだった。

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