第4話 スリーパーセル
ハン・ソジュンは北朝鮮の工作員、いわゆるスリーパーセルとして活動して早10年が経っていた。スリーパーセル。名前はカッコいいが、活動自体全くと言っていいほどしていない。そもそも本国からの仕送りなど何もなく、ここ数年はただただ生活に追われる日々だった。日本語は本国で叩き込まれ、完璧である自信があった。しかし最初に潜伏した街の勤め先である工場では頻繁に「どこ出身?」と聞かれた。ヤバい、バレているのか?なりすました日本人の住所地である東京と言っても、大抵は困惑された。
「あ、ふーん。」
「親御さんが西の方なんだね。」
テレビを見てもソジュンの言葉は他の日本人とも遜色ないはずなのに。後々分かったことだが、ソジュンは完璧な関西弁を身に着けてしまっていたのだ。その気づきがあってから、出身を聞かれたら必ず「大阪」と答えるようにした。
ソジュンたち工作員は有事の際には武器を持って各主要都市で蜂起することになっている。警察署を抑え、鉄道を破壊し、主要道路を寸断する。しかし瀬取り船に乗って密入国するのが精一杯だったし、武器なんて持ち込めるはずなんてなかった。しかも同志達はバレないようにてんでバラバラに上陸しているので、結局合流することができなかった。唯一の連絡手段は本国からのラジオ周波数だが、そもそもラジオ自体見つけるのが至難の技だった。目立たないよう、個人商店の電気屋に行ったら、今日日そんなの扱ってないよ。防災用品だったらヨドバシにでも売ってんじゃない?と言われた。そんなカメラだらけの場所には行きたくない。ラジオは諦め、生活基盤を築くことを優先した。
日本に無事上陸できたら朝鮮総連に行け、と言われていた。しかしいざ行ってみると、「厄介な奴が来た。」という顔をされた。エントランスのベンチで座らされていると、中年の男が面倒くさそうな顔をして近寄ってきた。
「同志よ、お疲れ様。とりあえずこれで頑張れ。」
封筒を手渡され、無言で建物の外に追い出された。封筒を開けてみると二万円が入っていた。ソジュンは途方に暮れたがまずは住処だと思い、東京を横断している列車に乗って西に行けるところまで行った。そこで背乗りの免許証を使って家を借り、その足で職業安定所に行き工場の仕事を斡旋してもらったのである。しかし、日本の役所は天国みたいなところであった。祖国では役人といえば官憲みたいなものである。ワイロを渡さないと働いてくれないのに、飛び込みの見ず知らずの男が窓口で「働きたいんです。」と言っただけで様々なことを斡旋してくれた。健康保険と年金だけはやたらと根掘りは葉掘り聞かれた。身分証の人物は天涯孤独の身だったが、保険料も年金も未納だったらしい。しかし、全国を放浪していたが金も尽きたし飽きたので働きたいと思った、と適当なことを言ったら特段詮索もされずに通った。本国だったら拷問されているところだ。
ともあれ、日本人に転生し生活基盤を築く事ができた。数年はその工場で働き、その後に吉祥寺まで出てきて地元会社の臨時任用事務員の職を得た。もう日本人として一生を終えてもいいやとも思ったが、仲間と連絡を取りたくなっていた。要は寂しかったのである。自分を偽り続けて生きるのは苦しい。せめて同じ境遇の同志達と傷を舐め合いたいと思った。
ラジオは買っていたがそもそも東京だと本国からの電波を受信できなかった。訓練所の仲間達とどうやって連絡を取り合えば良いのだろうか。当時のことを思いかえす。厳しい訓練所だったが、唯一オリンピック放送だけはテレビで見ることができたのを思い出した。南朝鮮の女のフィギュアスケートをみんなして食い入るように見た。あの思い出だ。俺は何も発信していない俺のSNSアカウントでハッシュタグを付けてポストした。
「#キム・ヨナのレオタードで抜きたい」
ポストしたが、なんだかバカらしくなってスマホをベッドに放った。そのまま横になっていたら気がついたら朝になっていた。
そろそろ仕事に行く時間だな、と思ってスマホを取ったら通知が100件近くあった。SNSのDMだ。
「同志よ、久しぶりだな。元気か?」
「あの頃の小さいブラウン管テレビを思い出すな。今は液晶40インチの液晶だ。」
「南朝鮮のオリンピックも面白かったな。」
そんなDMで溢れていた。メッセージを読み、ソジュンは苦楽を共にした仲間の顔を思い出し涙が込み上げてきた。アイコンに自分の顔を使っている奴もいて、懐かしさと危うさが混ざる複雑な感情に囚われた。
「会いたい。」
中には公安のスパイもいるかも知れない。だが、その感情には勝てなかった。最初にDMを寄越した奴とメッセージのやり取りをした。
「毎日ジャガイモ粥で大変だったよな。今、1日1回は何かしらの肉が食べられるのが信じられない。」
「『お前らが人民を解放するんだぞ!この程度の訓練で音を上げてどうする!』って丸太を担いで冬の川を渡河する訓練覚えてるか?」
「太った教官殿を『資本主義の豚』って揶揄してたよな。」
ハングル文字で続けるDMでこの人物は誰か分かってきた。
「君、キム・ミンソクだろ。」
「そういう君こそソジュン、ハン・ソジュンだ。」
お互い意思が通じ合っていた。
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