07-覚醒、継がれるモノ
パーカーのフードを、深くかぶる。
視界を遮り、俯きながら歩く。
アスファルトを見ながら、淡々と靴裏を地面に叩きつける。
気配を感じながら道行く人を避け、進んでゆく。
やがて辿り着いたのは、閑静な住宅街の一軒家だった。
二階堂家からそう遠くない二階建ての住宅、クリーム色に塗られた壁に囲まれた家。
僕はその中に求めていた気配がするのを感じ、静かに汎用術式を発動する。
光学系の汎用術式による、簡易迷彩。
道行く人の視線から消えると、そのまま僕は家屋の玄関に手を伸ばす。
糸を鍵穴に侵入させ、形作る。
固まった糸の塊を捻り、錠前を開いた。
ドアを静かに空け、内部に入り後ろ手に閉める。
持ち歩いていた袋を手に取り、靴を包んでから静かに家の中に入り込んだ。
内側に張り込んだ緩衝材が音を殺すのを確認しつつ、床板を踏み進める。
気配は、二階。
静かに階段を上っていき、その気配のある部屋の前。
ドアは少し開いており、その奥ではドアに背を向け立ち尽くした男が見えた。
辿り着き、ドアの前で深呼吸をした、その時である。
「話しかけないでくれ!」
唐突な言葉に、思わず息を呑んだ。
窓の外を睨みながら、男は……下野間さんは、叫んでいた。
凍り付く。
完全に思考が硬直し、体が固まってしまう。
「頼む、頼む、出ていってくれ! 何も、話したくないんだ!」
見れば下野間さんは、真っ直ぐに立ち尽くしていた。
両手は真っ直ぐ下ろして拳を握りしめており、万力が籠められぶるぶると震えている。
叫び終えて、十数秒。
下野間さんの荒い呼吸が、ゆっくりと静まってゆく。
気配察知に感覚。
反射的に、奥に移動する。
少し待つと、階段を上ってきた、金髪の年配の女性……恐らくは下野間さんの奥さんが見えて。
「話しかけないでくれ!」
再びの、咆哮。
奥さんは慣れたもので、気にするでもなくドアを開き、室内に。
「頼む、頼む、出ていってくれ!」
「はいはい、洗濯物を仕舞ったら出ていきますよ」
「……お前か」
穏やかな声。
握りしめた拳から力が抜け、肩が緩やかに落ちる。
奥さんは気にするでもなく、淡々と洗濯物を仕舞っていた。
「……すまない。どうしても、どうしてもなんだ」
「分かっていますよ。私も……正気では居られない。ただ、喉のケアはきちんとしてください。爪の手入れもしないと、握りしめた時手が傷ついてしまいますからね」
「……あぁ、ありがとう」
下野間さんは、そっと自身の喉を撫でた。
その時見えた掌は、確かにかさぶたが見えて、爪で傷つけてしまった跡が垣間見える。
傷の跡は古く、治りかけというのが見て分かった。
「……一週間、か」
小さく、下野間さんが呟いた。
そう、チセが命を落としてから……一週間。
僕にとって、好きな人で……好きだったかどうか、分からなくなってしまった人。
僕を呪った二階堂ヒカリの転生体にして、それ故に僕の脳髄に住まう術式が恋せよと命令した相手。
確かに愛はあったはずだけれど、その愛を信じられない相手。
「……何度でも言いますが。できるだけ抑えてください。
人の気配を感じるたびに、喉が張り裂けそうな叫びをしていては……嫌な病気や怪我に繋がってしまいそうです」
「……あぁ、できるだけ、気を付ける」
思わず、息を呑みそうになる。
辛うじて体の制御が間に合い、どうにか体を強張らせて止めた。
そしてゆっくりと、静かな息を吐く。
光学術式が続いているとはいえ、あまりに露骨な音を立ててしまえば、存在を知られかねない。
「俺は……ユキオを、息子のように思っていた」
心臓が跳ねる。
動揺を抑え込むのに、全力で力み、体中を硬直させた。
「親に……マトモな愛を貰っていた感じではなくて、どこかずっと寂しそうで、けど仕事はちゃんとしていて。
まぁ、健気だったんだな。
初めて会ってから、ずっと憔悴し続けていて……。
それでもアイツは、前に進む事を辞めようとしなかった」
心臓の音がうるさい。
廊下から部屋の中まで聞こえそうな、爆音が僕の中で響く。
「そして……俺は、それに付け込んだ。
アイツが最初に本当に壊れそうになった時……。
自分でフォローを入れず、娘を使った」
多分、僕がナギをこの手にかけた後。
三年前の、春から夏にかけて。
「言い分は、あるさ。
俺が直接ユキオに踏み込み過ぎて反感を買えば、アイツとの取引がなくなる可能性があった。
だからと言って放っておけば、ユキオが潰れかねなかった。
そうなれば……今の地位ではなくなって、減給になる。
これからチセの学費もあるし、バンド生活とか言っているあの馬鹿がにっちもさっちも行かず帰ってきた時、迎えてやる余裕は……欲しい。
チセ本人も乗り気で……だから、最悪ユキオと決裂したら、娘がすまんなで済むと……あの娘を紹介した」
金のためさ、と下野間さんが小さくつぶやいた。
僕は、耳で聞いた言葉が咀嚼しきれず……無言でただただ、首を横に振る事しかできない。
どういう意味の仕草なのか、自分自身でも理解できないままに。
「だから俺の、責任がある。
ユキオにチセを紹介したのは……俺で」
思わず、感情のままに一歩踏み出して。
「なのに俺は……ユキオと会ったら、殴るだろう」
その一歩で、足は止まった。
「殴って……きっとアイツが死んでも、殴るのを辞めない。
だから……会いたくない。
話しかけてほしくない。来てほしくないんだ。見たくない。
やめてくれ……頼むから、俺に、会いに……来ないでくれ……」
下野間さんは立ち尽くしたまま涙を零し、嗚咽を漏らし始めた。
僕は、そっと息を整えながら……静かに後ずさる。
踵を返す。
行きと同じように、そっと音を立てずに階段を下りてゆき……。
この家から、去って行った。
*
家族に決意を告げて、決裂し。
それでも僕は、最後の心残りを無くしたくて、下野間さんに会いに行って……。
耐え切れずに、逃げ出した。
がむしゃらに走って、走り抜けて。
気付けば僕は、実家の近所の、繁華街に来ていた。
秋も深まった頃だというのに、長々と走った所為か、じんわりと汗がにじむ。
ふと、人とぶつかりそうになって、自分が光学迷彩をかけたままであることに気づいた。
避け、人の往来を縫うように歩き、光学迷彩を解こうと人目を避けた路地裏を目指す。
横断歩道を超えて、大通りから一本裏へ。
洒落た靴屋を超えたあたり、暫く行くと小さな広場があり、移動販売の店舗と腰かけられるベンチが集まっている。
その奥、細い裏路地を目指して歩く、その途中だった。
「良かった、空いているみたいだね、ソウタくん」
「おう、ラッキーだな」
背後で声。
振り返ると、ソウタと、同い年ぐらいの女性とが、手をつないで歩いていた。
二人の手には、そのあたりの移動販売で買ったらしいアイスクリーム。
恐らくは婚約者との、紛うことなきデートである。
ベンチに腰掛ける二人に、僕は興味と気まずさの半々入り混じったような心地で、その場を去ろうとして。
「……一週間、だね」
「あぁ」
思わず、足を止める。
振り向き、一瞬悩んで……僕は人通りのない、ベンチの裏側にゆっくりと移動した。
自分でも、何故そうしたのか、上手く説明はできない。
趣味の悪い事だと思うけれど、それでも止められず、僕は隠れ潜んで二人の会話を盗み聞きする準備を整えていた。
「ガキの頃……つっても精々三年ぐらい前までだけどさ。
俺、ユキオの……アイツの、ライバルだと思ってたんだよな。
まぁ戦績もギリギリ勝ってたし……アイツの技が殺意が強すぎて模擬戦向きじゃないってのはあったけど、それでもさ」
「うん。聞いてた感じ、私もライバルっぽく感じるかな」
……そうだった。
僕らはかつてはなんとなく張り合っていて、ソウタはヒマリ姉の事が気になっているようで、だから余計に僕もソウタに強情になって。
たった三年前の話だったはずなのに、遥か昔にさえ思える、話。
「でもまぁ、ユキオは、三年前の色んな事件から……一気に強くなった。
もともと格上にもかなり食らいつく奴だったから、位階以上に強いやつで、俺が競えてたのも相性の関係があった感じだったけど……。
もう明確に、完全に俺より格上って感じになっちまった」
「置いてかれちゃった?」
「まぁ、そんな感じだな。
この前なんか、姪っ子向けにユキオにサイン強請っちまったぐらいだ」
確か、リリが亡くなる……僕が殺す前、なんなら川渡と再会する前の事だ。
姪っ子に直接会うのはなんだか気まずくて、書いたサインをソウタに手渡したんだったか。
かつてライバル意識のあった相手に自分のサインを渡して有難がられるのは……とても、奇妙な感覚だった。
「ユキオが……アイツが父親を殺したなんて、ありえない。
逆ならあり得るって、正直思ってたが……。
だから今の報道やなんかは、絶対に間違っている」
「……そうだね。実際、皇国の報道と海外の報道で、かなり内容も違うみたい」
「だけど……俺が何かを調べて知ったとして、何かできるのかっていうと……正直何もだ。
位階で言えば若手で5番手だけど……ユキオからすれば、何十倍も下でしかない」
ソウタの位階は公開されており、確か位階58。
竜銀級、国内冒険者の最高階級の平均を超え、全数でもトップ10には入っていたはずだ。
しかし、4位であるヒマリ姉の位階は124であり、位階差は66もある。
位階は10異なれば2倍の性能差になると言われており、60差、つまり2の6乗は64。
文字通りケタ外れの力量差で、ハッキリ言ってソウタの力の有無でできることは大差ない。
「俺は……なんつーか、公人としては、戦闘技術一辺倒ってところだ。
事務処理とか、横のつながりとかはコトコに投げっぱなしで……。
その分体を張って戦ってはいるつもりだし、事務処理もちょっとづつ覚えているけどさ。
今……ユキオがあんな事になっている時に、俺は、戦い以外の、何もできない」
「……うん」
「この一週間、駆けずり回って必死に動いたけど……俺は殆ど、何もできていなかった」
僕は、打ちのめされるような気分になった。
同じ立場で、僕はソウタと同じ事をできるだろうか?
自分の弱さで、家族を羨み心が捻じ曲がりそうだった僕が。
自分を軽々と超えて行ったライバルが苦境に会って、助けになろうと思えるだろうか?
分からない。
僕は結局、強くなって、ライバルを置いていった側だから。
置いて行かれた側ではないから。
だが、どうしてか、腹の底に重い物ができあがるような、全身が重くなるような心地だった。
僕は、ゆっくりと足音を立てずに、後ずさる。
人の気配の間を縫いながら、二人から離れる方向へと足を進める。
「何も、何てことないよ。コトコさんと一緒に動いていて、彼女の護衛として動けていたでしょ? それに……」
肩を寄せ合う二人の声が、遠くから聞こえる。
仲睦まじい姿が、見えなくても感じ取れる。
確かな絆が、僕の背の先で結ばれている。
僕は強くなったはずだった。
位階は間違いなく世界最強、おそらくは人類史上最強。
正直言って誰と戦っても負ける気はしないし、実際に最強の勇者にも勝てたし、おそらく最強の魔王が復活したところで勝てるだろう。
かつて強さを競っていたソウタを、競っていた強さで完全に超えて、あの頃夢見た目標を達成したはずだった。
けれど、幸せなのは間違いなくソウタだった。
充実していて、愛する人が隣に居て、その愛情を疑う必要がなくて。
決して愛する人をこの手にかけるような事のないだろう、人生。
遠くの音を拾ってしまう聴覚に、歯噛みしながら頭を振りつつ歩く。
もう何も聞こえてほしくなくて、僕は駆けだした。
人込みの間を、縫うように、誰にも触れないようにして。
*
「はぁ、はぁ、はぁ……」
気づけば息を止めて走っていたせいか、肩で息をしていた。
頭の中はグチャグチャで、どこをどう走ったのか自分でも分からない。
それでも人の気配だけはきちんと感じ取れていて、誰ともぶつからないままに駆け抜けて。
いつの間にか、僕は見知った住宅街に辿り着いていた。
「ここは……コトコの……」
閑静な住宅街、昼間でも人通りのないそこで、僕は小さく呟いた。
そこは、ちょうどコトコの実家の近く。
けれど彼女は一人暮らしをしているのだから、出会う事はないだろうと、ほっと溜息をついた、その瞬間である。
「なんでそんな事を言うの!?」
どこか、聞き覚えのある声。
遅れて、声が聞こえてきたのがコトコの実家の敷地内からだと分かり……その声が、コトコの母親の物だと思い出す。
彼女は、僕の事を嫌っている人だ。
確か子供の頃、コトコが転びそうになったのを助けて……、それを見とがめ、僕がコトコを虐めているのではないかと思い込んで怒鳴りつけてきて。
それ以来顔を合わせる事は殆どなかったけれど、よくコトコを怒鳴りつけているらしい事は知っていた。
今そうであるように、コトコを叱る声が、表の道に響くぐらい大きな声だったからである。
「あんな犯罪者の暮らす家の近くなんて、危ないからこっちに戻ってきなさいよ!」
……ああ、と。
僕はおばさんの言う「あんな犯罪者」が誰を指すか薄々察し、溜息をついた。
最近父親を手にかけた……人類の救世主たる勇者を手にかけた、犯罪者。
「二階堂ユキオは、人類の敵なんだよ!? アンタが庇う事なんてない、余計な事はやめなさい!」
電話口の向こうの声は、流石に聞き取れない。
けれど恐らくは反論に類する言葉だったのだろう、おばさんはさらにヒートアップして叫ぶ。
「アイツは好きになった人を殺しまくる異常者だ! もし好かれちまったらどうするつもりなんだい!? 殺されたいの!?」
……嗚呼。
全身の力が抜け落ちそうになる。
そうだ、僕は大好きな人々を次々に手にかけた……異常者なのだ。
だから、この世の誰もが僕に好かれる事を怖がることは……当たり前の事。
「戻って来てくれよ……コトコ、あんたが死んじまったら、母さんどうすればいいんだい?」
だから、人の親が、子が僕と関わる事を怖がるのは……当然の事だった。
僕に、優しくしたら。
僕に、好感を持たれたら。
僕に、愛されたら。
僕に、殺されてしまうかもしれないから。
「待って、言う事を聞いて!」
叫び声とともに、おばさんの言葉が終わる。
コトコとの会話が決裂に終わったのだろう、小さな嗚咽が聞こえてきて……。
僕は、コトコの家に背を向け、歩き始める。
僕はかつて"ここ"が全てだった。
家族が、居場所が、僕にとっての全てだった。
それは僕の脳髄に刻まれた術式が壊れて、絶対の物ではなくなったのだけれど、それでも名残のような物は僕の脳髄と魂に刻み付けられている。
だから、こんな事を想ってしまう。
僕は、みんなの"ここ"を破壊してしまう疫病神なのかもしれないと。
「下野間さんは……娘を失った。
ソウタは、まだ……だけど無茶したら、アイツ自身を失っちゃうんじゃないか?
コトコは、母親との関係が、僕に壊されてしまった」
もとより、家族に向けて決意は定めていた。
だから最後の後始末、そのつもりだった行いは何一つ為せず、代わりに歪な形で僕は背中を押されていた。
もったいつけず、さっさとやれと、そう言われているかのように。
「……やるか」
足を踏み出す。
光学迷彩で隠されたまま、僕は空中に作り出した糸階段に向けて歩みを進めた。
一歩、二歩、三歩……。
暫く上って空中高く、地上に影響の出ない高さまでたどり着き。
糸がレールを編みだす。
雷速。
目的地に向け、僕は自身を解き放った。
*
その日、世界中の政府および軍事機関が震撼した。
今、世界には五つの、世界の歪みとでも言うべき大きな力の渦がある。
二階堂リリが放った春告風の溜まった、欧州、暗黒大陸、竜国の計三か所。
薬師寺アキラが旧連邦国に残した、宇宙崩壊術式の名残。
それら四つが、次々に活性化し……相互に作用を始めたのである。
まるで最後の一つのもとで行われた大規模術式を、さらに世界中に広げかねないような。
そしてそれらの作用はすさまじい力によって保護されており、現地の人間たちでは太刀打ちできなかった。
残る最後の一つは、皇都中心の元都庁。
かつての長谷部ナギの斬首結界の残骸を利用し、魔王の娘ミーシャが人魔統合術式を編んだ、その名残。
幸か不幸か、各国の英雄たちは皇国皇都に集まっていた。
二階堂龍門によるCodeインフラレッド、もう一人の人類の救世主たる二階堂ユキオの、人類種の敵対者判定に異議を唱えるために。
故に世界から集まった英雄たちは、再建中の元都庁跡に集まり、完全武装で待ち構えていた。
「何か……嫌なプレッシャーを感じますわね」
シャノン・アッシャー、連合国の英雄もまたその一人。
皇国を除けば世界最強の英雄となった彼女は、自然と英雄たちのまとめ役となっていた。
言動こそ奇怪だが、その赤竜そのものと言われる圧倒的な強さは、ある種のカリスマとなっている。
故に彼女の言葉に、集まった面々は集中を増した。
連合国、シャノン・アッシャー。
州国、アリシア・ハリントン。
共和国、ガスパル・プレオベール。
旧連邦、ヴィーラ・アントネンコ。
ヴィーラのみ母親と交代となったが、それ以外は三年前の、対"宇宙崩壊術式"で集まった面々である。
彼女ら四人の英雄に、それに準ずる兵士が補佐として十数人。
合計二十人にも満たない少数精鋭が、最後の歪みを守るべく集まった英雄たちであった。
「現地の、皇国の力が借りられないのが痛いですわね」
「まぁ、ユキオの奴を疑っていた連中ですからね……。
頭数をそろえて不和を生んでちゃ、むしろ戦力としちゃあマイナスだ」
「それでも、せめてヒマリやミドリ、アキラの力は借りたかったですわ」
「フフフ、そこはユキオくんを彼女たちが確実に保護してくれていると考えよう。
悲しいことに、ユキオくんが誑かされたりしたら、私たちでは勝てないからね」
二階堂ユキオが実質の戦闘不能状態であることは、各国でも知られている。
精神的衝撃を考えれば致し方ない事で、この場にユキオに戦力としての期待をしている人物はいない。
とは言えユキオの位階は、210。
かつて人類を滅亡に追い込んだ魔王の位階は推定195程度とされ、ユキオの性能はそれに倍するほどとなる。
一方、皇国を除く諸国最強はシャノンの位階97であり、位階100を超えた人間はユキオの家族の他存在しない。
万が一にでもユキオが狂気に陥れば人類は滅亡しかねず、故に諸国はユキオが人類の敵認定されたという情報に、椅子から転げ落ちる勢いで驚愕していた。
その認定が正しくとも間違っていても、人類が滅亡しうる状況だったからだ。
肩を竦めてみせるアリシアの言葉に、シャノンは眉をひそめた。
その仕草に、付き合いの長いガスパルが顔を引きつらせる。
「お嬢さん、その、まさか……」
「可能性は、そこそこあり得ますわ。ユキオさんの全力戦闘を最後に見た人間として……できる、と断言します」
「……マジか」
シャノンの言葉に、アリシアが常の余裕をなくし顔をひきつらせた。
常識的に考えて、たった一人で一時間とせず世界四か所の力の歪みを活性化させるなど、不可能だ。
諸国も現在の二階堂ユキオの戦闘能力は把握しきれておらず、大雑把な見積もりしかできていない。
しかしシャノンの知るユキオであれば、隠密状態で雷速移動を行い、たった一人で世界四か所の厳重に警戒された歪みを活性化させることも可能だろう。
「その場合、ヒマリたちが合流してほしいものですが……。既に争った後という可能性があるので、望み薄なのが厳しいですね」
「いやぁ、俺、急にベッドが恋しくなってきたから部屋に帰ろうかなぁ……」
「大変ですわね、リラックスするために口からクソを垂れ流さないといけない人は。
汚臭を垂れ流さないように、一々注意さしあげる必要があって?」
「……うす、気を付けます……」
弱音を凄まじい口の悪さで咎められ、ガスパルは背を丸め呟いた。
それから数十秒、なんともなしに沈黙が続き。
突如、ヴィーラが口を開いた。
「来る。ユキオさまだ」
え、と誰かが口を開くが早いか。
青光が、輝いた。
一秒にも満たない僅かな煌めき、追えて皆が目を開くと、空中にその人影があった。
それは、人の形をした幽鬼だった。
灰色の髪は色素が抜け、白い物が半ば以上混じっていた。
目は澱み、しかしその澱みと反比例するかのように赤青の魂の輝きが輝いている。
ミリタリージャケットにジーンズという常と変わらない戦闘装束、手には青く輝く糸剣が握られていた。
「ユキオ……さん」
シャノンは、想像を超えた目の前の青年の人相に、言葉を失っていた。
それは、人間の顔であるように到底思えなかった。
疲弊の極致、恐ろしく深い傷を幾重にも刻まれたかのようで。
まるで砕け散った後の、もう存在しない元の顔を見ているかのような。
優し気な風貌を残していた一年半前のユキオとは、まるで似ても似つかない狂気の表情だった。
その驚愕は、他の面々も同じだったのだろう。
多かれ少なかれ彼との面識があった面々は、全員息を呑み、動揺してみせた。
ユキオはその隙を、しかし放置して見せた。
動揺の波が落ち着くのを待ち、静かに口を開く。
「僕は、その先に用事があるんだ。
退いてくれないか?」
「……まず、その用事を聞かせてくれますか?」
汗をにじませながら問うたシャノンに、ユキオは薄く微笑んだ。
亀裂の入ったような、笑み。
あれは人間が浮かべてはいけない笑みなのだと、シャノンは本能的に直感した。
「運命を、変える。
生まれるべきではなかった命を、生まれなかったことにして見せる」
背筋が凍るような、声。
全員が気圧され腰が引けるのに、シャノンは一人抗った。
ユキオが父を手にかけてしまった事は、そして恋人を失った事は、シャノンも把握している。
故にその命がユキオ自身を意味していると、シャノンは理解していた。
「……それを、私たちが見逃すとお思いですか?」
「それで命を失うのは、たった一人だ。
ソイツの功績は、それぞれ見合った人々に分配される。
ソイツが居なかったかのように、ここ二十年ほどの人類史が書き換えられるだけ。
本質的に影響が出るのは……死産するべきだった、一人だけさ」
追って、その場にいる面々全員が、ゆっくりとその意味を理解してゆく。
その悲痛さに悲しむ者、歯を噛みしめる者、逆に憤り顔を歪める者。
それぞれの反応に、しかしユキオは貼り付けたような表情を動かそうともしない。
シャノンは小さく息を吐き、父祖から継いだ旧聖剣を手に。
切っ先を突き付けながら、問うた。
「一つ。だからと言って、ユキオさん、貴方が完全に運命を改変できるという保証はない。
誰もやったことがない方法で人類すべての運命に影響を及ぼすというなら、想定外の改変が悪影響を生んでしまう可能性は誰にも否定ができない」
ユキオの行いは、前人未到の行いである。
つまるところ、実際に行い検証されたことがまるでない行いだ。
それを人類全体に影響を及ぼすような規模で行うというのだ、予期しない不具合があって当然である。
ユキオの行いは、人類すべてにどのような影響が起こるか分からない。
それを止めるのは、人類の一員として当然の行いだ。
「一つ。言ってしまえば、今の貴方は、嫌な事があったから、それを無かった事にしようとしているに過ぎない。
それがどんなに重く苦しい事柄でも、想像を絶する事であっても、人は皆降りかかった苦難に耐えて前に進んでいるのです。
仮に貴方の苦難が、自己の消失を願うのに妥当なほどの、人間の耐えうる上限を超えた苦難だったとしても。
それを他者に正確に説明し証明する事は、難しい。
自らの苦しみに耐えて前に進み続けている人々に、自分は辛いから一抜けするから協力してほしいと言って、誰が納得して道を譲ってくれるのですか」
どこを言いつくろっても、ユキオの行いは人生で起こり得る苦難からの逃避である。
その苦難が例え人類に耐えうる限界を超えていたとしても、その証明や共感は難しい。
仮に、ユキオが自死を望んでしまったのであれば、同情心からそれを補助してしまう人間はいるかもしれない。
しかし人類の多くにリスクを背負わせる行為を行うのであれば、それに同意するものはまず居ないだろう。
少なくとも、今苦難に立ち向かって生きている人々に向かい、苦難から逃避するため全人類に迷惑をかけるが協力してほしいと言って、協力してもらえるはずがない。
ユキオの人生が、どれほど苦しみに満ちたものであったとしてもだ。
「一つ。私は、これでもユキオさんの事が……結構好きなのですわ。
貴方が……私を導き、そして誰かを救おうとして戦い続け、人類を救ってきた貴方が。
好きな人が自らを苦しめ、自死を超えた何かを選ぼうとしていて。
黙って見ていろと言われて……はいそーですかと譲ってたまるかぁ!」
"赫の竜鱗者"が、絶叫を上げシャノンを赤竜化させる。
"拳乱豪嘩の士"が、アリシアを超人と化す。
"異邦人"が、ガスパルを半ば異次元へと移し。
"鏡面の黒子"が、ヴィーラの手に半透明の影の剣と盾を作り出して。
「そうか……」
青光が走った。
異次元が砕け散り、ガスパルが倒れた。
アリシアがひざを折り、ヴィーラが伏した。
シャノンは半ば直感で防御姿勢をとり一撃耐えるも、継ぐ一撃に崩れ落ちる。
他の面々も同じように薙ぎ払われ……。
「……5秒か。よく持ったね」
あっさりと。
世界最強の、英雄たちは一蹴された。
(こ、ここまで力の差があったなんて……!)
辛うじて意識を保ったシャノンは、歯噛みしながら恥辱に震える。
実際の実力は、位階差にゆるやかに相関するのみで、比例はしない。
出力が上がっても、それを扱う制御力が伴うとは限らないためだ。
ユキオの位階は210、シャノンとの位階差は113、つまり出力は2000倍以上の差がある。
しかしユキオの制御能力の関係で、出力差ほどの能力差はないと、そう考えていたが……。
(これが、位階200以上を完全に制御した、力……!)
文字通り、桁が違った。
明らかに本気を出していないユキオに、文字通り撫でられるだけで戦闘不能だ。
辺りを見回すも、ガスパルは完全に意識を失っており、"異邦人"による不意打ちや退避は不可能だ。
他の面子の意識はそれぞれというところだが、補助要員のメンバーを優先して意識を狩られている。
どうしようも、無い。
絶望にシャノンが顔を歪めた、その時である。
「……なるほど、あの人は僕に自由にしろとは言ったが、協力するとは言っていなかったな」
ユキオが独り言ちた瞬間、空間が歪んだ。
渦のように歪んだそこから、三人の女性が姿を現す。
二階堂ヒマリ、ミドリ、アキラの三人。
先ほどシャノンが合流を望んだ、シャノンを超える戦士達である。
「……ああ」
ヒマリは、思わずと言った様相で溜息を洩らした。
再建中だった旧都庁、その工事用の覆いの中、各国の英雄が崩れ落ちもう動けない。
そしてその前にてユキオは、抜き身の糸剣を持ち表現しがたい静かな表情を浮かべていた。
状況を把握してみせた三人が、ユキオを真っ直ぐに見つめた。
「ユキちゃん……諦めるつもりは、無いんだね?」
「あぁ。……僕は必ず、運命を改変して見せる。
僕が……この世に生まれなかった事に」
ユキオが改めてその目的を口にしたのに、シャノンは胸が軋むのを感じた。
好きな、人。
先ほどシャノンがそう口にしたが……その好きは、一体どういった好きだったのだろうか?
自分が道に迷った時に導いてくれて、尊敬できる、年の近い異性。
政治的には彼を誘惑する事が是とされている相手。
シャノンとして木石ではない、そんな相手に仄かな想いが無かったと言えば、嘘になる。
その相手が、自死を超えた、自己の消失を望み、口にする事は、想像を超えてシャノンの精神を抉った。
「なら……私の返事は、ただ一つだよ」
ヒマリは、真っ直ぐに腕を伸ばした。
彼女の戦装束は、白いドレス。
手甲と足甲を見なければ、今にもパーティーに出られそうな、美しい装束。
スカートが風に吹かれ靡くままにしながら、ヒマリはその両手で両腕の金具を外した。
がちゃん、と音を立ててその両腕の手甲が地面に落ちる。
対するユキオが、目をひそめた。
「絶対に、阻止してみせる」
その両腕に、ポツポツと青白い光が集い始めた。
初めは小さかった光が、どこからか集まりその数を増やすたびに、その質量を増してゆく。
あぁ、とシャノンは小さく、感嘆の声を上げた。
(聖剣は……必ずしも、剣の形をしている訳ではない)
東方の勇者である二郎真君の聖剣は、三尖両刃刀であり、槍と言った方がほど近い。
近代の勇者であるジャンヌ・ダルクは聖旗を持ち、刃物ですらない聖剣を手にしていた。
「ユキちゃんの命だけじゃない……ユキちゃんの記憶を、記録を、そこまで奪われるなんて、絶対に嫌だ! 絶対に、守って見せる!」
ヒマリの両腕に宿る聖なる青光が、次第に形を変え、手甲の形を作ってゆく。
それは、青白い銀の手甲だった。
蒼く輝く宝石を手の甲にはめ込まれ、手首から先、肘近くまで伸びた辺りには瀟洒な金の装飾が施されていた。
美しく、されど敵を殴るという単純な暴力の極致のような武装。
それを宿すヒマリの位階が、恐るべき速度で上昇してゆく。
(聖剣の勇者は、1代に1人……二階堂龍門が亡くなった以上、既に次代の勇者は現れ得る)
勇者とは、人類全てに受け継がれる固有"勇者の聖剣"に認められた者。
人類存続の危機に対し、その時最も都合の良い戦士に発現する固有術式を、得た者。
二階堂龍門は固有のない勇者であったがそれはむしろ例外であり、それ以外の人類史における勇者たちは、"勇者の聖剣"の他もう一つ、自前の固有を持っていた。
ならば既に"よろずの殴打"を持つヒマリに発現する可能性も……当然ある。
「例え……ユキちゃんをこの手にかけてでも!」
爆発するような、力の奔流が吹き荒れた。
青白い光が輝き、ヒマリの両腕に輝く手甲を煌めかせた。
"勇者の聖剣"ならぬ"勇者の聖拳"、とでも言おうか。
新たなる勇者の武装が、青白く濡れたような光を宿すそれが……ゆっくりと、ユキオへと向けられる。
それが、真っ白な光に、姿を変え始めた。
「……ユキちゃんのその運命を変える行為は……やはり、人類の存続に対する敵対者と判定される。
私が何をするでもなく、ユキちゃんは"赤外"に判定されていて……でも」
一呼吸。
輝きが、更に増す。
肘辺りまでしかなかった手甲が、伸び始めた。
「"強制赤外認定"。聖剣の勇者たちに認められる、生涯で一度だけの聖剣覚醒対象の追加を……今ここで、さらに重ね掛けする」
まるで生き物であるかのように手甲は成長し、ヒマリの二の腕を超え、肩までたどり着いて見せた。
左腕の手甲だけはその浸食をわずかに強くし、左胸を覆って見せる。
それは、手足と心臓だけを守る、銀の鎧だった。
人類の存続を揺るがす敵に対する覚醒状態。
"強制赤外認定"による強制覚醒状態。
その二重覚醒というべき状況が、ヒマリを人類史上最強の勇者に辿り着かせていた。
「覚悟してよ……ユキちゃん!」
世界が揺れるような、凄まじい位階。
隣に並ぶミドリとアキラも武器を構え、シャノンを遥かに超える超人的な位階を発揮し始めた。
対するユキオは……静かに目を細めた。
もう一つ、力の奔流が生まれた。
それは天を突くような、どこか禍々しさを感じさせる青い光の柱だった。
青い光の柱に、青い光と赤い光とが渦巻くように巻き付き、それらが交差するところは紫色に染められている。
やがて光の柱が消えゆくと、その中心に立つユキオの背に、青い光が集い、形作っていた。
それは、骨組みだけの青い光の翼だった。
既視感。
ああ、と小さくシャノンは呟いた。
(あれは、二階堂リリと、色違いの……)
出来損ないの、空なんて飛べそうにない両翼。
天使になろうとして、なれなかった出来損ないであるかのような。
二階堂リリの末路は、愛するものに生まれたくなかったと叫びながら、死を請うて叶えられたものである。
色違いのそっくりな翼をその背に生やしたユキオの、未来は……。
そんな想起に、シャノンは小さく震えた。
ユキオが、天を指さした。
見ると空には、先ほどの光の柱が原因なのだろうか、巨大な術式の魔法陣が描かれていた。
複雑な絵柄のそれは、直径十キロ以上はある巨大な陣であり、更にはその陣から線が飛び出てはるか遠くへと続いている。
恐らくは、他の四か所の歪みの直上にも同じ魔法陣があり、繋がっているのだ。
「これが……最後の運命転変。
世界の運命を変える、僕の術式。
これが完成し発動したとき……僕の願いは叶う」
「させない……絶対に、させない!
必ず止めてみせる……例えユキちゃんを、この手で殺したとしても!」
絶叫とともに、ヒマリが跳躍し、アキラが続き、ミドリが後衛として陣取る。
ユキオはそっと剣を構え、迎え撃つ形で家族を……ユキオにとっての"ここ"を相手取るのであった。
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1話を書く前から勇者の継承については決まっていたので、ようやくというところです。
次回、最終話。
決戦と、そしてどうなったか。
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