婚約破棄された男爵令嬢の私、妹に蹴られて【空手】スキルに目覚めたので、私を処刑しようとした妹と婚約者に空手ざまぁします

「セラス・フィンドラル! たった今、この僕――侯爵家子息であるシグルド・カスケードは君との婚約を破棄する!」


 その言葉にセラス・フィンドラル男爵令嬢こと私は文字通り絶句した。


 時刻は夜。


 そしてここは大豪邸のカスケード家の大ホールである。


 大ホールの中には多くの貴族たちの子息子女たちがいて、豪華なビッフェに舌鼓を打ったりダンスをして楽しんでいたのだが今は違う。


 ほんのつい今しがたシグルドさまは一旦パーティーを中断し、大ホールの真ん中を空けるように皆に言った。


 今日のパーティーはシグルドさまが主催したものだったため、他の貴族の子息子女たちはシグルドさまの指示に従って壁際へと移動したのである。


 その後、シグルドさまは私を大ホールの中央へと招き呼んだ。


 理由は前もって知らされてはいなかったが、きっとシグルドさまは皆の前であらためて私とのこれからについて堂々と宣言するためなのだろうと思った。


 シグルド・カスケードはセラス・フィンドラルに永遠の愛を誓う、と。


 ところがシグルドさまの口から出てきた言葉は違った。


 シグルドさまは決してイケメンとは言えない普通の顔と中肉中背の方だったが、それでも根は真面目で優しい人だと思っていた。


 そんなシグルドさまは、あろうことか公衆の面前で親同士が決めた婚約を高らかに破棄する宣言をしたのである。


 貴族の子息とは思えない、自身どころか家名すらも貶めるようなあるまじき行為だった。


 シグルドさま……私との婚約を破棄するとはどういうことなの?


 などと私が呆然としていると、1人の少女が私の前にやってくる。


「あ、あなた……」


 私は目の前に現れた少女を見てつぶやいた。


 私と同じ栗色の髪の毛をしているが、背中まで伸びている私と違って髪の毛はうなじの辺りで綺麗に切り揃えられている。


 身長も160センチの私よりも10センチは低い。


 よく私は周囲から「セラスさまは目鼻立ちがすっきりとしていて、凛々しいお顔をしていらっしゃいますね。可愛いというよりは美人と呼ぶほうがしっくりときます」と言われているが、目の前の少女は圧倒的に可愛いと周囲に言われる部類に入る顔立ちだった。


 他にも私はお屋敷を守る専属騎士たちからよく護身術を学んでいたため、17歳の同年代の子たちよりも少しばかり背筋が伸びて体格もしっかりしている。


 でも、そんな私は筋骨隆々というわけではない。


 健康と体型維持のための日頃の運動により、ちょっと同年代の子よりも良いプロポーションをしているだけだ。


 でも、私の眼前にいる少女は違う。


 幼少から身体が少し弱かったこともあって、私とは正反対に両親から蝶よ花よと過保護に育てられてきた。


 なので体型は花の茎のように細く、とはいえガリガリとまではいかない体型をしている。


 え? どうして私が目の前の少女のことに詳しいのかって?


 私が少女について詳しいのは当たり前だった。


 少女の名前はミーシャ・フィンドラル。


 私の1つ下の実妹に他ならなかったからだ。


「ミーシャ……どうしてあなたがここに?」


 私はミーシャを見て頭上に疑問符を浮かべた。


 今日は私とシグルドさまが主役のパーティーであり、ミーシャには参加の手紙など届いていないはずだ。


 現に私が屋敷から馬車で出るとき、ミーシャは「色々と楽しんできてくださいね、お姉さま」と見送ってくれた。


「お姉さま、私がどうしてここにいるか理由を聞きたいですか?」


 そう言ったミーシャは、ゾッとするほどの酷薄した笑みを浮かべた。


「それはこういうことですよ」


 言うなりミーシャは隣にいたシグルドさまに抱き着き、自分の唇をシグルドさまに重ね合わせた。


 どれぐらいキスをしていただろうか。


 シグルドさまはミーシャからのキスを拒むどころか、むしろ受け入れているような感じがあった。


 やがて互いに唇を離したあと、ミーシャは私に顔を向けてニヤリと笑った。


「お姉さま、本日をもって私――ミーシャ・フィンドラルはシグルド・カスケードさまと婚約いたします。お姉さまの代わりにね」


 直後、全身の力が抜けた私は両膝から崩れ落ちた。


「そ、それはどういうことなの?」


 床に座り込んでしまった私は、かろうじて出せた声でミーシャにたずねる。


「どうもこうありません。そのままの意味ですよ、セラスお姉さま。私はお姉さまの代わりにシグルドさまと婚約して幸せになるってことです」


 わからない。


 ミーシャの言っていることがまったくわからない。


 どうして私がシグルドさまに公衆の面前で婚約を破棄された挙句、実の妹にその婚約していた相手をかすめ取られるような真似をされなくてはならないのだろう?


 そんなことを考えていると、ミーシャは私の顔に自分の顔を近づけてくる。


(ずっとあなたがウザかったんですよ、クソお姉さま)


 ボソっとミーシャは私にだけ聞こえるように告げてくる。


(お姉さまは私と違って健康的な身体に生まれ、その気立ての良さと姉御肌な性格で周囲の人気を勝ち取っていた。知ってます? 私たちが在籍している学院でお姉さまには密かにファンクラブが出来ているのを)


 知らなかった。

 

 でも、私はそんなものに興味はない。


 たった1人の人だけが、私のことを見ていてくれるのならそれでいい。


 私はミーシャからシグルドさまへと視線を移した。


 いつも私に優し気な微笑みを向けてくれていたシグルドさまは、今は私のことを生ゴミを見るような目で見下ろしてくる。


 それは会うたびに私のことを生涯にわたって愛する、と言ってくれていた人の目とは思えなかった。


 ここ数週間ほどは特別な用事とやらでたまに会うことしかできなかったが、その間にシグルドさまの性格や態度が別人へと変化してしまったように思える。


 そんな頭が混乱している私に構わず、ミーシャの言葉は続く。


(でも、そんなお姉さまと違って私は病弱で満足に学院に登校もできていなかった。おかげで友達もろくに作れず、いつもベッドの中で自分を呪っていた。どうしてどうしてどうして……って)


 私はシグルドさまからミーシャに目をやった。


 直後、私は息を呑んだ。


 そこにいたのはミーシャではなかった。


 ミーシャの顔をした悪鬼だ。


(だから私は魔人と取引をした。死んだあとに私の魂をあげる代わりに、私が望むものをこの世で手に入れる力をくださいと)


 ミーシャは目蓋を閉じると、2~3秒したあとに再び両目を開ける。


「――――――――ッ!」


 私は驚愕した。


 ミーシャの両目の瞳の中には、魔人と契約するさいに使われるという「六芒星」が浮かんでいたのだ。


「魔人と契約って……どうやってそんなことを?」


(お父様の書庫の奥で古びた魔導書を見つけたのよ。私は病弱であまり外に出られなかったから、自由に本を読んでいいと書庫の鍵をもらっていたんです)


 何てこと。


 ミーシャはその魔導書に封印されていた魔人と契約をしたというの?


(ご明察よ、お姉さま。私は魔導書に魂だけが封印されていた魔人と契約をして、この【魔眼】を手に入れた。どういう力かおわかり?)


 呆然とする私に、ミーシャは口の端を吊り上げた。


(この【魔眼】の力を使えば相手の心を魅了したり、人間以上の力が発揮できたりするそうよ)


 まさか、と私は思った。


 もしかすると……いえ、間違いない。


 ミーシャはその【魔眼】の力を使って、シグルドさまを意のままに操って私との婚約を破棄させたのだろう。


 きっとそうに違いない。


 しかし、私の予想は大きく外れた。


(お姉さま、シグルドさまは私の【魔眼】のせいでお姉さまとの婚約を破棄したのだとお思いになったでしょう?)


 ミーシャは「くくく」と低い声で笑った。


(残念、シグルドさまに【魔眼】は使っていないわ。シグルドさまは本当にあなたとの婚約が嫌であっさりと私に乗り換えたのよ)


 私は頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。


 とてつもなくショックだった。


 婚約が決まってからというもの、シグルドさまはデートのたびに何度も私に愛をささやいてくれた。


 それがすべて演技だったってこと?


「ひどい……そんなのひどすぎる」


(ひどい? これぐらいひどくもなんともないと思うわよ。これから私がお姉さまにすることに比べたらね)


 そう意味深な言葉を発したミーシャは、顔だけをシグルドさまに振り返らせた。


「シグルドさま! 今、セラスお姉さまがはっきりと自白いたしました! やはり、ここ最近第1王子のアストラルさまのお命を狙っていた刺客の黒幕はセラスお姉さまで間違いないようです!」


 え? 一体何のこと?


 アストラルさまの命を狙っていた刺客の黒幕?


 アストラルさまとは、この国の第1王子であるアストラル・フォン・ヘルシングさまのことだろう。


 私と同じ17歳でよく学院でもお見かけしたことがある。


 正直なところ、シグルドさまとは容姿も体格も天と地ほども差がある超絶イケメンの王子だ。


 そういえば、ここ数週間は学院でもぱったりと見かけなくなっていた。


 まさか、誰かに命を狙われていたから学院に来てなかったの?


 そして、その刺客の黒幕がなぜか私にされている?


「そうだったのか!」


 私がパニックの極みに達していると、シグルドさまは「衛士、セラスを捕縛しろ!」と怒声を上げた。


 すると壁際に立っていた2人の衛士が私に駆け寄ってきて、2人がかりで私の身体を左右から捕縛する。


「ま、待ってください! 私は無実です! 私はアストラルさまのお命などは断じて狙って――」


 いません、と言葉を続けようとしたときだ。


 このとき、私は自分の身体――首から下がまったく動かせないことに気づいた。


 2人の衛士に左右から押さえつけられているからではない。


 それも少なからずあったが、それ以上にまったく自分の首から下が動いてくれなかったのだ。


 私はハッとした。


 これもミーシャの【魔眼】のせいではないか。


 なぜなら、先ほどの説明中に私はミーシャの【魔眼】をしっかりと見つめていたからである。


 私は首だけを動かしてミーシャを見上げた。


 するとミーシャは口パクだけで私に告げてくる。


 ざまぁ、と。


 一方、シグルドさまは真面目な顔で衛士たちに命令する。


「衛士たちよ、セラス・フィンドラルを牢屋にぶち込め! 明朝、僕の命を狙った罪で処刑する!」


 そ、そんな……。


 絶望に打ちひしがれた私は、何とかシグルドさまに無実を主張した。


 けれど、シグルドさまは受け入れてくれる気配がない。


 きっとこれがシグルドさまの本性なのだろう。


 私に優しい顔を向けながら、裏で忌々しく舌打ちしていたのだ。


 悔しい。


 できることなら、この状況を何とかしたい。


 でも、今の私には何もできない。


 とはいえ、ここで完全に諦めてしまっては無実の罪で処刑されるだけだ。


「お願いです、シグルドさま! 私の話を聞いてください! 私は何も――」


「この期に及んで白々しい! いい加減に観念して、大人しく自分の罪を認めなさいよ!」


 ミーシャは高らかに叫ぶと、私の腹をハイヒールのつま先で蹴ってきた。


 ズンッ!


 私の腹――胃袋の位置に深々とハイヒールのつま先が突き刺さる。


 そのときだった。


 私の脳内に【空手からて】という言葉がはっきりと浮かんだ。


 そして――。


 私は前世の記憶のすべてを思い出した。


 私の名前はセラス・フィンドラル。


 この王都でも普通の男爵家――フィンドラル家の長女だ。


 しかし、それはこの世の名前と身分である。


 私の前世はこことは違う異世界の日本という国で、女性空手家として全世界空手道選手権10連覇を達成した空手の達人だったのだ。


 それをミーシャに足蹴にされたことで、私は前世の記憶を思い出したばかりか転生されたときに神様から特殊スキルを与えられたことも思い出した。


【空手】スキルだ。


 徒手空拳で自分の意を通せる本物の力である。


 私はそのことを思い出して震えていると、ミーシャは自分の蹴りを受けて悶絶していると勘違いしたのか「無様ですね」と鼻で笑った。


「さあ、衛士たち。お姉さま……もとい、その犯罪者の女を処刑台に連れて行きなさい。侯爵家の子息殺害を計画したのですから、明朝など待たずに即刻処刑いたします。よろしいですね、シグルドさま」


 シグルドさまはミーシャを見ると、満面の笑みを浮かべてうなずいた。


「もちろんだとも、ミーシャ。君がそう望むのならばそうしよう」


 そう答えたシグルドさまは、私に顔を向けて「ペッ」と唾を吐きかけてきた。


「そもそも僕は最初からセラスとの結婚には乗り気じゃなかったんだ。父上に言われて仕方なく婚約させられただけで、ミーシャと出会えてなかったら僕は望まぬ結婚生活に頭が狂っていただろう……くそっ、考えれば考えるほど腹が立ってくる。おい、衛士ども! さっさとその女を処刑台に連れて行け! 目障りだ!」


 この瞬間、私はシグルドさま……いえ、シグルドにブチ切れた。


 あれほど愛をささやいたに、魔法で魅了されてもいないのにあっさりと妹に鞍替えするなんて。


 それにミーシャもミーシャだ。


 面と向かって不満を告げてくるのならばまだしも、よりにもよって私の婚約者を寝取った挙句、私に無実の罪を着せて死刑にしようとは――。


 許さない。

 

 断じて許すまじ!


 こうなったら、覚醒した私の【空手】スキルで目に物見せてやるしかない。


 このとき、私は自分自身が激しく変貌したことを悟った。


 今の私は男爵令嬢セラス・フィンドラルじゃない。


 セラス・フィンドラルよ!


 私はキッとミーシャを睨みつけた。


 ざまぁ――ですって?


 ミーシャ、悪いけど「ざまぁ」されるのはあなたのほうよ!


 私はへそから数センチ下にある〈丹田たんでん〉という場所に意識を集中させた。


 この世界では知られていないだろうが、この〈丹田たんでん〉こそが人間の本当の力を発揮できるエネルギースポットなのである。


 そしてその〈丹田たんでん〉に意識を集中させたことで、私の全身に〈魔力〉とは一線を画す〈気〉の力が駆け巡った。


 瞬く間に〈気〉の力によって、私の肉体にかかっていた強力な【魔眼】の力から解放される。


 次の瞬間、私は身体を押さえつけている衛士を倒すために行動した。


 左右の衛士たちの腹に電光石火の裏拳打ちを放つ。


「ぐえっ!」


「がはっ!」


 私の裏拳打ちをまともに食らった衛士たちは、大量の唾と吐瀉物を吐き散らしながら昏倒する。


「な、何だと!」


 これに驚いたのはシグルドだ。


 私のことを少し健康的程度の男爵令嬢だと思っていたからだろう。


 ええ、それは間違いありません。


 ですが、今は違います。


 なぜなら、今の私は空手令嬢なのですから!


「ええい、他の衛士たちは何をしている! 出会え、出会え!」


 するとそこら中から衛士たちがわんさかと出てきた。


 その数、ざっと20人。


 全員が全員とも剣で武装している。


 笑止!


 その程度の数で空手令嬢となった私を止められると思わないでいただきたい!


「もう処刑台に連れて行くなんてやめだ! セラス、お前はここで処刑する!」


 シグルドの命令で、20人の衛士たちが私を殺そうと襲いかかってくる。


 でも、私は微塵も動揺してはいない。


 前世の世界でもこの世界でも最強の武技――空手を極めし者である私にとって武器を持った20人の衛士などアリに等しい。


 私は両足を広げて重心を落とすと、固く握った左右の拳を腰だめに構えた。

 

 そして――。


「――〈烈風百連突き〉」


 常人には不可能な速度で左右の連続突きを繰り出した。


〈烈風百連突き〉。


 それは残像が生じるほどの連続突きによって衝撃波を発生させ、相手に触れなくても対象者たちに甚大なダメージを与える技だ。


 もちろん、現世で修得した技ではない。


 前世の修行中に編み出した私のオリジナル技である。


 その技がまさにこの世界で本領発揮された。


 私の〈烈風百連突き〉よる衝撃波によって、20人の衛士たちは暴風に煽られたゴミのように吹き飛ばされて壁に激突していく。


 見たか、これが空手の力よ!


 私は失神している衛士たちを見渡して鼻を鳴らした。


 1人の死者も出てはいないだろうが、壁に激突した衝撃で全員とも全治数ヵ月ほどの大怪我を負ったことは言うまでもない。


 直後、シグルドは子供が癇癪を起したときのように地団太を踏む。


「くそっ、何だお前のその異常な力は! お前は一体、何になったんだ!」


 私はシグルドに顔を向けて言い放った。


「私は空手令嬢になったのよ! あなたたちにざまぁ返しをするためにね!」


 と、そのときだった。


 大ホールに大勢の兵士を引き連れて1人の男性が現れた。


「全員動くな!」


 凛然とした声を放った男性は、年頃の娘なら1発で恋の矢でハートを撃ち抜かれるほどの超絶なイケメンだった。


 180センチを超える長身。


 金糸と見間違うほどの流麗な金髪。


 端正な顔立ち。


 細身だが衣服の上からでもわかるほど筋肉がしっかりとついている。


「あ、あなたは……」


 私はその男性をみてつぶやいた。


 そのイケメンの名前はアストラル・フォン・ヘルシングさま。


 この国の未来を担っている1王子だった。


「ここにいる全員――特にシグルド・カスケードとミーシャ・フィンドラル! お前たちは絶対に余計な抵抗はするな! お前たちには俺を暗殺しようとした容疑がかかっている!」


 明らかに動揺したシグルドに対して、ミーシャは小さく舌打ちしたあとに表情を一変させた。


 急に全身をしおらしくさせ、私はか弱い少女ですアピールを始めたのだ。


「誤解です、アストラルさま! 私もシグルドさまもあなたさまの暗殺など企てておりません! 暗殺を企てたのはそこにいるセラス・フィンドラルです!」


 何て白々しいの!


 私は怒りを通り越して呆れた。


 盗人猛々しいとは、まさにミーシャのことを言うのだろう。


 だけど、まさかということもある。


 アストラルさまはミーシャの言葉を信じてしまうのだろうか。


「お前がミーシャ・フィンドラルだな?」


 アストラルさまはミーシャを睨めつける。


「今回の俺の暗殺計画の首謀者がお前だということは、すでに俺の子飼いであるシノビたちの情報で発覚している。他人を意のままに操る、禁術の類のような力を持っていることもな。おそらく、その力を使ってシグルド・カスケードを操っているのだろう」


 違います、アストラルさま。


 シグルドのカスは、何も操られていない状態で妹を手助けしているんです。


「だが、そのような力は俺たちには通用しない。俺たちにはあらかじめそのような力を相殺させる特殊な魔法を王宮の専属魔術師たちに施してもらったからな。どちらにせよ、ミーシャ・フィンドラル――お前だけは厳しい尋問を受けてもらうから覚悟しろ」


 その言葉を聞いた瞬間、ミーシャは肩をすくめてため息を吐いた。


「……あっそ。さすがは麒麟児と謳われていたアストラルさまですね。この短時間でそこまでお調べになられたんですか」


「この私の力と情報網を馬鹿にするな……それに見たことろ、お前は実の姉であるセラス・フィンドラルに罪を着せようとしていたようだな」


「どうしてそう思うのですか?」


「知れたこと。セラス・フィンドラルがそのようなことをするものか。セラスは学院の中でも誰に対しても分け隔てなく接し、生徒たちはもちろん教師たちからも慕われていたのだ。そして学院内の人気のない場所でも武術の鍛錬をこなし、一方で淑女としての振る舞いも欠かさなかった。そのような立派な女性が一国の王子の暗殺など企てるはずがない」


「おやおや、アストラルさまはずいぶんとセラスお姉さまのことに詳しいのですね……もしや、学院内でセラスお姉さまをずっと気にかけていたのですか?」


 え? 嘘?


 だってアストラルさまはこの国の第1王子よ。


 たかが男爵家の令嬢を気にかけるはずがないじゃない。


 私はアストラルさまをじっと見つめた。


 すると私と目が合ったアストラルさまは、両頬を赤らめながら気まずそうに顔を少しだけ背けた。


 待ってください、アストラルさま。


 その表情と態度は何なのですか?


 もしかして、本当に私を気にかけていらしたのですか?


 アストラルさまは咳払いをすると、「それはともかく」と腰の長剣を抜いてミーシャに切っ先を突きつける。


「余計な話はもう終わりだ。ミーシャ・フィンドラル、大人しく投降してもらう。いいな?」


「嫌です」


 ミーシャはあっさりと断った。


「このまま捕まったら尋問どころか処刑ですよね? だったら投降ではなく別のことをいたします」


 別のことって何?


 私がそう思ったとき、アストラルさまも同じことを思ったのか「別のこととは何だ?」とミーシャに問いかけた。


「皆殺しです」


 ミーシャはゾッとするほどの凶悪な笑みを浮かべた。


「ここにいる全員、1人残らず皆殺しにいたします」


 み、皆殺しですって……。


 それは聞き間違いではなかった。


 ミーシャは確実に、ここにいる全員を皆殺しにすると言ったのだ。


 私は握った拳をブルブルと震わせた。


 恐怖からの震えではない。


 激しい怒りによる震えである。


「ミーシャッ!」


 私はミーシャの前に毅然と立ちはだかる。


「自分勝手な欲望を満たすために私を陥れ、私の婚約者を奪っておきながら、さらにアルトラルさまの殺害計画までも企てた。しかもその罪を私に着せて処刑しようとしたこと……断じて許されない!」


 私の怒声を浴びてもミーシャは不敵な笑みを崩さない。


「だったら、私をどうしますか?」


「ここであなたを倒す――私の空手でね!」


 そう言うと私は、両足が「ハ」の字になるような独特な立ち方を取った。


 背筋はまっすぐに保ちつつ、続いて拳を握った状態の両手の肘を曲げて中段内受けの形――三戦さんちんの構えを取る。


 コオオオオオオオオオオオオ――――…………


 そして私は〝息吹いぶき〟と呼ばれる呼吸法とともに、丹田たんでんを中心に全身が光り輝くイメージで〈気〉を練り上げていく。


 すると丹田たんでんから全身へ凄まじいエネルギーが駆け巡った。


 それだけではない。


 直後、私の丹田たんでんから全身にかけて火の粉を思わせる黄金色の燐光りんこうが凄まじく噴出した。


 その黄金色の燐光りんこうは、光のうずとなって私の全身を覆い尽くしていく。


 体感で通常の数十倍の力が溢れてくるようだ。


 顕現化した〈気〉の力。


 那覇手なはて系の空手の基本にして奥義のかた――三戦さんちんと〝息吹いぶき〟の呼吸法をある一定の段階まで練り上げると起こる現象の一つである。


「な、何という力強く神々しい姿だ……」


 三戦さんちんにより五感の働きも向上しているため、数メートル後方にいたアストラルさまのつぶやきも聞き取れることができた。


 普段ならば「光栄の極みです」と礼を述べるところだが、今はそんなことをしている状況ではない。


 国賊であるミーシャを倒すことのほうが先決だ。


 などと私が思っていると、ミーシャは大きく口を開けて笑った。


「それこそ笑止ですわ、セラスお姉さま! 空手だが何だか知りませんが、お姉さま如きが【魔眼】の力を得た私を倒せると思っているのですか!」


 もちろん、と私は高らかに答えた。


「空手の力は破邪の力でもある! むしろ魔に堕ちたあなたを倒せるのは、姉であり空手令嬢となった私を置いて他にいないわ!」


 直後、私は三戦さんちんを解いて別の構えを取った。


 左手は顔面の高さで相手を牽制けんせいするかのように前にかざし、右手は人体の急所の一つであるみぞおちを守る位置で固定させる。


 そのさいは両手とも拳はしっかりと握り込まず、どんな対応もできるようにゆるく開いておく。


 肩の力は抜いて姿勢はまっすぐ。


 バランスを崩さないように腰を落として安定させ、左足を2歩分だけ前に出して後ろ足に7、前足に3の割合で重心を乗せた。

 

 攻撃と防御の二面にすぐれた、空手の組手構えの1つである。


「面白い……面白いですわ、お姉さま!」


 そんな私の構えを見ても、ミーシャは驚くどころか全身から邪悪なオーラを放出する。


「いいでしょう、だったら私も本当の姿になって殺してあげましょう」


 ミーシャは隣にいたシグルドに顔を向けると、呆然としていたシグルドの頭部を両手で掴む。


 そのままミーシャは額と額がくっつくほどシグルドに顔を近づけ、六芒星が浮かんでいる両目でシグルドを見つめた。


「ぐ……ぐあああああああああああ――――ッ!」


 突如として響き渡った男性の苦痛の叫び。


 その叫び声を上げたのはシグルドだった。


 一体、ミーシャは何をしたの?


 私は構えを保ちながら戸惑っていると、ミーシャとシグルドがいた場所を中心に異変が起こった。


 2人の足元から大量の黒い霧が発生し、瞬く間にミーシャとシグルドの2人を飲み込んだのだ。


 私だけではなく、アストラルさまや他の兵士たちも固唾を呑んだだろう。


 それほどミーシャとシグルドの身体を覆い隠してしまった黒い霧の正体がわからない。


 しかし、その黒い霧もやがては晴れてきた。


 時間にして10秒ほどだろうか。


 黒い霧が完全に晴れたとき、兵士たちから悲鳴が沸き起こった。


 私もあまりの驚きに絶句する。


 黒い霧が晴れた場所にいたのは、身長3メートルを超える筋骨隆々の女巨人だったのである。


 女巨人はミーシャだった。


 そして服が破けているので肌は剥き出しになっていたのだが、その肉体の表面には異常に太い血管がいくつも浮かんであり、健康的な人間のような肌色ではなく死人のように青白かった。


 だが異変はそれだけではなかった。


「あはははははははは――――ッ!」


 ミーシャの股間の部分が盛り上がると、そこから人間の顔が出てきて背筋を凍らせるほどの笑い声を発したのだ。


 股間の部分から迫り出してきたのはシグルドの顔である。


「ミーシャ、何という心地よさなんだ! 僕は君と一体化したことでまるで神にでもなったような気分だよ!」


「そうでしょう、シグルドさま。今、私たちは本当の意味で1つになったのです……ですが、今は喜んでいる場合ではありません」


 ミーシャは私を見て口の端を吊り上げる。


 もはや気持ち悪さを通り越して恐怖だった。


 ミーシャとシグルドの肉体は不気味なほど1つになっていた。


 その姿は断じて神などではない。


 まるであの姿は……。


 私がごくりと生唾を飲み込んだとき、ミーシャは私に向かって言い放った。


「さあ、セラスお姉さま! その空手とやらで私を倒してみてくださいよ! 魔人と化した私たちを倒せるものならばね!」

 

「ま、魔人だって!」


 悲痛な叫び声を上げたのはアストラルさまだった。


 それも当然だろう。


 私はアストラルさまの蒼白な顔を見ると、すぐさま顔を戻して魔人と化したミーシャを睨みつけた。


 魔人。


 はるか海の向こうにある大陸は魔界と呼ばれており、その魔界に住んでいるという魔族という種族の中で強力な魔法が使える生物のことを魔人という。


 しかし、確か例外があったはずだ。


 私は学院内の授業で習ったことを思い出した。


 魔人という存在は実際に魔界に住んでいるらしいが、強力な召喚魔法の類で魂だけをこの人間界に呼び寄せられることもあるらしい。


 やはり実家の書庫でミーシャが見つけたという魔導書には魔人の魂が封印されていたのだ。


 その魔人にミーシャは魅入られた。


 いや、同調したというべきか。


 腐りきったミーシャの魂が魔人の魂と同調し、こうして肉体すらもおぞましい化け物に変化させたに違いない。


 何たる醜悪!


 何たる狂気なの!


 私は歯噛みした。


 ミーシャはここにいる者たちを皆殺しにすると言ったが、きっとそれだけでは終わらない。


 私たちを皆殺しにしたとしても、そのままミーシャは屋敷を出て王都の大通りに向かうだろう。


 何のために?


 決まっている。


 大通りにいる無辜むこの民たちを惨殺するためだ。


 それほどの狂気が私の肌にビンビン伝わってくる。


「セラス・フィンドラル!」


 私があらためてミーシャを倒す決意を固めたとき、血相を変えたアストラルさまが私の隣へとやってきた。


「き、君は今すぐ逃げるんだ! あ、あ、あの化け物は俺が倒す!」


 アストラルさまの声は上ずっていた。


 私はちらりとアストラルさまが両手で握っている長剣の切っ先を見る。


 微妙に震えていた。


 本当はアストラルさまは怖いのだ。


 けれど、アストラルさまは必死に恐怖を堪えて立ち向かおうとしている。


 しかもアストラルさまは、自分が闘うから君は逃げろとまで言ってくれた。


 こんなときに何だが、私は身分が上のアストラルさまにときめいてしまった。


 第1王子という高貴な身分でありながらも、たかが男爵家の令嬢である私の命を身を挺して守ろうとしてくださっている。


 その心遣いだけで十分だった。


 私が命を張って闘う理由として――。


「ありがとうございます、アストラルさま」


 私は小さくアストラルさまに頭を下げた。


「ですが、ここは私が引き受けます。アストラルさまはこのまま兵士たちの元までお下がりください」


「ば、馬鹿なことを言うな。相手は凶悪な魔人なんだぞ。闘うのは男である俺の役目だ」


「いいえ、闘うのは私の役目です」


 私はアストラルさまにはっきりと言った。


「それに第1王子であらせられるあなたさまにもしものことがあったら、このヘルシング王国の将来はどうなるのですか? あなたさまは次期国王になられるお方です。どうか、この場は私にお任せください」


「しかし、君は女性で俺は男だ。女性を闘わせて男の俺が引き下がるなどは……」


「大丈夫です」


 私は力強い言葉でアストラルさまの声をさえぎった。


「今の私は女性の前になのです。魔人と化したあの者たちは私の空手で倒します……いえ、私の空手でなければ倒せません。なので、アストラルさまはお早くお引き下がりください」


「セラス……」


 逡巡すること数秒、アストラルさまは「絶対に死ぬなよ」と優しく言って後方へと下がっていく。


 ――絶対に死ぬなよ


 その言葉だけで私の闘志にメラメラと火がつき、全身に巡っていた〈気〉の力がさらに倍増する。


〈気〉の力は気持ちの力。


 アストラルさまの温かい励ましをもらった今の私は、たとえ伝説の魔王とやらでも徒手で倒せる。


「オホホホホホ、さあお姉さま! ちゃっちゃと殺してあげますね!」


「セラス! お前は婚約破棄どころか殺して死体遺棄をしてやるわ!」


 魔人(ミーシャ+シグルド)が声を合わせて襲いかかってくる。


 ミーシャ……シグルド……ほざくのはあの世でしなさい!


 私は〈丹田たんでん〉に意識を集中させながら、両足を開いて腰を深く落とす。


 続いて右拳を脇にまで引き、空いていた左手で右拳を包むような形を取った。


 直後、私は再び息吹いぶきの呼吸法を行った。


 全身を包んでいた〈気〉を右拳に集中させるイメージを高める。


 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――――…………。


 私が〈気〉を練り上げていくごとに、悲鳴を上げるように地響じひびきがっていく。


 やがて私の右拳が朝日のようにまばゆく光り輝き出す。


 そして私は練り上げた〈気〉とともに、魔人(ミーシャ+シグルド)に向かってその場での右正拳突みぎせいけんづきを繰り出した。


「――〈天覇てんは漸魔亜拳ざまあけん〉!」


 私の右拳からは黄金色の巨大な奔流ほんりゅうが大砲のように打ち出され、真正面から突っ込んできた魔人(ミーシャ+シグルド)へと飛んでいく。


 アストラルさまや兵士たちに見守られている中、私の究極奥義・〈天覇てんは漸魔亜拳ざまあけん〉は魔人(ミーシャ+シグルド)に直撃した。


「「ギャアアアアアアアアアアアアアアア――――ッ!」」


 耳をつんざくような悲鳴とともに、魔人(ミーシャ+シグルド)の肉体は巨大な爆発とともに端微塵ぱみじんになった。


 まるで浄化されたように全身が黄金色の光となって霧散していく。


 そんな様子を見つめると、私は全身を覆い尽くしていた〈気〉を静かに解いた。


「正義は必ず勝つのよ」


 そう言い放ったあと、私は最後に残心ざんしんをして呼吸を整える。


 同時に私は考えた。


 こうして空手令嬢に目覚めた私のこれからのことを――。


「セラス・フィンドラル!」


 やがて呼吸を整えたとき、アストラルさまが駆け寄ってきた。


「あのような魔人と化した奴らを倒せるなど凄すぎる」


 どうやらアストラルさまは異様に興奮しているようだ。


 顔を真っ赤に上気させ、にこやかな笑みを向けてくる。


「君はこの王都を救った英雄……いや、確固たる力を持った女傑。まさに俺が求めていた女性だ」


 え? それはどういうことですか?


 まさか、私の空手を見て求婚してくださるとか?


 私がドキドキしていると、アストラルさまは「君に言いたいことがある」と真剣な表情になった。


 間違いない。


 これは面と向かって愛の告白をされるやつだわ。


「俺を君の弟子にしてほしい!」


 …………………………………………はい?


 私がキョトンとしていると、アストラルさまは「俺を弟子にほしい」と大きな声でもう一度繰り返した。


「実はミーシャ・フィンドラルが言っていたように、俺は学院内で君をずっと気にかけていた。人知れず武術の稽古に励む君を見たときから、ぜひとも君と武術の鍛錬を一緒にしたいと思っていた。なぜなら、俺は武術の鍛錬が三度の食事よりも大好きだからだ!」


 興奮冷めやらぬアストラルさまの言葉は続く。


「だが、もっと好きなのは強い女性だ。そう、まさに今の君だよ! だから頼む、セラス・フィンドラル。君のその空手とやらを俺に教えてくれ! そのためなら俺は喜んで君の弟子となろう!」


 ズッコオオオオオオオオオオオオ――――ッ!


 アストラルさまの前でズッコケるわけにはいかなかったので、私は心中で激しくズッコケた。


 まさか愛の告白ではなく、弟子入りを懇願されるとは思わなかった。


 とはいえ、さすがに第1王子さまのお願いを断るわけにはいかない。


 そうよ!


 これはむしろチャンスだわ!


 空手令嬢に目覚めた私ことセラス・フィンドラルが、この王都に空手を普及させるにはアストラルさまの弟子入りを受けるのが1番いい。


 それに確か聞くところによると、巷では貴族令嬢が相手の殿方から唐突に婚約破棄される出来事が続いているという。


 正直なところ「そんなまさか」と疑っていたが、今日の自分の身に降り注いできたことを考えるとありえる話だった。


 だとしたら、もう他人事ではない。


 きっと不当に婚約破棄された令嬢の中には、相手に何の「ざまぁ」もできずに嘆き悲しんだ者も多くいただろう。


 それこそ絶望の中で、自ら命を捨てた者もいたかもしれない。


 ならば婚約破棄されて空手令嬢に目覚めた私の使命は、そんな可哀そうな令嬢たちに相手を「ざまぁ」する空手を教えるべきなのではないか。


 うん、そうに違いない。


 それこそ空手令嬢である私の天命に違いないわ。


 私はアストラルさまに「認めます」と言った。


「アストラルさまは私の1番弟子です。世のため人のため、そして婚約破棄された令嬢たちのために王都に空手を広めましょう」


「最後のくだりはよくわからないが……まあ、弟子にしてくれるならば万事OKだ! これからよろしく頼むぞ、セラス師匠!」


「こちらこそ、アストラル弟子さま!」


 私とアストラルさまは師弟の契りとして、互いの拳を「コツン」と軽くだけ突き合わせた。




 聖国歴2022年。


 こののち、アストラルを弟子にしたセラスは王都に空手の大道場を構えた。


 道場の名前は〈セラス流空手道・漸魔亜ざまあかん〉。


 婚約破棄された令嬢を中心にセラスは着実に門下生を増やしていき、1年後には館長であるセラスの実力を聞きつけたS冒険者や兵士たちも弟子入りしてきて門下生の数は1000名を超えた。


 もちろんその門下生が増えた陰には、副館長となったアストラルの尽力があったのは誰の目にも明らかだった。


 だが、セラスとアストラルが師匠と弟子と言う関係だけで終わったかというとそうではない。


 数年後――。


 ヘルシング王国の国王となったアストラルの隣には、〈空手女王〉となったセラス・フィンドラルの姿があった。


「これからもずっとよろしくな、セラス師匠。いや、我が愛する妻よ……ところで今夜はどうだ? そろそろ世継ぎがほしいのだが」


「奇遇ですね、国王陛下。私も同じことを思っていました。それでは日課の正拳突き10000本を突き終えたらにいたしましょう」


 国王の部屋には、2人の楽しそうな声がいつまでも聞こえていた。



〈Fin〉

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