肩書によるなんらかの分類や、比較、批評
好きとは言い難い。いや、嫌いだ。大っ嫌いだあんなもん。
たとえば芸人が小説を書いたというと驚かれるし、俺自身も偏見を持っていたクチだが、そのとき「小説はすごくて芸人は見下す比較」が無意識のうちに出来上がっているな、と。自分がまさにそれだったから本当に反省するしかない。そして今後、どこかで「お前なんてクソやんけ」と言われたとしても、それはへらへら「クソしない人間います? 神様だってこの世界にクソしますよ」って返すくらいの余裕がなきゃいけないな、と思った。
たとえばライトノベルと言って忌避感を示す人はそれを下に見てるわけだし、肩書きってのはそこまで神聖視するものか? って思う。もちろん国家資格とかそういうのは別問題かもしれんが、たとえば素人が好きに言い合う分にはその程度の狭い世界に囚われて、自由を奪われる謂れなんてどこにもないんじゃないかと思う。
個人の主張に矛盾があるのはむしろ当然で、生まれてから死ぬまで常に一貫した人間は、正直狂気じみているじゃないかと自分は思った。
そのあたりの混沌としたものが己のうちにずっとあって、どう表現すべきかは非常に曖昧で言葉も出てこないが、なんで人間は比較、カテゴライズなんてことで、自分の可能性を打ち切るんだろうかと、疑問に思う。
好きだからやる、嫌いだから見ない。それでいいじゃん。わざわざ包括的な比較対象を作って見下げたりするのは、学生時代までの特権じゃないか?
たとえば歌うのが好きです、絵を描くのが好きです。「じゃあなんで向上心を持たないの?」っていうのも、ある種の暴力だ。
好きでやっていることならわざわざ無理してまで上手くなる必要はないし、他人から比較されることによってその人の内在する感情には「もっと本気じゃなきゃダメだ、趣味は真剣じゃなきゃ」と強迫観念が生まれる。あるいはそれを、自ら比較することで、生み出すこともある。自分がまさにそう。
だから、好きでやってる人は「好きでいること、好きでいるには本気じゃなきゃいけない」みたいな嘘を自分に吐かなきゃいけなくなって、好きなもんを嫌いになる。
山口一郎は「あらゆる不幸せは比較から生まれる」と言っていたが、まさにそれ。
そして本当に理不尽なのは、自分が比較する気がなくとも、勝手に他人からラベルを貼られて比較される残酷さ。
かつて自分は勝手に批評されたことがあって、それを取り下げてほしいと頼んだが、創作が自由なら批評も自由だと聞き入れられなかった。
なぜ嫌なことを嫌と言って、別に損するでもない記事の消去を断られたのかわからなかった。お前のくだらん批評もどきなんぞケツ拭く紙にでも書いとけカス、と怒るような記事を投稿した記憶もある。
いや、俺は批評や批判を受け入れる気は、もちろんない。こき下ろされたら、怒る。そんなのとうぜんだ、俺は人間だぞ。AIじゃないんだから「はい、すみません、以後修正します」とはならんだろ。
昨今、作家が批判を受け入れるべきという状況も、なんだか嫌いだった。芸術、本来比較なんてのは度外視で自由であるべきそれ自体が何かと比べられ、「生産性がない」と見下されているような、無性な怒りを感じる。
俺は他人と比べ続けて不幸になったから、自分ではもうくらべることをやめるようにしているし、だから正直、有名になりたいとかバズりたいとか言わないから、勝手に比較してそいつの自慰的な快楽のオカズにされるのも、勘弁願いたい。
いいじゃん、同好の士同士で身内の楽しみして。何が悪いんだよ。
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