自己整理の記事

 さすがにさっきの話で一日のエッセイが終わるってのもなんだかなんともという気分なので何か別の話をする。プランはまるでないのでひたすら駄文というか、ほんとに「お前それ100均のノートにでも書いとけよ」って内容に終始するかもしれない。



 PCなりiPadなり、変換が時たま——というには、ちょっとどうなの? って感じで誤爆する。

 非常に困る一方たまに思いもよらぬ当て字を思いついたり、あるいはそこはひらがなの方がいいかもしれない、みたいな提案のように感じられて、もしかしたらこうした機器に宿った付喪神の悪戯なのではないか、とたった今考えていた。


 実際その時には気づかなかったり、気付いたとしてもふざけないでくれと思うが(だから投稿前にはチェックを入れるのだし)、実際には自分が打ち間違えていたりもするので決して機器の過失ではない。


 それでいうと予測変換というのは便利な一方、ひらがなの表記揺れ「じ、ぢ、とか、ず、づ」を区別せず、やや誤訳気味に予測変換を立ててしまうせいで個人的に日本語というものを軽視しているな、と感じざるを得ない。

 この感覚はおそらく自分が小説家である、誰がなんと言おうと、という傲慢な神経から生じるものだとわかっているが、やはり俺たちのような人種は(俺たち=小説家という包括的な意味ではなく、傲慢な作家気取りという穿った見方だが)誤訳や誤用に敏感で、非常に、うるさい。だが、他人にそれを指摘するほどのエゴも、それで悦に浸る趣味もないので見かけても黙っているのだが、内心「それは違うぞ」と思ったりもする。


 とはいえ昔から舌戦になると大抵は露骨な論点ずらしや、論点の外れたところに結末が着地して「結局俺の質問にも指摘にも答えてないだろ」ってことが多いので、今更、似たようなやり取りを他人とする気はない。

 もちろん人間のみんながみんなそこまでの無理解を持って暮らしているわけではないだろうし、実際は俺以上に賢くてあれこれ考えられるのだろうが、だからこそ己の浅慮と短慮が見透かされる気がして、やはり、人と話すのは怖い。


 そう、自分が愚鈍であるという自覚はあって、だからこそ、それを取り繕うように本を読むのでは、と一時期考えてしまった——無意識のうちに、おそらくはそんなふうに芸術に接してはならないと恐怖した。もしくは、考えることすら億劫になってしまった——故に、読書から離れていた時期もあって、思い上がりめいた自意識の肥大が、己の最大の愚かさだと気付かされた。


 最近はミスキーというSNSでも、なるべくなら会話というか、そういったやり取りをしたいと思っていたり、このサイトでも他人と関わりたいと思うようになった。


 もしかしたらそれは29年の孤独が、ここにきて器の限界を迎え、あるいは器に満たされていた己だけの満足感が足りなくなったから、他人の温度を欲しているのかもしれない、と思った。

 実際、働きたいという意思も、給料というよりは他人とのつながりや社会貢献をしたいという意思の方がはるかに強く、給料に関しては生きる上で必須だから付随してもらえるなら稼がねばな、というくらいのものでしかない。

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