魔法と記憶
青凪ちあき
第1章
「アリアおねえちゃん、ありがとう!僕もう苦しくない!」
そう言って笑う、少年の顔を撫でた。
もう二度と苦しみませんように、と願いを込めて。
***
生暖かいまどろみから、徐々に意識が現実に連れ戻され、重いまぶたをひらく。
柔らかい日差しが差し込む室内には、微細な埃がキラキラと反射していた。
長い髪を机の上に広げるように組んだ腕に頭を預けていた彼女は、重い体をゆっくりと起こし、前髪を直した。
酷く幸せな夢だった。
お日様の光をたっぷり浴びた暖かい毛布に包まれたような感覚。
しかし、現実に帰ってきた今は、妙な不安が滲む。
近くに置かれたマグカップの中を覗き込むと、なぜか虚ろな顔が水面に揺れていた。気に食わなくて無理やり笑うと、からっぽででも完璧な笑顔ができあがる。
私は深呼吸をして、何気なく周りを見渡した。
樹齢1000年以上はあると思われる大きな木をくりぬいたようなツリーハウス、これが私の住む家。
樹の幹と、成長し地表に這い上がってきた根が家を支えている。足りない箇所は隙間の形に合わせた木材をはめ込んでおり、歪だが温かく安心する立派な家だ。
室内を照らすガラスの照明。薬草が入った瓶や魔導書で隙間なく敷き詰められた木製の棚。壁にはドライフラワーで作ったリースやガーランド。
外ではなにかの鳥が陽気に歌っている。
「大丈夫、今日は、大丈夫よ…」
じんわりとにじんでいた不安を拭うように自分にそう言い聞かせ、立ち上がった瞬間、コンコン、とドアのノック音が響いた。
思わず体がビクッと反応してしまったが、気持ちを落ち着かせるためわずかに深呼吸をし「はい。」と乾いた返事をした。
「おねえちゃん…はぁ、はぁ…アリアおねえちゃん、いる…?ゴホッ」
ドクン、という強い心臓の音を合図に、黒い感情が一瞬にして全身を染めた。ドア越しのくぐもった声色で、訪ねてきた主が分かったからだ。
自分はなんてタイミングであんなにも幸せな夢を見てしまったのだろう。これが”魔法使いの性”というものなのだろうか。
全身を支配しようとする不安を押しつぶすようにこぶしを固く握り、薬の調合で散らかったテーブルを簡単に片づけ、声の主がいるドアの方へ向かう。
ドアを開けると、ぜぇぜぇと苦しそうな浅い呼吸で、胸の辺りを押さえている少年がいた。
少年は私を見た途端、縋るように抱き着いた。
「はぁっ…ゴホッ…アリアおねえちゃん…」
「だいぶ息切れが酷いみたいね。前に渡した薬は飲んでる?」
「飲んでる…でも、あの薬はもう効かなくなっちゃったの…ハァ…、僕もう寝てるのも嫌だよ、もっと、みんなみたいに走ったり、遊んだりしたい!はぁっ…だから…おねえちゃんのところ…来たの、ゴホッ…もっとすごいお薬ちょうだい…!」
そう言って少年は顔をうずめ、ヒューヒューと浅い息を吐く。
『あぁ、これは…。』
少年の状態を見て、すぐに察した。
『でも、私がやらなくては。彼を救えるのは”私”しかいないのだから』
そう自分に言い聞かせ、少年の頭にそっと手をのせる。
「…わかったわ。とりあえず中に入って、まずはゆっくり深呼吸しようか。吸って…吐いて…、そう、大丈夫大丈夫。落ち着いたらお茶でも飲みながら詳しくお話聞かせて。」
鎮静効果のある薬草が入った温かいお茶を飲ませ、呼吸が落ち着くように背中をさすってやると、少年はやがて落ち着きを取り戻した。
安心している様子の彼とは反対に、彼女は、これから来るであろう現実を目の前にして、徐々に心臓の鼓動が早くなってく。
「じゃあ、これからおねえちゃんが魔法をかけるから、少しリラックスしようね…鼻で息を大きく吸って、吐いて…そう…そのままゆっくり呼吸しながら目を閉じて。」
少年は私に言われたとおりにゆっくり体で呼吸をし、瞼を閉じる。
『この少年が瞼を開けるときにはもう…。』
悲しみなのか、苦しさなのかわからない、行き場のない感情が全身を覆い尽くす。
「そう、いい子ね。…ありがとう……。」
そして少年に聞こえないほどの小さな声で、
「……さようなら。」
と呟き、震える右手を彼の胸のあたりにかざし、力を込めた。
すると、手の甲の「印」が瞬き、陽だまりのようなやさしい光があたりを包みこんだ。
発生する優しい風が室内のあらゆる物を揺らす中、懸命にイメージを注ぎ込む。
肺という臓器の、機能が足りない箇所…ここに、与えるイメージ。虫に齧られた食物の孔を、光で満たすような。
薬などでは太刀打ちできない、厄介な病。完璧に治せる方法は、この世にたった一つしかない。
そしてそれは、”私にしかできない”魔法だった。
魔法は家の中の草花や木々をも照らし、衝撃は温かく優しい風になって、やがて消えていった。
あたりが元の空気を取り戻したとき、少年は目を開けた。何が起きたのかさっぱりわからないと言わんばかりに口をぽかんと開けて、キョロキョロと見回す。
まるで“初めてここに来た”かのように。
「…おねぇさん、誰?」
「…っ」
胸が締め付けられた。悲しさや虚無感や、言い表すことのできない感情が、私を覆い尽くす。
しばし声を出せず、少年は次第に不審そうに警戒をし始めた様子だった。私は一度深呼吸をし、紅茶に映して練習した完璧な笑顔になって、口を開いた。
「…私はあなたが家の前で倒れていたから助けただけよ。もう平気なら早く帰りなさい。」
「…え、そうなの?あんまり覚えてないけど…ありがとう、おねえさん。」
納得していないような表情に、更に気持ちが重くなる。彼の笑顔が二度と見られなくなるどころか、もう二度と会うことはなくなる現実に打ちひしがれるような思いだった。
少年は羽が生えた様に軽くなった体に違和感があるのか、一瞬怪訝そうな表情をしたが、すぐにドアを開けて帰って行った。
ひどく空しい気持ちになった。
きっと彼は、自分が重い病気だったことをすぐに忘れてしまうだろう。ウソみたいに”跡形もなく”症状が消えたのだから。
少年は生まれつき肺の機能が弱く、激しい運動が出来ない身体だった。私の調合した薬で症状が緩和されたとき、心からの感謝を何度も述べ、似顔絵をプレゼントしてくれた。
しかし、少年の病状はそこから悪化の一途をたどり、最近は薬の療法が不可能になり始めていたのだ。
いつかは“この日”が来るのだろう、と覚悟はしていた。
今日、彼が描いてくれた似顔絵を見てしまったときから、運命は決まってしまったのだろうか。つくづく、魔法使いという人種はこういうことが多いと思う。
こんなに早く別れが来てしまうことは、予想できないくせに。
部屋に戻ると、差し込んでいた太陽光は雲に隠れてしまったらしく、薄暗くなった室内で照明がキラキラと輝いていた。
もしかして雨でも降るのだろうか、と天井透かすように空を思い、室内灯を仰いだ次の瞬間、目の力が抜け、光が流れ星のように斜めに線を描いた。
体のどこも彼女自身を支えようとはしてくれず、このまま木造の床に体を打ち付けるのか、と思った。
しかし、体が床に打ち付けることはなく、代わりに温かくて大好きな匂いが、私を包んだ。
「…っぶねーな」
「あ……。おかえり、カリス。」
玄関のドアを開いたと同時に瞬時にアリアを支えたカリスは、不機嫌そうな表情と声色だった。
濃紺の髪の隙間から室内灯の光が星のように覗く。細められた深海のような青い瞳は、少しの怒りと不安感を抱えて、揺れていた。
「…また、やったのか?」
そう言いながら体を支えた方とは反対の手を空間にかざすと、手の甲の印が瞬き、エメラルドの光が宙を踊った。
近くの椅子を魔法で引き寄せ、私を座らせる。続いてヒュン、と指を振って、飲みかけのマグの中身をリセットしてからティーポットの紅茶を注ぐ。
さらに棚から私の好物のルージュ・プラムを取り出すと、フルーツナイフを操って一口大にカットし、花弁のデザインが施されている皿に乗せて、テーブルにセッティングした。
「…ふふ、さすがね」
少し血の気の引いた顔のまま、無理やり笑顔を作った。
見下ろすカリスは、更に不機嫌そうに、隣に自分の椅子を用意してドカッと座る。
「アイツの不調は、薬で制御できなかったのか」
「ええ。やっぱりあの病気にはだめだったわ。…ふぅ、やっぱり薬は、万能じゃないわね」
まるでなんでもないことのように振舞いたくて、私ははルージュ・プラムをひとつ、フォークで口に運んだ。
じゅわりと口内で弾けた実は、豊かな甘みと酸味、それから渇きを満たすようなみずみずしさがとても美味だ。
続けざまに紅茶を含むと、フルーツティーのような風味が鼻孔をすり抜けていき、乾いた心がじんわりと潤っていくのを感じた。
「…お前の体だって万能じゃないだろ。ただでさえ体力が必要な魔法で、しかも治してやっても相手はお前のこと“忘れる”んだぞ…お前の体も心も、このままじゃ…」
「カリス」
カリスがハッとした顔になる。
私はカリスの思いを痛いほど理解している。そして手の甲をカリスに向けた。
カリスの手の甲にあるものと一ヶ所を除いて、同じものが描かれている。
「この魔法が使えるのは…”私”しかいないの。…わかってるでしょ。」
「……。」
カリスの深海のような瞳が、また揺れた。
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