第六話 虚を夢む 其の陸

「なんでお前がこの学校にいるんだよ…」

 人のいない渡り廊下に、楓子の声が響いた。

「いやぁ、私家業で引っ越してきてさぁ。ここの学校に通うことになったんだよねぇ!」

 叶は元気な声で言う。その顔は邪気がなく、タチの悪い笑顔だ。


「えぇ…そんな急に…」

「……おい」

 その時、楓子の背後から、低い声が聞こえた。

 聞き慣れた声だ。いつも楓子に向けられる、敵意のある声。


「……凛」

「軽々しく呼ぶんじゃねえよ、アバズレ」

 夏野凛が、取り巻きを連れて廊下を歩いてきた。

「おい転入生、こんなデクと関わってると、アンタ後悔するぞ?」

 凛がそう吐き捨てる。


 だが、叶は笑ったまま言った。

「後悔なんてしないよ! 私から友達になろうって言ったんだもん。フー子、この人たちも友達なの?」

「いや、友達っていうか……」


 叶の一言に、凛と二人の取り巻き…八ツ橋佳代と相田知子は、どっと笑った。

「友達ぃ? そうかそうか、友達かぁ。なぁ楓子、お前に友達ができるなんて、いいご身分だなぁ」

「……友達なら前からいたよ。詩乃とかね」

 楓子は少し考えてから言った。


 すると凛は、猛獣のように目を見開いた。

「……詩乃がお前如きと友達だと? もう我慢できねえ。転入生ちゃん、お前はそこどいてな」

 凛はそう言って、楓子に向けて拳を作る。楓子は咄嗟に身構えた。


 直感で理解した。恐らく楓子は、これから殴られるのだろう。今まで、凛に暴言を言われたり、睨まれたりしたことはあったが、手を出されたことはなかった。

 しかし、あの一言が逆鱗に触れてしまったようだ。


「死ね! アバズレが!」

 そう叫び、凛の拳が飛んできた。

 が、その拳が楓子を捉えることはなかった。


「……あ?」

 凛は叶の方を睨んだ。

 叶が、楓子を殴ろうとした凛の腕を抑えたのだ。

「え……叶?」

「もう、フー子ちゃんを殴るなんて! フー子ちゃんの可愛いお顔に傷でもついたらどうするつもり?!」

 叶は半分ふざけたおネエ口調で、凛に反抗した。


「……てめぇ、姉御に喧嘩売るつもりか?!」

 相田が、そう言って楓子を睨む。

「やっちゃってくださいよ、姉御!」

 八ツ橋が、期待を込めた目で凛に言った。


 凛は、闘志を宿した目で、叶を睨んでいる。

「お前から死ぬか」

 まずい。


 突っ立っていた叶に、凛が殴りかかった。

「叶! よけろ!」

 楓子は叫んだ。しかし、楓子の目はすぐに、阿呆のように見開かれることになる。

「え…?」

 凛が叶を殴る直前、突如、凛の体がぴたりと動かなくなった。

「は?! なんだっ、これ!」

「なっ…姉御?! どうしたんですか!?」


 恐らく、凛と取り巻き達には、突然、凛の体が見えない何かに抑えられたように見えただろう。

 だが、楓子には見えていた。叶の影から這い出た黄金色のカゲロウ、ツッキーが、凛の体を押さえている。


「ひどい人もいるもんだね! 突然殴ってくるなんて…!」

 叶は不満そうな顔で、押さえられた凛を見ている。


「チッ…! なんだ、体が動かねえ! おい、お前! 何しやがった!」

「大きい声だなあ…」

 凛が冷や汗を流しながら、うるさそうに耳を塞ぐ叶を睨んだ。

 やはりカゲロウは、楓子と叶以外には見えていないようだ。


「凛ちゃん? だっけ。君、次にフー子ちゃんに手出したら、今度はこれじゃ済まないからね」

 叶の表情が一変した。その目は氷点下の猛獣のように冷たく、凛に一筋の良心すら向けていない。


「ひ…」

 凛は怯えた声を上げた。


     ………すごい。


 楓子は、怯えている凛なんて見たことがなかった。常に冷徹で、喧嘩は圧倒的に強い凛。

 叶……いや、ツッキーは、そんな凛を、いとも簡単に押さえつけてしまったのだ。


 叶の宣言に、凛と取り巻き達は不承不承去っていった。



*****



 楓子と叶は、先ほどの諍いの後、2人で下駄箱を出て帰り道を歩いていたのだった。

「いやぁ危なかった! フー子ちゃん、なんであんな輩と関わってるの? 殴られたりしてない?」

「え? いや、今日みたいなことは今までなくて…」

「…ならいいけど」

 叶はあからさまに頬を膨らませて駄弁った。


「楓子ちゃん、もうあんなやつらに関わっちゃダメだよ? お母さん心配やわぁ…」

「別に、私は関わりたいわけじゃない…」

 楓子がそう言うと、叶は「だろうけどさ…」と不満そうに呟いた。


 だが、叶は何を思いついたのか、すぐにいつもの笑顔に戻った。

「あ、そうだ! ズダバ行く約束だった!」

 楓子はその言葉に、嫌そうな顔をした。

「うげ…」

「うげとはなんじゃ! 失礼だよ!」

「だって、人多いの苦手だし…」

 楓子の一言に、叶はニヤニヤと笑みを浮かべた。


「もしかしてフー子ちゃん、陰キャ?」

「……埋めるよ?」

「ごめんって」

 叶は怖い怖いと言いながら、なぜか嬉しそうな顔をした。

「あ、ほら、津田ちゃん一時に待ってるって!」

 叶が携帯を見せてきた。さっきあったばかりだというのに、叶の津田真子とのメール件数は三十を超えている。


「げ…もうこんなに…」

「仲良くなっちゃった☆ってことで行こうねフー子ちゃん! ズダバで待ってるから!」

 そう言って叶は走って逃げた。


「あ、おい! まだ行くなんて言ってな…」

 楓子は走り去る叶に叫んだが、叶は一向に振り返らない。

「じゃあまたあとでー!!」

 叶は最後にそう言い残し、あっという間に見えないところまで走っていってしまった。


「…あいつ……」

 ワナワナと怒りに震える楓子の口から、虚しく言葉が漏れた。

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