第3話 釣りと戦闘訓練

 この世界に来て実に半年もの時間が経過した。

 クラスメイト達がどうなっているのかすら分からず、エルピスは何もできないままこの家ですくすくと育って居る。

 幹の事を心配な気持ちはあるが、半人半龍ドラゴニュートという少し成長の早い種族であろうと生後半年で出来ることなど限られた事だけだ。

 人間換算にすれば3歳くらいだろうか、言葉も話せるし立ち上がることも今のエルピスにはもう可能である。


「エルピス様、おもちゃはもう飽きてしまわれましたか?」


「うん……ちょっと。ありがとねリリィ」


「いえいえ、それにしてもそうですか……面白いですねエルピス様は」


「──?」


 リリィは偶によく分からないことを口にする。

 歳の差自体前のエルピスを含めても数百年くらいはありそうで、そう考えるとエルピスが理解できないのも無理はないだろう。


「いえ、気にしないでください。エルピス様の成長に驚いて居たのですよ」


「なら良いけど……。本でも読んで暇つぶしとくね」


「魔法操作系の本ですか? なんでこんなところにあるんでしょうか危ないからダメだと言ったのに」


「ああっ! 返してよ! 返してぇ~!」


 フィトゥスから借りた魔法操作の基礎的な本は、無常にもリリィの手によって取り上げられてしまった。

 ここ数日間コツコツと本を読み進めて居たと言うのに、その本を取り上げるとはあんまりな仕打ちだ。

 いじけたエルピスが部屋の隅で縮こまっていると、廊下から聞こえた足音でさらにエルピスは小さくなっていく。


「エルピス~! ごめんねぇ? お母さんちょっとお仕事行ってて寂しかったでしょ?」


 現れたのは母クリムである。

 最初の頃はその愛情を漫然と受けていたエルピスだが、こう何度も何度も可愛がられると思春期的には厳しいものがある。

 出来れば構って欲しくないのだが、この体でそれを言ったところで無理だ。


「あれ? どうしていじけてるの?」


「私が本を取り上げてしまったのでそれでいじけたのかと、これなのですが……」


「魔法講座書ねぇ……これイロアスの部屋にあったはずなんだけど、どうやって取ってきたのかしらエルピス?」


「知らない。そんな本見たことがない」


「あらそう、残念ね。今日のおやつ私と一緒に食べよっか、リリィに作ってもらう?」


「フィトゥスが持ってきました」


 母からの脅迫を受けて、なんとか誤魔化そうとしていたエルピスの努力は即座に保身の方向へと転嫁する。

 部屋から抜け出そうとゆっくりと窓の方へ移動してみるが、直ぐに母に抱き止められエルピスは宙ぶらりんになったまませめてもの抵抗として手足をバタバタと動かす。


「あの馬鹿には私からきつく叱っておきます」


「いいのよ、遅かれ早かれでしょうし……どうしたのエルピス? いじけてたみたいだけれど今日はなんだか機嫌が良いわね」


 この状況でエルピスの機嫌が良い事を見極めることができるのは、さすがエルピスを溺愛する母である。

 先程までは母の到着を待っていたので部屋の中で待機を命じられていたのだが、母が帰ってさえくればこれから行きたいところに行けるのだ。


「今日は川に行って釣りもできるし、そのあと剣の訓練があるんだよ! ようやく訓練だよ!?」


「あらそれは良かったわね。リリィ、誰が付き添う予定なの?」


「川と釣りはハネルさんが、剣の訓練は私が行う予定です」


「周辺の処理は終わらせた? 森の者たちにはちゃんと言ってきた?」


「はい。滞りなく、全て問題ありません」


 エルピスと喋っている時には見せない冷たい表情の母の横顔を眺めながら、ゆっくりとエルピスは脱走する手筈を整える。

 何時も何時もこう言う時は安全確認をしておきながら、後からやっぱり危ないからと母は付いて来るのだ。


 最初は気にならなかったが、本格的に魔法の訓練もしたいし、何よりずっと周りに誰かがいるのは少々心が落ち着かない。

 母には悪いが少し逃げさせて──


「エルピス、窓から逃げようとしても分かってるわよ。危ないから戻ってそこに座ってなさい」


「───は、はーい!」


 ちょうど真後ろに当たる位置の窓を、ゆっくりと音もなく開け乗り越えようと片足を上げた瞬間。

 まるで見えているかのように、母から力強い声で呼び止められる。


 気付かれないと思っていたわけではなく、母の気配を感じとる力がどれ程なのか試したかったのだが、それにしても驚きだ。

 背中に目がついているというよりは、周囲一帯が母の視界にあるようである。


「私の方も──そうね、 一時間程度もあれば大体の用事は終わらせられるから、剣の訓練には私も参加するわ」


「了解しました。ではその様に」


「しっかりと言うことを聞いて、ちゃんとするのよエルピス」


「はーい!」


 母の柔らかい手で軽く頭を撫でられながら、その言葉に対してエルピスは元気よく返事する。

 部屋から出て行く母の後を追う様にして、メイドに抱き抱えられながらエルピスも部屋から出て行くのだった。


 /


 何時ぞやに行った山の麓の川よりも、更に透き通って見える川の縁でエルピスはぼーっとしながら竿を垂らす。

 森からの栄養や魔法的な何かの関係か、エルピスが浸かったとしても肩から上は出る程度の浅瀬で、かなりの大きさの魚が泳いでいる。

 見た目としては、鮭や鮎の巨大版というのが正しいだろうか?

 時折こちらを睨みながら泳いで行く魚達と、暇つぶし感覚で睨み合っていると不意に横から声がかかる。


「なかなか釣れませんねエルピス様」


「だねー」


「これは今日の食卓がヤバイやつかも知れませんねぇ」


「だねぇ、もう空を飛んでる飛龍を適当に取ってきて食べちゃう?」


「……それも良いかもしれませんねぇ」


 声の主人は今日一日エルピスの担当になっているハネルだ。

 彼女の視線はエルピスの真後ろに置いてある少々大きな生け簀に注がれており、まだ一匹も泳いで居ないそれを見られるのは何となく恥ずかしい。


 森の中では異質とも言えるメイド服を着ながら、エルピスの横で釣竿を同じように垂らす彼女の生け簀にも、やはり同じように魚は居らず、不意にほぼ同時に溜息が漏れた。

 釣り場のポイントが悪いわけでは無いだろう。

 もしそうだとしたなら、先程からあれ程まで魚に見られる訳が──魚に見られる?


 冷静に考えてみればこちらから魚が見えているのなら、向こうからもこちらが見えているはずだ。

 というか現に先程まで睨み合っていたのだし。

 なのに馬鹿正直に糸を垂らしていた所で釣れるわけも無く、ならもう少し高いところから釣れば良いかと木の上に飛び乗りエルピスは魚の視界から消える。


「え、エルピス様!? いきなり消えて…というかこれ私がクリム様に怒られる奴じゃ…っ!」


「ここだよハネル、木の上。ここなら魚から見られないでしょ?」


「……なるほど、それなら確かに魚も釣れるかもしれませんね」


「うっわ、魔法ずっる」


「これ結構魔力使うなぁ…っと、すいません聞いてませんでした。何か言いましたかエルピス様?」


「いや何も」


 当然の様に姿を消したハネルを見ながらエルピスが言葉を漏らすと、ハネルは不思議そうな顔をしてエルピスを見つめる。

 そんなハネルだが、エルピスは彼女がここまで完璧な隠蔽が出来ると思って居らず、驚きを隠せないでいた。


 目を凝らさないとその輪郭どころか存在すら朧げになり、本当に彼女と言う存在がいるのかすら不明瞭になっていく。

 そう思えるほどに完璧な隠蔽だ。


「これなら魚も釣れそう──って引いてますよエルピス様!」


「わ、ほんとだ! けっこう力強い!」


 意外なハネルの強さに驚いて竿から目線を放していると、いつのまにかエルピスの竿に魚がかかっていた。

 木から飛び降り枝に糸をからげて釣り上げようとするが、あまりの強さにエルピスの身体が空中で止まってしまう。


 魚の力がこれなら魔物の力はどうなっているのか、ぷらぷらとふりこの様に宙で揺れるエルピスを見かねて、ハネルが魚に魔法で攻撃する。


「よいっしょー! 釣れたよハネル!」


「かなりの大物ですねエルピス様! 今日の夕飯はこれにいたしましょう!」


「……あと二、三匹釣って刺身にして食べてみようかな」


「川魚を刺身にするとお腹壊しますよ?」


「うぇぇ、それはいやだな。諦めよう」


 ひっそりと手伝ってくれたハネルの努力を無駄にせず、エルピスは無邪気な笑顔を浮かべる。

 釣れた魚を生け簀に入れながら、餌を取り付けて再び竿を垂らす。

 鳥や龍の鳴き声が聞こえる森の中で、エルピスはゆったりと時間を過ごすのだった。


 /


 太陽が頂上に上がり、釣りをやめたエルピス達は自宅へと戻っていた。

 しっかりと昼食を取って仮眠も済ませたエルピスは、中庭に足を進めると自分専用に作られたらしい木剣を手に取る。

 前世で木刀というものを修学旅行先の土産屋でしか触った事がないので、あまりどれくらいの重さなのかは覚えていないが、手にかかる重さは木の枝となんら変わらない程度だ。


 それを身体の赴くままに振り回し、ヘリアからダメ出しをされながら鍛錬していると、リリィがゆっくりとこちらにやってくる。


「こんにちはエルピス様、もう鍛錬を始めていたのですか?」


「うん、ごはんも食べたしお昼寝もしたから、ちょっと早めに始めてるんだ」


「リリィが来たなら私は洗濯物に戻るわね、後は任せたわ」


 素振りを辞めずに頭だけをリリィの方に向けながら、エルピスはそう言葉を返す。

 楽しみだったというのももちろんあるが、それよりもまず母に無様な姿を見せたくなかったからだ。

 とはいえ初心者が何をしたところで変わるはずもなく、エルピスの姿はよほど滑稽に写っている事だろうが。


「──間に合ったみたいね。あら似合うじゃないエルピス、かっこいいわよ」


「お仕事お疲れ様、おかあさん。おかあさんって剣も扱えるの?」


「ちゃんとした所で教わったりしてないから、ちょっと我流になるけど大丈夫よ! これでも今まで色んな剣士と戦ってきたんだから」


 そう言いながら母は胸を張る。

 母の本業は武闘家なので、剣士と一対一で戦う機会など何度でも有ったのだろう。

 見た限り自信満々と言う感じの母は、近くに転がっていた木の枝を手刀で切り落として持ちやすい様に加工すると、そのまま構える。


 それだけでこの場の雰囲気が変わり、いま自分が持っている木刀が邪魔に感じる程の威圧感が全身を打ち付けた。

(え? 勝てるわけないよこんなの! 膝が動かないんだけど!?)


「クリム様、少し威圧を抑えた方がいいかと。エルピス様が怯えています」


「──あ、あれ!? ごめんねエルピス! 怖くない様になるべく抑えてたつもりだったんだけど」


「大丈夫、大丈夫だから一戦しよ?」


「良いけど……怖くない?」


「大丈夫だから。先に一回当てた方の勝ちでやるよ」


「では私は審判ですね。お互いに離れてください…じゃあ始めますよー開始!」


 全力で踏み込んで大体二、三歩分の距離を取った物の、この程度母なら瞬きする間に詰めれるはずだ。

 だから先手必勝を狙うのではなく、先ずは武器を構えて少しでも寄ったら攻撃を仕掛けると威嚇する。


 隙もあるだろうし、そもそも構えがこれであっているのかすら分からないがしないよりはマシだろう。

 なら最初から奥の手を見せるのではなく、いまは普段通りに戦うことにする。


「攻めてこなくて良いのエルピス?」


「足が前に出てくれないんだ、言う事聞いて欲しいんだけどね」


 命を取られる事がないと分かっていても、圧倒的強者を前にするのは怖い。

 震える膝を見せて自嘲気味に笑うエルピスは、年相応の表情を浮かべていた。


「──まだまだ甘いわよエルピスッ!」


「さすがに引っかからないか」


 だがそれは半分は演技で、一瞬心配から隙が生まれた母に向かってエルピスは軽い攻撃を仕掛けた。

 エルピスの普段通りの戦い方──とは言っても実戦などではなくゲーム的なものでの戦い方だが──と同じで強い敵には弱いものは嘘をついてなんぼである。


 ──なのだが、母がその程度の嘘に騙されるわけもなく、恐らくは#技能__スキル__#か何かを使用した平手がエルピスの顔目掛けて飛んでくる。

 当たったところで痛くは無いだろうが、一撃貰ったら負けのルールでは平手だろうと無視もできず、とっさにエルピスは地面を思いっきり蹴った。


「──うっわ高いぃぃぃぃいっ!? リリィヘルプ!」


「はい!」


 何十メートル浮き上がっただろうか?

 この体で未だに全力を出していなかったエルピスは、浮かび上がったその高さに思わず唾を飲み込む。


 高所恐怖症であり高いところを怖がるエルピスからしてみれば、我が家が小さく見えるほどの高さは恐怖以外の何者でもない。

 エルピスが咄嗟にリリィの名を叫ぶといつのまにか隣に控えており、空中でエルピスを抱きかかえたままリリィはふわりと地面に着地する。


「こっわいんだけど、え? 無理無理、死ぬ!」


「大丈夫ですかエルピス様?」


「ごめんちょっと待って、心臓がやばい。ドキドキする」


 胸の鼓動は母と対峙した最初よりも徐々に大きくなっていく。

 いまは足の裏に感じる土の感触が何よりの助けだ。


「凄いわねエルピス、魔法的な強化なしであそこまで飛ぶなんてさすが私の子供ね!」

「ふぅ……。よしっ落ち着いた! 良いよ母さん続けよう」

「あら、良い心持ちね」


 自分の身体の強靭さに驚いてしまったが、あれだけ高く飛べたということは落ちても死にはしない筈だ。

 根拠のない自信を胸に携えてエルピスは剣を後ろに、身体を低く保つと地面を押し出すようにして前に出る。

 すぐに視界は周りのものを置き去りにして目指していた場所、母のすぐそばにまで迫る。


「貰っ──」


「──まぁ良い線は行ってたと思うわよ? はい一撃」


「あだっ!?」


「勝者、クリム様!」


 エルピスでこれだけの速度を出せるのだ、母からしてみれば随分とエルピスの動きは単調で鈍間に見えたことだろう。

 恥ずかしい事だがまだ今日は初戦であると自分に言い訳をすれば、多少は心持ちも軽くなる。


「か、勝てる未来が見えない……うぅ」


「うーん、作戦は良かったと思うけど気配を出しすぎかな、どこから来るか直ぐに分かっちゃうわよ」


「気配とか…そんなのひどい」


「ほら慰めてあげるからおいで」


 砂粒ひとつすら被っていない様な顔をして両手を広げる母を見て、エルピスはその強さを改めて実感した。

 おそらくどれだけの策を弄した所で絶対に超えられない実力差を感じ、エルピスは素直に母に抱きしめられながら頭を撫でられる。


「中々見事な突撃でしたよエルピス様」


「力の感覚がまだわかんない」


「まぁ最低でもイロアスくらいには格闘術が使えないと、私には勝てないわよ? エルピスなら直ぐに私も追い越せるとは思うけど」


「本当に?」


「本当よ」


「じゃあもう一回!」


 どうして母親の言葉はたった一言でここまで自信を沸かせることが出来るのだろうか。

 母に言われた言葉で得た確証のない自信を胸に抱きながら、エルピスは再び木刀を手に取る。

 先程よりも確実に動けそうな予感を感じながら、エルピスは二度目の勝ち目のない戦いに身を投じるのだった。


 ────ちなみにこの後リリィにまでボコボコにされたのはエルピスの一生の秘密である。

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