明日に向かって…… 春樹
「俺は今まで、ケンカで負けたことねえから。こないだ北海道に行った時なんか、ヒグマが出たんだよ。でも、車で轢き殺してやったけどな。いくら俺でも、ヒグマには素手では勝てねえよ。あ、でも鹿は素手で殺したことあるぜ」
こんな子供も騙せないような武勇伝を得意げに語っているのは、言うまでもなく上田春樹である。この男は今、キャバクラに来ていた。横にいるキャバ嬢に対し、武勇伝を語っている真っ最中だ。
廃墟の中で戦いが始まった時、春樹は素早く身を隠した。ルイスが撃たれ、綾人がリューに立ち向かっていった時……皆の注意がそちらに行ったのを利用し、その場から逃げ出した。どさくさ紛れに、倒れている男たちの体から財布を抜きとった挙げ句、誰にもバレずに脱出したのだ。
この経験は、春樹に異様なまでの自信を与えていた。目の前で行われた、凄まじい戦い。挙げ句に、ルイスが銃で撃たれたのだ。そんな修羅場を、見事に生き延びてみせた。自分はもしかしたら、本当に凄い人間なのかもしれない。
いや、間違いなく凄い人間なのだ。
自信とは、自分を信じることから生まれる。自分を信じるには、信じるに足る根拠が必要だ。今までの春樹には、その根拠たるものがなかった。
しかし、あの廃墟での経験が春樹に自信を与えてしまった。その自信は度胸となり、異常なまでの行動力を与える。さらに、嘘をつく際の得体の知れない説得力と化していたのだ。
春樹の武勇伝は続く。
「いやさ、この前ヤクザに呼び出されて事務所に拉致られたんだよ。周りは五人くらいのスーツの奴らがいてさ、マジで殺されるな、と思ったね。いやホントに」
言いながら、春樹はあの時のことを思い出していた。同時に、その後のことも。
テレビのニュースによると、病院の跡地に寝泊まりしていた少年二人と便利屋の坂本尚輝が、たまたま現れた中国人たちと言い合いになり、挙げ句に乱闘騒ぎを起こした。その結果、中国と日本のハーフである
そのニュースを見た時、春樹はあまりの馬鹿馬鹿しさに笑ってしまった。いったい何が起きていたのか、自分には全てはわかっていない。ただ、ニュースで報道されていたような単純なケンカでないのは確かだ。どこの何者が、こんな穴だらけの話を作ったのだろうか。
まあ、いい。今の春樹には関係ない。劉を殺した少年と坂本、それに中国人たちは逮捕された。しかし、それは奴らが間抜けだった。それだけの話だ。自分は逃げ延び、こうしてキャバクラで遊んでいられる。奴らは敗者で、自分は勝者。それだけのことだ。
しかし、ひとつ気になることもあった。あの場にはもうひとり、若い男がいたはずなのだ。途中でいきなり乱入し、中国人たちを叩きのめした。劉の頭を床に叩きつけていた少年を止めていた。その男だけは、逮捕されていないようである。
恐らく逃げ延びたのだろう。それもまた、自分には関係ないが。
キャバクラを出た後、春樹は酔いを覚ますためにゆっくりと歩いた。今から、寝ぐらにしている風俗嬢の家に帰るのだ。最近、転がりこんだばかりだが……居心地は悪くない。もうしばらくは、あの家に居るとしよう。
だが、春樹は全く気づいていなかった。後ろから、自分の後をつけて来る者がいたのだ。
春樹は、もっとも重要なことを学ばなかった。そして、学ぶ機会を永久に失ってしまった。後ろから迫って来た者は、音もなく近づき、首に腕を回す。
春樹は抵抗する暇もなく、絞め技にて意識を刈り取られた。
どのくらいの時間が経過したのだろう。
春樹は意識を取り戻した。だが、両手両足はきっちりと縛られ、口には猿ぐつわがかけられている。動くことはもちろん、喋ることも出来ない。
部屋の中には、数人の男がいる。こちらを見下ろしている二人の男と目が合った。ひとりは若い男だ。どこかで見た記憶がある。だが、そんなことはどうでも良かった。
なぜなら……もうひとりの男は、あの桑原徳馬なのだから。
「西村陽一、とかいったな。お前、俺たちがこいつを探してるのを、どうやって知ったんだ?」
桑原は冷酷な表情で、若い男に尋ねる。だが、視線は春樹を捉えたままだ。春樹は震えだした。心底からの恐怖だ。
「まあ、蛇の道は……って奴ですよ。じゃあ、後はよろしくお願いします」
そう言うと、若い男は軽く頭を下げ立ち去ろうとする。すると桑原は手を伸ばし、彼の腕を掴んだ。
「待ちなよ。俺の下で働く気はないか? お前みたいな奴、今どき珍しいからな。どうだよ?」
「申し訳ないんですが、俺はヤクザになれるほどの根性はありませんので。失礼します」
若い男はそう言うと、腕をすっと引き抜いて去って行った。
すると、桑原のボディーガードの巨漢が憤然とした様子で後を追おうとする。だが、桑原が制した。
「板尾、ほっとけ。今はそれどころじゃねえ。それよりも……」
桑原は言葉を止め、しゃがみこんだ。春樹を見つめ、にいと笑う。
「そう怖がるな。とりあえず、お前はマグロ船に乗ってもらう。個人的に、魚介類ってのはあまり好きじゃないんだが……俺に対する大きな借り、そいつを返すために働いてもらうぜ」
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