ヒミツ 春樹

 上田春樹は、初めて味わう恐怖にうち震えていた。

 彼は今、何も持っていないのだ。カードも、スマホもない。免許証を始めとする身分証の類いも現金も、全て桑原徳馬に取り上げられたままだ。素っ裸で外に放り出されたも同然の状態である。

 今いる場所も、どこだかわからない。わかっているのは、ここが真幌市である事実だけだ。スマホや現金がない以上、自宅に帰る手段もない。どうやって帰ればいいのだろうか。

 だが、それは後回しだ。とにかく、今は逃げなくてはならない。怪しげな二人組が突然、部屋に侵入してきた。春樹を殴り、佐藤浩司を拉致して連れ去り、ルイスを逃がしてしまったのだ。

 二人組が何者かは知らない。恐らく、桑原に敵対している連中であろう。あるいは、佐藤に恨みを持つ者か。あの手のやからは、人の恨みを買いやすい。

 だが、そんなことはどうでもいい。あの部屋に残っていたら、春樹は全ての責任を負わされることになる。あの桑原のことだ。指を詰める、などといった生易しいことでは済まないだろう。

 彼のすることはひとつ。ただちに、ここから離れなくてはならない。




 そして今、春樹は歩いている。

 昨晩は仕方なく、小さな公園の中にある公衆トイレの中で眠ったのだ。臭くてたまらなかった。だが、臭さよりも恐怖の方が上回っていた。外にいたら、いつ見つかるかわからないのだ。最悪の寝室で、一晩を過ごした。

 今朝になり、寝ているところを掃除人に起こされた。仕方ないので、こんな話をでっち上げる。


「オヤジ狩りに遭い有り金残らず奪われた挙げ句に叩きのめされ、ここに放置された。そのために、仕方なくここで一晩すごした」


 憐れみを誘う表情を作り、身ぶり手ぶりを交えて語った。すると相手は同情し、僅かな小銭をくれたのだ。これで、公衆電話をかけられる。電車で帰ることも出来るだろう。少なくとも、ここから離れることは可能になったわけだ。

 まともな人間ならば、すぐに家族に電話をかけ、電車で自宅に帰ったはずだった。

 しかし、春樹はまともではなかった。その金で、飢えと渇きを満たす方を選んだのだ。


 犯罪を生業にしているようなタイプは、基本的に我慢することの出来ない者が大半である。特に春樹は、目先の欲に負けてしまうことが多かった。着る物や身に付ける物、車、家具、そして電化製品など……それらの人の目に付きやすい物に、彼は惜し気もなく金を遣う。

 その結果、春樹の懐は常に寒い状態であった。これまで何人もの人間を口先三寸で騙し、金を巻き上げてきた。総額は、かなりのものだろう。にもかかわらず、その金は下らないことに消えた。

 それでも春樹の心は満たされることがなかった。嘘をつきまくり、ひたすら金を遣い、自分を大きく見せるための嘘をつき続けたのだ。

 その結果、春樹という男の精神は、どんどん緩んでいった。何せ、口先でべらべら喋るだけで……まともに働いた場合の賃金よりも、高い金を手に入れられるのだ。我慢など、する必要がない。


 しかし、そのツケを今になって支払わされることとなる。

 飢えと渇きに、春樹はあっさりと負けた。僅かな小銭を手に入れると同時に、彼はコンビニに駆け込み、そこでジュースやカップラーメン、それに菓子パンを買ったのだ。挙げ句、その場で貪り食う……非常に愚かな行動である。春樹は、この場から逃げるための大切な手段を失ったのだ。




 春樹は、どうしようか思案していた。

 この手の人間が窮地に立たされた時、たどり着く結論はたったひとつである。持っている人間から、奪えばいい。実に単純明快であり、非常に愚かな結論だった。

 しかし、春樹のこれまでの人生において……問題解決の手段といえば、それくらいしか知らなかったのだ。


 周囲を警戒しながら、春樹はゆっくりと歩いていた。桑原は、既にあの部屋に足を踏み入れたことだろう。今頃は、血眼になって自分や佐藤やルイスの行方を探しているはずだ。

 その時、春樹の足が止まった。前から、ランドセルを背負った小学生が三人、こちらに向かい歩いて来る。

 今時の小学生は幾ら持っているのだろう、と彼は考えた。スマホも持っている可能性が高い。何食わぬ顔をして、通り過ぎるのを待った。タイミングを見計らい、そっと後を付いて行く。隙あらば襲い、金やスマホを奪うためだ。

 貧すれば鈍す、ということわざがある。自分の女を殴る最低のチンピラですら、小学生から金を奪おうようなことはしない。彼らの間にも、彼らなりの恥の意識がある。小学生から金を奪うくらいなら、引ったくりでもやる方を選ぶのだ。

 そう、「情けない前科」が付いてしまうことを彼らは極度に恐れる。特に少年院や刑務所などに入った場合……未成年者略取などといった幼児を相手にした犯罪は、もっとも恥ずべき行為と見なされる。

 春樹が今からやろうとしていることも、その「恥ずべき行為」の範疇に入るものだった。

 しかし、今の春樹には、それくらいしか出来ることがなかった。彼は、そっと近づいていく。





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