第28話 来る
「なっ……⁉」
触れる前に――オーブを消してしまったのか。それとも、何か仕掛けがあったのか。どちらにしても、想定以上の事態だ。まさか、ここまでとは思わなかった。
目の前にいる少女は自分やオーブでは近づくことさえできない存在。遥か高みの山を越えた空の上。最初から、無謀な試みだった。
「あ、見つけた」
「くっ……」
少女とライトの目が合う。あぁ、やはり――この者は自分に敵意を向けている。ライトの直感はそう告げていた。彼女の瞳はとても冷たく、そこらに飛び回る蠅を見るような視線が、彼に向けられている。
少女は腰元から、一本の瓶を取り出す。それは透明な液体で満たされており、蓋が開けられた瞬間、ライトはまた別の寒気を感じた。
あの水は――更に危険。恐らく、一滴でも浴びてしまえば、存在を保つことができなくなってしまうだろう。濃度が数百倍の硫酸に等しい。恐怖で全身が硬直し、動かない。ライトの本能はこう告げていた。
自分は今、ここで死ぬ。既に死んでいるにも関わらず、死の恐怖というやつは幽霊にもあるらしい。
ピシャッ
液体がライトに向かって振り撒かれる。目に映る光景がすべてスローモーションの動きになるが、まだ体は動きそうにない。その恐怖に耐えられなくなり、ライトは目を瞑ってしまった。
「…………っ」
一体、あれから何秒経っただろうか。二秒、三秒――まさか、まだ一秒も経っていないのか。自分には一体、どれだけの時間が残されているのか。そもそも、サヤは何をしているのか。危なくなったら、助けると言っていたのに、まだ何も行動がない。
「おい、ライト!」
何ということだろうか。幻聴まで聞こえてきた。最後に聞くのはあのサヤの声というのは皮肉なものだ。
「いつまで寝てんの! 起きろ!」
「ぶっ!」
頬に衝撃を感じる。どうやら、平手打ちをされたらしい。ということは――っ。
「あ、あれ……先輩」
目を開けると、そこにはサヤがモニターを睨んでいる姿がある。周囲を見回すと、地下室の風景に戻っていた。どうやら、彼女の力によって、再び呼び戻されたらしい。
「おおおおおおおおおおおお! 先輩いいいいいいいいいいいい! 怖かったあああああああああ‼‼‼‼」
「あーもう! くっつくな! 助けてやるって言ったでしょ!」
死の恐怖から生還したライトは思わずサヤに抱き着く。それを鬱陶しそうに、頭を掌で押し返しながら、彼女はモニターとの睨めっこを続けていた。
「さっきの水はマジでやばいな……私でも、多分食らったら一発アウト。どうするか……」
「そうっすよ! あの水はマジでやばいっす! 俺も、見ただけで動けなくなりました!」
サヤにとっても、あの水は脅威になり得る。恐らく、死者という概念自体の特効。防御は意味をなさない。
「……ち。気に食わないけど、直接対峙するのは避けた方がいいね。リスクがでかすぎる。幸い、向こうはまだこっちの位置に気付いていないみたいだし、ここで待機してようか」
「賛成っす……もう会いたくないっすよ」
だが、こちらにも対抗手段はある。簡単な話だ。この地下室から閉じ籠ればいい。
二人がいる地下室への階段は巧妙な隠し通路になっており、いくつかの仕掛けを突破する必要がある。更に、直接繋がる扉は十二桁の電子錠付き、厚さ八十ミリの鉄扉で阻まれており、これらを解除しなければ、到達することすらできない。
物理的な防壁はすり抜けられる幽霊にとっては無意味だが、人間なら話は別。その防御力は十分に発揮されるだろう。霊能力を所持していても、相手はただの少女。突破をする術はない……はず。
「一応、オーブちゃんにもあいつに近づくなって指令出しとくか。あいつの狙いはあくまで、私たちだけっぽいけど」
真っ先に、ライトに向かって水を浴びせたところを見るに、オーブ自体には興味がないのだろう。最初から、彼女の狙いはこの病院に住み着く幽霊のみ。
「……先輩。ちょっと」
「ん? 今度はなに?」
オーブへの伝達への最中に、モニターを監視していたライトはサヤを呼ぶ。何か、動きがあったのだろうか。
「あいつの姿が……どこにもいないっす」
「……え?」
急いで、サヤもモニターを確認する。既に、三分の一近くのカメラが潰されていたが、それ以上の不具合は確認できない。つまり、現在進行形では彼女は移動していないことになる。マイクの方も、特に足音がしないことから、どこかに立ち止まっていることになる。
「ちょ、ちょっと待って。オーブちゃんの方にも、確認するから」
こちらから視認できない以上、現場にいるオーブたちに任せるしかないだろう。
「……え? いない? マジで? う、うん。ありがとう」
「先輩……」
「ど、どこに行った……? まさか、逃げた?」
まるで、神隠しに遭ったかのように、少女は消え失せてしまった。引き返して、病院の外に出た――というのは少々楽観的過ぎるだろう。
「……っ」
その時、サヤは――何かを察したかのように、背後へ振り向いた。
「やばい。
「……え?」
その瞬間、室内の空気が――変わった。
シュンッ
「…………ふぅ」
突如として、地下室に第三の人物が現れる。その正体は――姿を消していた眼帯の少女だった。
「なっ……な、なんであいつが……⁉」
「クソ。やられた……あいつ、私が作った〝道〟を通ってきやがった」
「道って、どういうことっすか?」
「お前をこっちに飛ばす時に作った道だよ。まさか、人間で通ってこれるやつがいるなんて……」
サヤがライトを瞬間移動させる際に、空間を歪ませて作成した
少女は物珍しそうに、周囲をきょろきょろと見回す。そして、二人に視線を向けた。
「……やっぱり、
アシツキという単語が彼女の口から出る。やはり、向こうはこちらの戦力をすべて把握しているらしい。その上で、動揺が見られないということは――サヤを相手にしても、余裕があるということだろう。
『……ライト。私が合図したら、上に飛べ』
サヤは念波を使用し、少女に悟られないように会話を試みる。
『に、逃げるってことっすか?』
『うん。こっちも尻尾巻いて逃げるのは気に食わないけど、あくまで直接やり合うのは最終手段だよ』
相手の力量は未知数。サヤも、決して劣ってはいないと自負しているが、今は意地の張り合いをしている場合ではない。リスクを回避できるなら、それに越したことはない。
幽霊の最大の利点は重力を無視して、物理的障害を無効にできること。つまり、建築物内の逃走なら――こちらにかなりの分がある。極論、天井をすり抜け、外にさえ出れば、二人を捕える術はないのだ。
ただ、それは無条件にこの病院の所有権を受け渡すことになる。恐らく、一度この場を離れたら――もう取り返すことは難しいだろう。だが、
「……言っておくけど、逃がすつもりはない」
そう言うと、少女は瓶に入った水を取り出す。瞬間、二人の間に緊張が走った。だが、彼女はその水を――二人に向けることはなく、床に向かって投げ捨てた。
ぱりんと、瓶は割れ、中の液体は散乱する。その行動に、サヤとライトは動揺するが、すぐに意図を察した。
「……っ。しまった。やられた」
「や、やられたって……何がっすか」
「……もう、逃げられない」
「えっ⁉」
いつの間にか、地下室内の壁には奇妙が薄い膜のようなもので覆われていた。これは恐らく、あの水の効果。
サヤが病院を別空間に移動できるように、彼女もまた、似たような能力を使用できる。その媒体が水。この地下室はもう、少女の力によって、隔離されてしまった。脱出することは――できない。
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