点と点
茨悠遠は廊下へ飛び出ると資料室へ直行し、ロックを解除する。
茨が開け放ったそこは、彼女のような人間とっては墓場とさえ呼べる惨状であった。
棚にビッチリと隙間なく並ぶ学会誌、論文集、リクルートマガジン、新聞――。
それらは年代ごと、テーマごと、通常はそうした形で整理されるべきものが無秩序に棚に収まり、収まりきらなかったものがテーブルや床にまで積みあがっている始末であったのだ。
そのように乱雑に集められた情報は利用が難しく、死んだに等しい。ジャンクヤード、情報の墓場である。
「これは――酷い」
生死の境を
おそらくここの惨状も、真鍋の手によるものだろうと茨は考える。
――で、あるならば。
おそらく真鍋は、見つけた情報を元通りに戻したりはしなかっただろう。ならばきっと手近にあるはずという仮定をおいて、茨は目につく場所に視線を滑らせてゆく。
――会社案内、会社情報誌、バックナンバー。
テーブルにはファイルをホルダーにテーブルに積み上げられているものには規則性があった。ここにある殆どのファイルのホルダーの背は十センチ厚のものだ。しかしテーブルに出ているものは、幅二、三センチ厚のものばかりである。
――
茨は迷わず、積み上げられたファイルの一番上を手に取って――開いた。
探偵として動き出した茨の思考を万人に理解できるよう逐一説明することは難しい。
茨は自分が事件を解決する探偵として呼ばれたのでないことを重々
しかし依頼人が犠牲になり、結果、助手が命を賭けた危険に挑むに至ったことで、彼女は転換を迫られた。
先に千束に言いかけたように、とても悪い予感が――何か計算外の出来事が起きている。この事件を設計した黒幕の思惑を超える何かが。
最早好奇心からではない。その予感に
ファイルの中身は、各ページをフィルムで区分けしたスクラップブックであった。雑多な雑誌のページが切り抜かれ、収蔵されている。
――これは会社の掲載誌を切り集めたものか。2025年下半期。違うな。
どうやらハズレである。襲撃前、真鍋が探していたものではない。
しかし真鍋の目当ても、同仕様のファイルにあった
――正解のファイルはどこへ?
テーブルの上からは消えている、と茨は判断する。
犯人が持ち去った可能性はない。この資料室の最終施錠時刻が昨晩22:00過ぎであることを茨は調査済みであった。この時刻は広報執務室の開錠時刻とも一致しており、最後にここに出入りしたのは真鍋自身であったはず。
――彼女は目的のファイルを見つけた。それをどうしたか。内容によっては――。
真鍋は昨夜、このテーブルの脇に立って、ファイルの山から一冊を見つけ出した。
彼女はそれをここで開き、内容を確認し――閉じた。
――手の届く範囲で。
ハズレのファイルを閉じ、真鍋の身長を考慮しつつ隠しやすい場所を探して、キャビネットの開いているスペースに視線を移す。
するとそこに一冊だけ、他に紛れた同種のファイルがある。
背幅三センチ厚。
おそらく昨夜、真鍋はここで見つけたそのファイルだけをキャビネットに戻した。他人の目に触れないようにしたつもりなのだろうが、それだけが戻されていることで逆に目立ってしまった。
それを取り出して開いてみると、やはりこれもスクラップであった。
記事の年代は2022年。アタリである。
そこからWITmediaの記事を見つける。
――2022年の3月期――。
――これだ。
真鍋の遺したスプレッドシートのメモ書きが示す通り――これは、NNN社の掲載誌の切り抜きではなかった。
野木電機産業でセキュリティシステムの開発を行っていた江口
写真の彼は殆ど変わりなく、歪んだ口元を不器用に引き攣らせて笑っているが、まだしも痩せて見える。プロフィールによると長野県出身で東大の大学院を出た後、野木電機に入社したとある。信国大は仮面浪人か、学部のみであった可能性が高い。
彼は、学生時代に『富豪的プログラミング』なるパラダイムを継承して活躍していた。これはシステムの、有限なリソースの量を気にせず、解決すべき問題にのみ注力する手法であったとされる。
このパラダイムの背景には、コンピュータシステム上のリソース、例えばメモリやストレージといった記憶は、いかに広大であっても有限で、即枯渇してしまう前提がある。不要な領域をシステムに返却、再利用されることには誰かが留意しなければならない。にも関わらず、プログラマはそれにいちいち気を揉むことなく部分的には無尽蔵のリソースを仮定して良い――とする、思想の表明だった。
何の変哲もないインタビュー記事であり、記事上、彼らのやりとりは和気
――組み込み機器など、貧弱なハードウェアの上でこんなことをすれば致命的なバグになるんじゃないか。
アプリケーションのプログラマならば、問題ないのかも知れない。事実、リソースの返却を気にしなくてよくする仕組みは、アプリケーションを動かす仕組みに組み込まれ、表面上は見えなくなっている。
しかし江口が開発していたのはカーネル、それもセキュリティに関わる機器で動くカーネルだ。
あらゆる機械において、記憶装置などの
カーネルが正常に動作することは、建物にとって地盤のように重要である。ここで、カーネルがリソース管理を放棄するとどうなるか。あたかも地盤が隣の土地を侵食し、もしくは浸食されるように、建物と建物はぶつかり合い――。
江口は記事の中で『再起動すればいいんですから。マーク・ザッカーバーグもそう言っています』と主張する。だがカーネルでそれが起きれば、正しく再起動できる保証すらない。まずデータの破壊は容易に起きうるだろう。
当然、江口の同僚らは彼の自由にさせなかったはずである。そのことは『富豪的』を謳歌してきた江口にとって、大きなストレスになった。
――それで『なんだ、組み込みか』か。
事故は繰り返し起きていたのである。大部分は修正されたとしても、ほんの一件、世の中に出てしまえばどうなるか。
データの破壊は、一貫性の欠如、矛盾の発生を意味し――つまり、何でも起きうる。
開くはずのないドアが開く――バックドアだ。
――バックドア。秘密の抜け穴。彼は、これを使って――?
茨はそう考えつつも、冷静になる。
――彼にはアリバイがある。しかし同時に、ネットワークの障害発生時刻を偽装すればアリバイ工作ができることも彼自身のアイデアにあったはずだが――いや、そもそも前室は〝知識の密室〟に過ぎない。あのドアを閉ざしていたのは鍵ではなく実のところ、ピッキングや暗証、ロックのバックドアといった知識。彼自身がロックを操作しなくとも、その方法だけを教えれば誰にでも前室を施錠できた――。
思考を走らせながら、茨はファイルを
次のページは、全国紙の新聞の切り抜きだった。
奇妙なことに、このファイルはWITmediaの記事だけをスクラップしたものではなかったのだ。
その記事が目に入り、茨の思考はぴたりと止まった。
――まさか、これが。
――いや、間違いない。これだ。彼女は、これを探していた。
それは奥村を襲った悲劇的事件を伝える新聞記事だった。
このファイルは奥村の手によるものだ。研究資料と論文誌ばかりの部屋にあって、このファイルだけが明らかに異質である。奥村自身がスクラップしていたものを、真鍋が気遣って回収したもの。研究所からファイル一冊持ち出すとなれば大事である。彼女はファイルを持ち出すよりも、奥村の目の届かない場所に隠そうとした。しかしこの施設に自室のない真鍋には、せいぜい資料室のキャビネットに置くくらいしかできなかったのだろう。
2023年4月30日に事件は起きた。長野市内に住むNNNの工学博士、奥村修司宅に強盗が押し入り、当時十歳だった娘の奥村アイリスを殺害。
「奥村アイリス――」
期せずして、茨はその名を口に出していた。
無論答える者はなく、名前だけが紙面の間に吸い込まれてゆく。
――『奥村には、離婚した奥様との間に、アイリスという娘さんが一人おりました』
真鍋が話していた名と同一である。
記事によれば夫はその日、研究発表のため出張しており、妻も買い物に出た間のことであった。奥村邸には最新のセキュリティシステムが導入されていた、にも関わらず事件は起きたのだ。
セキュリティシステムのベンダは野木電機産業。現在のNGI社である。
犯人逮捕を伝える別の記事もあった。犯人グループの逮捕後、主犯と目される男は事故死しており、どうやって奥村邸のセキュリティを掻い潜ったのか、その方法は捜査中だった。
――やはりNGIのセキュリティシステムの古いバージョンにはバグがあったのか。それを開発したのが、あの江口さん……。
これらの記事の並べ方は、作為的である。
江口のせいで奥村宅の事件が起きたとは断言できない。
この記事だけを関連付ければそうとしか思えないとしても、それは論理ではないのだ。物証や検証を経て、確かにこの方法が使われたと確認できるまで責任を求めることはできない。
これらは飽くまで、時間の流れの中にまったく独立して存在する、点と点に過ぎないのである。
しかし真鍋がなぜ自らこの事件の解明に深く関わろうとしたのか、その理由だけは茨にも解った気がした。
真鍋が奥村にどういう感情を抱いていたのか、その点に確証があったわけではない。それでも彼女がこのスクラップを見つけ、奥村から取り上げる至った経緯については、一様ならぬものがあったと想像させる。
――〝彼らの感情〟。
――それをこの事件の動機に深く組み込むと、これまで鮮明に見えていなかったあの定理が、全く違った意味を持つ――。
――しかしそれは。
――この事件の本当の犯人では、ないはずだ。
茨は記事の続きに目を落とす。
逮捕された者は奥村邸に侵入した方法について、死亡した主犯の男だけが知っていたと供述している。しかし同時期、同セキュリティを採用した家では窃盗が相次いでおり、主犯の男の死後も続いている。侵入の方法がマニュアル化され、かつて半グレと呼ばれたような反社組織に広まっていたと考えられるが、野木電気産業からのコメントは得られなかったと記事は締め括られていた。
記者の著名は――〝千束大樹〟。
「ここにいたか、探偵さん」
その声に顔を上げると、そこに当の本人――千束が立っていた。
茨は、ドアを閉めていなかったのだ。
「ちょうど良かった。千束さん、この記事に覚えが?」
千束はスクラップに目を通すと、「はあん」と言った。
「思い出した。まさかあの事件だったとは――」
「この事件に続報は?」
「いや、これを書いた後は企業事件の得意な奴に任せちまった。どうもNGIが臭い、リコールがあるんじゃないかってことでな」
「大スクープだったのでは?」
「……解ってて言ってない? 厭だねえ。そりゃ大スクープだよ。だから盗られたんだ。俺っちが扱ったのはこれが最後だった。まぁ尤も、続報がでないってことは、そういうことさ」
茨はこれ以上の情報を得られないことを悟った。
「――それで、私を探していたようですが?」
「鰐淵さんに訊いたよ。さっきの検証……もう一回試させてくれないかい。今度こそ、なんとかダクトを通って密室まで行けるか試してみるよ」
先程検証を試み、失敗してからさほど時間は経っていない。彼はダクト内で全く進むことができなかったのだ。
再検証など無意味であろう、とは茨でなくとも予測するだろう。
「……お辛いのでは? 無理をなさらなくとも……」
「今更それを言うかね。まぁ、堂山ほどゴツくはないが、順当に考えりゃそれしかない。俺っちが通れないって証明できりゃ、堂山には絶対ムリだって皆納得するでしょ」
「千束さん――」
「別にあいつの為じゃない。他にやることもないしさ、やれるだけやってみようってこと」
だがこのとき千束の表情からは、言葉とは裏腹にただ漫然とは繰り返さないという決意が垣間見えた。
〝克服〟――その非線形の変化は、人間とってごく自然に起こることでもある。
茨は、検証の再開に同意した。
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