A,B,E、そして物言わぬゲーデルの定理について
いつの間にか21時も近い。他にやることがないとはいえ、随分ゆっくり夕食を摂ってしまったことになる。まぁ、何も食べた気はしないが。
テキサスコンビは『二十年来の謎が解けた』とほくほく顔で帰って行った。
気が付くと阿部さんや千束さん、江口先輩、秦さんや志木君も引けて行って、ここにはいつまでもホワイトボードを眺めている悠遠さんと僕だけが残った。
シーザーサラダは、漬物……は大袈裟だが、かなり乾いていた。
悠遠さんはスマホのメモを見ながらテーブルを指先でコツコツと叩く――「ここまで解ったことを整理しよう」。
「犯行時刻はTIFA内部のログ、メッセージの送信時刻、所長室の最終施錠時刻から見て22:30前後――ほぼこれで確定だ。そこから大きなズレがあったとは考えにくい。その時刻のアリバイがなかった人物は秦さん、堂山氏――」
悠遠さんはホワイトボードのtHとtDにアンダーラインを引いた。
「だがこのうち少なくとも、TIFAの残したメッセージからは秦先生と事件の関わりは見られなかった彼の経歴や質問からも、奥村氏に個人的な殺意を持つ理由はない。それどころか、逆にTFAを崇拝する一面さえあった」
秦さんは――給食費を盗んでいなかった。
でも彼は、吉田教諭を『殺そうとして』居所を聞いたとも話した。それは為されなかったのだから、勿論彼が殺人者との
TFAを神様だと語った彼には、僕らの及びもつかない何らかの歪みが生じたとも――いや、それは考えすぎだろうか。
悠遠さんは僕の胡乱な思考をかき消すように続ける。
「一方の堂山氏の場合は違った。メッセージによれば、彼の質問は過去彼の関わった事件に関するものだった。それが露呈すれば堂山氏は殺人者とされ、名声も地に落ちるだろう」
「では堂山……さんは、アリバイがなく、ピッキングで一枚目の扉を破れて、動機もあったと」
正当防衛とはいえ――さっきの話の後で、僕の中で堂山は、それまでの彼と違っていた。
僕らは彼のことを何も知らなかったのだ。
驚くには当たらない。僕は、ここにいる全ての人達に、昨日初めて出会った。悠遠さんと、阿部さんのペンネームを除いて名前すら知らず、何の接点もなかった人々だ。誰がどんな内面を抱えていようと、僕が知る由もないのだろう。
それを差し引いたとしても、堂山の一件には驚きがあったのだ。
彼が人を殺していただなんて。
けれど、今ここで起きている殺人事件については当然別に考える必要がある。
最初の密室を、彼は構成できた。
前室の廊下側のドアはピッキングで施錠、解錠が可能な鍵だった。合鍵はとうに紛失しているとのことだ。
ナンバーロックの暗証をTIFAが見て知っていたのではないか、との声もあったけれど、職員らによればどうやらその可能性はほぼ皆無らしい。奥村所長はそのドアをチューリングの次くらいには嫌っていた節がある。彼自身、一度もそこに暗証を入力しなかった可能性が高そうなのだ。
勿論、二重密室の二枚目の密室のドアはまったく違うのだけれど、一枚目を突破できなければ話にならないのだし――。
まず何より、怪しい。
僕達はジオフェンスという名の密室の中にいる。
もし今ここに警察が現れて捜査を始めたら、彼くらい疑わしい者はさっさと逮捕されるだろう。そのレベルの疑わしさだ。
でも――二重密室。
もし犯人が二重密室になどしていなければ、今頃堂山が犯人で決まりだったはずだ。
「ああ。でも真実、彼が犯人かはどうだろうね? 堂山氏は確かに怪しいが、TFAは彼の過去の事件について正当防衛を認めているんだ。直ちに動機になるかは怪しい。むしろ彼がThe Final Answer再開に反対していたことのほうが気になるが、奥村氏を殺すことがThe Final Answerを止めることに繋がるかというと、それも短絡的だと思うね。現状、奥村氏殺害の動機を持つものは、アンバサダーの中には見当たらない」
The Final AnswerないしTFAの研究を率いていたのは奥村所長だ。
けれどこれらは企業であるNNNの所有物であるはず。なら、奥村所長を殺しても光堂さんか鰐淵さんがそのポストに収まるだけ――。
TFAは止まらない。
ふと、嫌な予感がした。
「悠遠さん、もし、殺人が続くのなら、次に狙われるのは――」
滅多なことを言うものじゃないよ、と悠遠さんは迷惑そうにしつつ、僕の言いたいことは百も承知のようだった。
「まぁ、仮にその線で考えるなら光堂さんか鰐淵さんか、或いは志木君ということもあり得るね。しかし彼らは地下のラボに籠りがちだし、単独行動は好まないようだ。ひとまず彼らに喫緊の危険が迫っているとは、思わない」
アンバサダーの鍵では地下のラボへは入れないのだ。それはもし、ゲーデルなる者が忍び込んでいたとしても同様。
となると、悠遠さんがあまり慌てて犯人探しをしていないように見えるのも頷ける。
「話を戻そう。アリバイがある人はここの職員では内田さん、真鍋さんと鰐淵さん、志木さんと光堂さん。ログによれば地下のドアが0時過ぎまで解錠されていないことは傍証になるだろう。一方アンバサダーでは、阿部さん、千束さん、江口さんと君、そして私にアリバイがある。客室のドアは事件前後で何度か施錠・解錠されている。毒島さんも推定では一応アリバイがあると考えられるね。さっき言いそびれたが、逆に全く操作の記録がないのは、秦先生のドア」
「その人達の誰かが、アリバイ工作を行ったと?」
聞いてしまってから、前にも一度全く同じ質問をしたことを思い出した。
確か、このアリバイ工作には知識が要るという結論だったような気がする。
「前にも言ったけれど、アリバイ工作をするには、ロックのログの仕様を熟知している必要がある。真鍋さんか、彼女からログの仕様を聞いて知っていたか、いずれかの必要があるね。江口さんはNGIの社員だがドアロックはPCM社製だし――ログの運用方法、即ち何を記録して何を記録しないかみたいなものは施設ごとに設定するものだよ。仮に彼がPCMの社員だっとしても、そんなことは知りようがないと思うね」
しかし――と悠遠さんはホワイトボードの江口先輩の定理tEを眺める。
「無視はできない――しかし彼は、君とゲームをしていて、事件後も比較的早めに部屋を施錠している。確か、光堂さん達と一緒にマッチしていたんだっけ?」
多分そうだと思いますよ、と僕は頷く。
「あ、でもログによると江口先輩は23:30に一度部屋から出てますよね。犯行後の時刻ですが。『小腹が空いて』とか言ってましたっけ」
彼はそのとき毒島さんを見かけたと言っていた。一方、毒島さんはそんなことを話さなかった。
そうなると毒島さん――だろうか。彼女は人一倍、自分の質問を秘匿したがっているように見える。
でもその前に、僕にはひとつ考えがあるのだった。
前室・廊下側のドア――二重密室の外側は、記録がない。つまり、一度密室を作れた犯人には22:30以降自由に出入りできたかも知れないのだ。
「悠遠さん、もし犯行時刻が誤認させられていたらとしたら、どうです?」
そう尋ねると、悠遠さんはにやりと嗤い、「なかなかミステリっぽいことを言うね」。
「そもそも密室自体が犯行時刻を偽るためのものだとしたら、ということだね? 犯行時刻を構成する要素は5つある。TIFAのログ、メッセージの時刻、所長室の最終施錠時刻に加え、ネット障害の発生、秦先生の検分だ。TIFAだけが22:30に殺害されていた――TIFAの殺害と奥村氏の殺害は、別の時刻に起きたという可能性――かなり厳しいながらもないわけじゃないとは私も思う」
「『かなり厳しい』――ですかね」
奥村所長殺害の時刻について、証拠といえるものは、秦さんの検死結果と二枚目のドアの施錠時刻だ。
しかし現場が密室という不可能状況にあったため、後者については何らかのトリックが使われた可能性がある。一旦後者を無視すると、犯行時刻は最大で1:30までの幅ができる。
「厳しいように思うね。密室の構成方法が解らない以上は、奥村氏の殺害だけ捜索時の1:30まで遅延させることも、可能性としてはある。それには、22:30にTIFAを破壊してそのことを奥村氏から隠しつつ、所長室を施錠して二度と解錠しないことが前提だ。しかしTIFAのバッテリ駆動時間を考えると、22:30に彼女の姿が見えなければ奥村氏が室内に留まったはずがない。少し姿が見えないだけで、彼は血相を変えてTIFAを探しにきたのだろう?」
確かに、所長の見えないところでTIFAを殺すことは不可能だったろう。
懇親会の裏で、踊るTIFAを探していた所長を思い出す。
奥村所長はTIFAを溺愛していた。
ただひとつ疑う余地のない知性――復活した彼の娘。
〝接地〟。
バレエもリンゴも、〝接地〟だと言った。その意味まで僕には解らなかったけれど、所長は彼女を通して彼女の一挙手一投足、あらゆるものに〝接地〟を見ていたようにも思う。
「……なるほど。じゃあ22:30にTIFAだけが殺されていたとすれば、所長がそれに気づかなかったはずはない、と? でももし、所長が犯人にスマホを奪われていたら? ネット障害で助けも呼べず、部屋に軟禁されていたことになりませんか」
「その場合、犯人は所長室に戻れないから殺人はできないね。しかし私が言ったことは、〝気付いた〟
「な、なるほど!」
僕は思わず膝を打った。
スカートがだいぶ捲れ上がっていたため素足の膝を平手で打ち、自分でも驚くほど大きな音を立てた。
しかし悠遠さんの表情は、晴れない。
「『なるほど』じゃないよ――これも君の説と同じことさ。22:30に施錠された所長室のドアを開けずに、どうやって奥村氏を殺したのか、という一番大きな問題が残る」
TIFAの殺害を隠しておき、奥村所長を殺してから前室に戻ってTIFAをバラバラにするなどで犯行時刻を誤魔化せた可能性はある。
この方法でアリバイ工作をするには、最終施錠時刻の後、奥村所長が部屋から出ないことが前提だ。犯人がドアロックのログの存在を知っている必要もある。スマホを奪えば可能かも知れないが――これらの方法で偽装できる犯行時刻は22:30なのであって、犯人は実際にその時刻に充電ドックに座ったままのTIFAをバレないように殺害、所長に接触しスマホを奪い、ネットワークを徹底的に破壊して逃走という大立ち回りをしていることになってしまう。
これではそもそもアリバイ工作にならないように思う。
そのとき、僕の脳髄に一閃のきらめきがあった。
「あ、もし、ネットワーク障害の前に、TIFAをリモートから殺害できたとすればどうです? 犯人がここのネットを根こそぎ壊せるくらいのハッカーなら、やりようがあったかも知れませんよね。それならTIFAはドックに座ったまま死ぬわけでしょう。密室は解けませんが、アリバイ工作には充分だったのではないですか?」
「志木さんによれば、TIFAのキルスイッチの発動には物理的な干渉が必須だったとのことだし――ハッキングでTIFAをどうこうすることは、余人が思うほど容易じゃないだろう。手順を証明する必要があるね。しかし、仮にそれが現実に可能なら、ある程度のアリバイ工作は可能だ」
じゃあ、と僕は色めき立つ。
勿論、悠遠さんが浮かない顔なのも理解できる。彼女は暗に、そんな凄腕ハッカーが実在するのかと尤もな疑問を呈しているわけだ。
如何にも都合のいい作り事だ――と僕の中にも拒絶がないわけでもない。
けれどひとまずそういう仮定を置くことで、事件を解決に向かわせることもできるのではないか?
彼女は、「しかし」とホワイトボードの下の方を指さした。
「――難しいだけじゃない。それでは、根本的にTIFAの証言と矛盾するんだ。見たまえ」
彼女はまたホワイトボードを眺める。
「〝密室の大定理〟――彼女が殺害されるとき、密室はあった。しかしその方法では、まだ密室が存在しないことになる」
それはそうだ。
思えばこのメッセージを最初に見た段階で、悠遠さんはこの〝密室〟という言葉に大きく引っかかっていたような。
結局犯人や犯行は不明のままだけれど、ほんの少し光明が見えた気がする。
「まぁ、他の検討を進めよう。まだ検討していないこともある」
そう言われて僕はまたメッセージを眺める。
勿論気になることだらけだ。そこで、さっきの議論を蒸し返すことにした。
「悠遠さんは、Gについてどう思いますか」
ゲーデルの不可能命題――G。
その人物を、僕らは仮に〝ゲーデル〟と呼ぶことにした。
「九人目のアンバサダー、Gか。〝ゲーデル〟とはまた、大袈裟な名前になってしまったね。私は最初、単なる病欠者くらいにしか思わなかったのに」
悠遠さんが言い出したんですよ、と僕は少し笑う。
「でも、ですよ。ここのセキュリティは鉄壁です。突破したり、ジオフェンスを騙すなんてことはムリでしょう。本当にそんなヤツが潜伏していたとは思えない。悠遠さんも、ゲーデルがここにいると思いますか」
ふむ、と彼女はまた考える。
「私も、Gがここに潜伏しているとはかなり無理のある仮定だと思う。そしてまた、Gが事前に潜伏していないことは実は簡単に証明できるだろうと見ている。まぁ、じきに真鍋さんが調べ上げてくれるさ。だから〝ゲーデル〟がいるのだとすれば、それは私達の誰かが身元を偽っていることになるが――それもまるで現実的ではない」
「そうですか?」
それもジオフェンスだね、と悠遠さんは自分のスマホを摘んで掲げて見せる。
「昔とは違う。身分証を偽造して他人になれた過去の時代は終わった。この監視社会でそれは不可能に近い。私達は誰も自分という檻から逃れられない。偽ることもできない」
かつての世界では身分証と呼ばれるものが複数あり、中には偽造や成り代わりが容易なものがあった。
戦前、スパイやテロリストの隠遁や逃亡に悪用され、日本は『スパイ天国』とすら呼ばれたそうだ。それが世界大戦を経て急激に厳しくなった。
ジオフェンス――アメリカでは違憲となったこの法律が、この国では喝采をもって歓迎されたのだ。
「ジオフェンスは、スマホの別名さ。ここの外にだってそこら中にある。私達は日常的に、二重密室なんて比にならないくらい多くのクローズドサークルに囲まれているわけだ。プライバシーの破壊者は何もTFAだけじゃない。プライバシーというものは、私達にはもう存在しないのだから。買い物、検索、移動、連絡、会話……日常のありとあらゆる行動が、私達のIDに結びついている。正体を偽って犯罪を犯そうとするなら、長い時間をかけて徹底的に社会の監視を掻い潜り続ける必要がある」
確かに、それはそうだ。
しかし何事にも例外はあるはず。
だって先程の議論の通りなら、眼前の探偵・茨悠遠は、誰もが知る有名人なのにその本名を、TFAすら知らなかったことになる。
どうすればそんなことが可能なのだろう?
スマホを一切持たないとかだろうか? それは消費も納税もせず、仙人のように暮らすことに近い。
いや――方法がどうとかじゃない。そんな生活を続けた人間にとって、その自己認識はどうなっているのだろう?
「社会を、TFAを騙すほど自分を偽り続けることができるなら、その人はどんな人物なんでしょうか」
僕など、何者かになりたいと願えどそれすら難しい。
自分ではない誰かになって暮らす――身分証のような表向きのものに留まらず、あらゆる点で他人になって生きることは、辛いのか、それとも救われているのか。そんなことを続けた人間の心は、一体どれほどぐちゃぐちゃになっているのだろう。
TFAの発明は、知性の正体を暴くだろう。
けれど心のほうはどうだろうか。
実はもう暴いてしまっているのではないか。
胸の
悠遠さんは、そんな僕を見て軽く笑った。
「――そんな顔をしないで欲しいね。どうやら話が逸れようだ。ゲーデルにも密室は作れなかったことには変わりない。だから今のところその存在を仮定する必要はないと私は考える。それで君の問いへの答えになるかい」
僕は頷いた。
しかしそうすると、もうこの事件の犯人に該当する人物が消えてしまうことになる。
アリバイ工作を可能にするアイディアはいくつかあるとしても、22:30に現場でやることが多すぎてアリバイ工作として意味を為さない。伝説的な凄腕ハッカーなら可能かも知れないが、犯行を立証することは多分不可能だ。
そのような無理な仮定を置いてすら、二重密室の内側は解けない。
僕はまたホワイトボードに目を向け、他に気になった点を質問してみた。
「毒島さんのTheorem tBにはsucc関数というのが出てきますよね。他のは何となく名前から意味が解りますけど、これだけどうにも解らなくて」
僕がそう尋ねると、悠遠さんは事も無げに、「ああ、それか」。
「successorだろうね。関数型にはよくある演算子を関数にしたものだろうさ。これは継承者とか後任の意味で、〝次の値を返す〟。例えばsucc(0)は1になる。succ(B)はBの次だからC、とはならないだろう。それならCと書けば済む」
「Bの後任……? 継承者?」
「そう。これで内容が判明した定理は五つに加え、阿部さんと毒島さんも推測がつく。すると残りは、江口さんだけか」
「えっ、わかったんですか」と僕は思わず呻く。
「阿部さんの事件と毒島さんの事件は、比較的最近のものだからね。本人が喋らなくとも報道を覚えていれば概要くらいはわかる」
「教えてくださいよ」とせっつくと、探偵は溜息を吐く。
「――まぁ、君は当時高校生か、下手したら中学生だものね。若さに免じてヒントをあげよう。阿部さんは、かつて師事していたさる大物漫画家Tの死に
――何だって? 阿部さんのアリバイを聞いたとき、彼女は確か、薬を――。
「これは簡単だ。Tの過失であることが、警察の警察の検証で明らかだからね。口さがない連中は、阿部さんが連載を獲得したのはこの事故のお陰だとも言うけれども」
なるほど、既に解決した事件なわけだ。
その点では秦さんや堂山・千束さんの事件とはまるで異なる。
「そして毒島さん――こちらも事件としては解決済みではあるのだが、少し扱いが難しい。前にも話した、彼女が巻き込まれたヴィーガニズム村キャンプ
「ゆ、ゆうがい?」と、思わず口走ると、彼女は「熊に襲われることだよ」と補足した。
「彼女らが飼っていた熊に、大勢喰われたらしい。彼女たちは、世間に『野草だけを食べて健康に生きていける』と示すために、スマートウォッチのバイタルセンサの情報を常時ネットに公開していた。尤もそれは世間的には全く注目されておらず、第一発見者は健康診断に訪れた医者だ。事件は真冬の山中で起きた。彼が訪れたとき、キャンプは荒れ果て、誰もいなくなっていた。雪の積もる中、捜索で見つかったのは毒島さんだけ。熊は彼女が逃した――とまぁ、この事件で明らかなのはそれくらいだよ」
そういえば、以前にも軽く聞いた気はする。彼女らは『新しい友達』として子熊を飼っており、毒島さんはハンターらからその子熊を庇ったんだっけ。
そうして彼女は世界的なヴィーガンとして有名になった。
「ええ……それってなんだか、悪い予感しかしないんですけど……」
succ(B)は『新しい友達』、そしてconsumeは『消費』だ。
つまり。
「おっと」と悠遠さんは人差し指を唇に当てる。
「そんなに単純な話じゃないよ。妙なことはあるんだ。彼女らが飼っていた熊とされるものだけどね、それが写ってる写真が一枚もないんだ。更に、事件前に村を訪れた目撃者の証言では、檻の中には熊とは到底思えないような――」
「怖い怖い怖い! も、もういいです」
なんだそれ。予想を超えて、胃の中のものまでキャパオーバーしそう。
僕は話題を変えようとしたけれど、変えきれなかった。
「……江口先輩は、あれでなかなか手ごわいと思うんですよ。
「君が色仕掛けで訊き出してくれるとありがたいんだが」
「ぇぇ……」と僕は情けない声を出す。まぁ、ミニスカをもう五センチばかりあげて訊いてみるくらいはいいか。
「本気にしないでくれたまえよ。しかし実際、無視はできないね。TIFAは、江口さんが堂山氏と同様に前室のドアを施錠できたと主張しているのだから」
lock関数だ。
しかも江口先輩は、あの前室ドアの鍵のメーカーNGIの社員。
それですよ、と僕は頷く。
「大体、先輩はプログラマなんです。もっと活躍して然るべきじゃないですか? 僕には彼がサボっているようにしか見えません」
プログラマとして、鰐淵さんなどは彼に一目置いているというか、見直すような一コマもあったようには思う。けれど当の本人は、本来出番であるはずのプログラムを前にしても全く存在感なく――。
「鰐淵さんが、江口先輩に何か言っていましたよね。カーネルがなんとかで、システムがどうとか」
悠遠さんは少し思い出す素振りをして、「ああ」と言った。
「『システムプログラミングの経験があるのか』と鰐淵さんが訊いて、江口さんが『カーネルを書いてた』と答えた
それです、と僕はやっと思い出す。初めて全員の前でTIFAのメッセージを
あのやり取りの意味が僕には解らなかったので、ここで悠遠さんに訊いた。
「まぁ、雑談みたいなものだよ。知っているだろうが、プログラミング言語はある程度用途が限定される。OSやデバイスドライバといった、機械に近い
OSはコンピュータの基盤となるソフトウェアだ。どんなアプリもこのOSの上で動作する。
「江口さんがそういう機械に近いシステムプログラミング用の言語に言及したから、鰐淵さんは驚いたのだろうね」
『なんだ、組み込みか』――あの言葉を僕は思い出す。
組み込みプログラミングとは、カーネルのような機械に近い領域のプログラミングのことだ。
「しかもカーネルを書いていたというじゃないか。カーネルはOSの中核部分で、アプリなどと違って〝特権モード〟で動作するから――ちょっとしたミスが破滅的な結果に直結する。責任重大さ。事実、私もおやとは思った。彼はアプリの開発者だと思っていたからね」
プログラムなんて動けばいいんですよと言い切ったあの江口先輩にしては、確かに意外なところだろう。
正直、向いてないと思う。
しかし実は彼の本業がそういうシステムプログラミングなのだとしたら、逆にTFA言語のようなものが不得手なのもあり得るか。
「なるほど。そしたら江口先輩は、別に無関心とかしらばっくれているのじゃなくて、単に専門外だから黙っているだけなのかも知れませんね」
でも、とも思う。
もし彼が本当は超がつくほどの凄腕のハッカーで、それまで見たこともなかったTIFAやPCM社のセキュリティシステムの技術情報を僅かな時間に解析し、コンパイラなどの処理系を手に入れ、TIFAやロックやネットワークを破壊したとしたら――?
それを隠すために無能のふりをしているだけだとしたら?
いや、それなら彼はそもそも自分がNGIの社員だなどと名乗り出なかっただろうし、まず彼の滲み出る無能感は本物のように思う。
「まぁ、いずれにせよ彼とはもう少し話してみる必要がありそうだ。しかし――焦りはあるね。ここまで定理が見えてきて、少しでも事件が明らかになるどころか謎は深まるばかり。明日いっぱいで解決できなければ、鍵が使えなくなって全員を危険に晒すことになる」
悠遠さんは、多少疲れたような表情を見せる。
「洞窟の一件は解決したじゃないですか」と僕は精いっぱいの明るい笑顔を作り「さすが、お見事でしたよ」。
「ありがとう。だがさっきのはまぐれとも言えない――TIFAの遺したメッセージの解釈によるところが大きい。いい加減な話をしたつもりもないが、多くは想像に過ぎず……解決には程遠いというのが実情さ」
彼女の表情からは、それが通り一遍の謙遜でないことは明らかだ。
彼女は真剣に、解決したとは考えていない。
「そしてこの、奥村所長殺害は難物だ。太古の洞窟より硬いかも知れない」
「さっきは堂山……さんに疑いが集中してたように思いますが、悠遠さんから見てどうです?」
悠遠さんは、「まだ何とも言えないね」と緩々と首を振る。
「動機もありそうだが、詳しく知ると強くはない。堂山氏と秦先生にはアリバイらしきものがない。秦先生には犯行自体が難しかったように思う。私見だが、ピッキングには手が二本必要だしね。堂山氏は、外側の扉の鍵を細工できた可能性があるが、内側――イン・ロックの密室に関してはそうじゃない。定理は残り一つ。これで犯行の全てが明らかになるだろうか? 怪しいものだね。一つ一つの定理や、あのEgg――〝卵の中身〟はおそらくそれほど重要じゃない。重要なのは全体像だ」
「全体像――」
「そう。前に『ちぐはぐ』だと言ったその印象を今も拭えていないのが問題だね。どうにも噛み合わせが悪いままなんだ。この事件は、目に見える姿からはどこかがズレている」
細部が隠れているから全体が見えないのではないかと思うが、彼女を悩ませるのはおそらくそういうことじゃない。
彼女はこのまま細部を暴き立てて尚、全体が正しくならないことを危惧しているのだ。
でもまだ、足りないピースはあるはず。
例えば、残る江口先輩の定理。
或いはG――無言のままのゲーデルの定理だろうか?
でも――そもそもこの定理は質問や過去の事件のことだった。これらの詳細と、今眼の前で起きている事件との関わりが僕には解らない。
その一つ一つが目の前の事件の
「僕には――わかりません。質問、定理、どれも昔の事件ですよね。もしかして動機とかはあるのかも知れませんが――」
「『昔の事件』であることは問題にならない。これは言語であって論理を示すのだから」
「と、言いますと?」
「論理は時間を超えるよ。かつてkill(D)が真だったのなら今も真のままさ。かといって奥村氏を殺したのはDだとは言えない。文脈によるのさ。私達が知りたいのは、その文脈にある。ウィトゲンシュタインを引くまでもなく、言語は文脈がなければ正しく理解できないのだから」
それはそうだと思う。僕もその、文脈について言いたかったのだ。
論理は時間を超える。けれどここに書かれた論理は、文脈までは越えないのじゃないだろうか。
論理が言語によって書かれるのなら、文脈から外してしまえば無意味になる――本当に?
「いえ、僕が昔の事件だと言ったのは、その文脈についてですよ。時間も場所も違って、文脈も違うわけで」
「そう。文脈が違う。論理は時間を超えるが、文脈は時間を超えない。〝事実に出会って言葉が生まれる〟――それこそが文脈であるのに、出会った刹那に確かにあった文脈は、言葉が流通する中では容易に失われてしまうのさ」
その事実に出会ったのは、TIFA、犯人、被害者だけだ。
いや、犯人ですらTIFAと同じ視座から事件を見たかは怪しい。犯人はアンバサダーの質問のことなんて知らなかったはずなのに。
――それでも、TIFAは僕らの質問について考えた。
――なぜ?
僕の考えを見透かすように、悠遠さんは「そうだよ。〝質問〟だ」と指摘する。
「私達とTIFAの唯一の接点は、〝質問〟だ。文脈はそれしか考えられない。TIFAの真意はそこにあったのじゃないか。文脈を変えても使える論理――文脈を変えると見えてくるもの――ズレ」
言いながら悠遠さんは、ホワイトボードよりも更に向こうに、何かを見ているようだった。
彼女が何を見ているのか、知りたい。
けれど聞けない。
聞いたところで、きっと彼女の口から出てくる未加工の思考は、僕の理解を超えるのではないかと思う。その思考が余人にも理解可能になるまで咀嚼されるには、おそらく本当の〝解決編〟を待つ必要があるのだろう。
しかし、探偵は考えを突然打ち切ったように見えた。
「それに一番大きな謎は別にある。〝密室の大定理〟とは何か。けれど――まぁ、犯人が絞れないならまずは密室だ。内田さん達を呼んで、もう一度現場を当たってみよう」
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