現場検証

 ジリジリという耳障りな警報が鳴り響き、LEDの色はグリーンからブルーになった。幸い、懸念されたハロンガスの放出もないようだ。

 千束さんが喫煙者、それも紙巻煙草の愛飲家でよかった。すぐにライターなどと言っても、誰も持っていなかったらキッチンもないこの建物で火を出すのは難しかった。

 幸運にも、火災感知器はすぐそこの廊下の天井に設置されていた。そこをライターで炙る。

『火災の最初期段階でまず、発報元の棟の使用中の部屋のロックが開錠されるはず』――そう説明された。

 非常口は元々、内側からは鍵無しで開く。

 一定時間消火されずにいると第二段階に進む。第二段階では全室のロック解除、非常口の全開放。更に延焼が確認されると、一定時間で最終段階――ハロンガス充填。中に残った人間は全員死に至る。

 幸い、ライターの火はすぐに消えて、最初期段階で警報は止んだ。この間、全員が前室のドア前に集合していた。

 事前の説明通り、僕らの眼前で所長室のドアは開錠される。

 茨さんが、前室奥、二枚目のドアノブに手をかける。そして真鍋さん、僕、千束さん、志木君、秦さんが頷いた。残りのメンバーは廊下で待機だった。

 そして――最後の密室のドアが開く。

 すぐにやや左側、奥の壁の前に、倒れている奥村所長が見えた。


「奥村――所長!」


 大きく広がる血だまりからは、川のように流れ出た血液がこちら側の壁へと続いていた。

 血の海と表現してよいだろう。

 その中で、奥村所長は絶命していた。本来なら病院に運んで医師の診断を受けるまでは死亡とは言えない。しかしそれはもう、素人目にも明らかだ。

 二間続きのうち、入って目の前。ドアから対面の壁に頭を向けて、うつぶせに倒れた所長。流れてくる血が部屋を横切って手前側の壁にまで達して血だまりを作っていた。思わず息を大きく吸い込むと、濃い血の匂いがする。

 叫ぶ者はいなかった。事件発覚から二時間以上が経過し、この最悪の事態は――漠然と、想定されていた。

 それでも、真鍋さんと志木君は今にも倒れそうな、悲壮な顔をした。当然だ。彼らにとって奥村所長はただの同僚上司じゃない。人生を捧げる研究の、その中心人物だ。

 TIFAと責任者を同時に失い、TFAとは疎通不可――。

 中程まで開かれたカーテン。その向こうを確認した茨さんは「誰もいない」と言った。僕も貰ったゴム手袋をする。


「志木さんと真鍋さんは入口のところに居てください。全員、現場のものにはまだ触らないでください。そこ、床の血に触れないように気をつけて」


 血だまりも、遺体から対角に部屋を横切る血の川も、暴れたような形跡はない。大部分は倒れてから出血したもののようだ。千束さんが無言のままキーボード付きの、やけに細長いスマホを出して血だまりの写真を撮り始める。

 倒れた奥村さんから一メートルほど奥、入り口から見て奥村さんの右側に、ナイフと血だらけのスマホが落ちている。動画で見た通りの位置だ。

 無個性な黒スマホは、あのダサい半透明のシリコンジャケットを着けている。血にまみれている以外は以前見た記憶のまま。

「秦さん――こちらへどうぞ」と真鍋さんの呼びかけで、秦さんが渋々、面倒くさそうに奥村所長の向こうに座り込む。儀礼的に数カ所の脈をとり、瞼の裏を確認して死亡を宣告した。


「……見たとおりだ。死んでる」


 そして片掌を顔の前で垂直に立て――つまり、手を合わせるしぐさをした。

 取り乱す者はいない。現場は整然と、探偵の管理下にあった。

 茨さんは机の下やソファの後ろなど、人が隠れられそうなところを手早く確認して「隠れている者はいないね。当然だが」と言った。施設内の人は全員が揃っていたのだから、それはそうなのだろう。


「この人、ご家族はいるのかい」


「奥村は、だいぶ前に離婚なさったと聞いておりますが」


「お子さんは?」


 真鍋さんは、僕の斜め後ろ入口の側からやや遠巻きに、迷うような仕草をしつつ、首を横に振って答えた。


「……そうかい。あのなぁ、あんたみたいな天才が、おれみたいに死ぬこたねえんだよ。いや、あんたは論文をたくさん書いてるんだろうし、学会に残るか。きっとニュースにもなる。一緒にしちゃいけねえな」


 もう一度、彼は拝む仕草で深々と頭を下げる。

 僕は一歩下がり、小声で「秦さんは、僧侶の方ですか?」と真鍋さんに尋ねる。


「いいえ、秦様は……」


「医者だったんだよ。昔な」


 本人がそう、覚悟したように口を挟んだ。

 彼が志願して所属していた海外の団体とは、つまり『国境なき医師団』のような団体だったのか。

 片手でも手際よく、奥村所長の亡骸を調べる。千束さんはスマホを構え、遠巻きに見守っていた。


「頭部に所見なし。側頭部に軽く打撲痕があるが、倒れたときのものだろう」


 俯せの遺体の背中は全体が血塗れだが、白衣の破れから刺し傷があることは明らかだった。


「ふむ。刺創は四か所……いや五か所。腕に防御創。どれも深くはなさそうだが……これか。この肩甲骨の下から入ったやつが致命傷だ。おそらくな」


 どれ腹側も見てみるか、と秦さんは僕を見た。


「――ひっくり返すの手伝ってくれ」


 えっ、と僕が反応できずにいると、重ねて「押さえとくだけって」。


「ええっ? でも僕、素人で――血が」


「構わねえって。どうせ仏さんの血だ。その寝間着だって借り物だろう」


 そう言えばそうだ――いやそういう問題なのか?

 僕は肩からかけていたボリードポーチを背中に回して意を決すると、恐る恐る血溜まりの側に跪き、遺体の上半身に手を伸ばす――でも血溜まりを避けると、遠い。


「なんだそりゃ。腰が入らねえだろ」


「でも血を踏んだら」


「いいだろ。いいよな?」と彼は茨さん達に尋ねる。「一応写真は撮ったので」ということで構わないらしい。

 僕は膝小僧を血溜まりに浸して遺体に近づく。

 うっ――ぬる冷たい。粘度もある。

 上質で滑らかな寝間着のサテン織りシルク越しにざらざらとした感触が背中を駆け上がってくるようだ。

 両手で側面を掴み、思い切り引き上げる。

 遺体はやや滑り、僕の太ももに引っかかるようにして上半身の側面が浮き上がった。


「うう、まだ温かい……重い……」


「そりゃあそうだろ。しばらくそのままにしといてくれ」


 彼は、片腕で奥村さんの遺体の腹部を調べ始める。


「……腹部に所見なし。少なくとも、パッと見て解るようなものはな。まぁ、背中の刺創が死因と見て間違いあるまい。おい、まだ離すなよ」


「凶器はこれと思われます。間違いありませんか?」


 茨さんが、死体の(ドアから見て)右側、1メートルほどのところ、秦さんの座るすぐ脇に落ちていた大ぶりのナイフを拾い上げ、秦さんに差し出す。

 秦さんは眼鏡を跳ね上げて凶器を受け取ると、目を細めてまじまじと見る。


「……解剖せんことにははっきりとは言えんが、幅だけ見るとそうだな。これしかないならこれなんだろ」


 鋭利なサバイバルナイフ……どぎつい見た目で、とても、リンゴを切るようなナイフじゃない。この研究所には調理場もないなら……このナイフは、一体、どこから?


「――真鍋さん、このナイフは、入り口のセンサーに反応しますか」


「お、おそらくは、はい。しかしながら実際に危険物が持ち込まれたことは、私の知る限り一度もございませんので、後ほど試してみるしか――」


 す、すいません、と僕は声を上げる。


「……き、きつい、です。も、戻しても、いいですか」


 せ、背中の、刺し傷が、死因ということは。奥村所長が、殺されたことが、か確定して、しまった。

 茨さんは、凶器を受け取り、慣れた手つき、でビニール袋に、仕舞う。


「おう、戻していいぞ。おっと、ゆっくりだ。血が飛び散ると大変だからな」


 僕は血飛沫がハネないよう、ゆっくりと遺体を元の仰向けに戻した。

 よろよろと後ずさると、僕は膝から下を捲りあげて血が垂れるのを防がないといけなかった。


「つまりこのナイフで、奥村氏を背中から刺した人物がいたことになる。凶器も遺体も室内にあって、犯人の姿はない。そしてここに、所長のスマホがある。すると犯人は一体どうやってここを脱出し、施錠までしたのだろう」


 彼女は落ちている所長のスマホを指差す。スマホが内側にあるということは、ここを施錠して逃げる方法はなかったはず。

 このドアには合鍵になるものもないのだ。

 窓は、午後ここに招かれたときには意識しなかった程度には狭い。それも上の方が少し手前に開くだけ。真鍋さんの説明通り、人間には通り抜け不可能だろう。

 つまり。


「完全な密室殺人――ということですか?」


 僕の問いに茨さんは「まさか」と肩を竦め、「まだわからないよ。結論を出すには早い」。

 そう言いながら彼女は新しい手袋をくれたので、僕は血塗れになった手袋を交換する。


「まず、そのスマホは本当に所長のものかな。志木さん、真鍋さん、こちらに見覚えはございますか」


 茨さんは二人を手招きして、落ちているそれを確認させる。


「……あまり見たことがないですが、タブン、そうかなと思います。そのジャケット、僕ももらいましたが、着けてるの所長だけです」


 特徴的なのは半透明の白いシリコンジャケットだ。随所にNNNのロゴをあしらったそれは、常人の美的感覚では使おうとは思えないものだし、経年劣化で変色もしている。

 ジャケット越しに黒い本体とS社のメーカーロゴがわかった。

 茨さんはそれを丁寧に拾い上げ、電源ボタンを押したが――起動しないようだ。

 現場の写真を撮っていた千束さんが、遺体の靴底を撮影しながら言う。


「――僅かに飛び散った血痕はあるが、どうやら他に目立った血痕はないね。犯行現場はここってことでよさそうだ」


「そんなの、拭き取ったりしたらわからないでしょ」と志木君は言うが、泰さんは首を横に振る。


「どうだかな。血ってのはベタついて、伸びる。しかも狭い隙間にも入りやすい。この床だと相当な重労働だろうな。出血量に不自然なところはねえし、現場はここってのは間違いねえと思う」


 茨さんははまだ所長のものと思しきスマホと格闘していた。思わず僕は数歩近寄り、しゃがむ。


「ちょっと、見せてください。このメーカーのはちょっとコツがあるんです」


 受け取ってよく見ても、ジャケットの下の無骨な黒い普及品感は夕方に見たときと相違ない印象だった。道具に拘らない、彼らしい選択と思える。

 続いて電源とボリュームボタンを同時に長押しする。すると、画面が点いた――が、バッテリがないと警告が出てまたすぐに電源が切れてしまった。


「うーん、残念、ダメみたいです……。でも真鍋さん、さっきの話だと、承認を得て本社のシステムを使えばドアロックと、鍵になるスマホの対応は変えられたんですよね。犯人が事前にそれを行ったってことは、あり得ますか?」


「考え難いと思いますが……もしそうした場合は、その奥村のスマホは鍵として使えなくなるはずです」


 無理か。僕にしてはなかなか冴えた考えだと思ったんだけど――。


「――あ、ならさっきと同じに、コレで実際に試してみればいいのか。スマートロックもIDのリモートスキャンも、電磁波で発電するんで」


 仕組みからいってバッテリが切れて起動しない状態でも、電波に応答さえすれば鍵としては使える。

 これがここの鍵になる唯一のスマホなら、この部屋のロックを施錠・開錠できるはずだ。そしてネットワークがダウンした昨夜22:30以降、犯人はどう頑張ってもこの対応を戻すことはできなかった。

「試してみましょう」と立ち上がって見ると、内側のロックはセンサー部分が血でべっとりと汚れていた。


「なぜ内側に血が……? 施錠したときについたのかな」


 僕がそう指差すと、「そう考えるのが妥当だろう」と茨さんが答えた。


「――触らないほうがいいですよね? 反対からやってみます」


 僕はそう宣言して一度前室に戻った。

 すると一気に気分が悪くなる――この部屋には、〝彼女〟の死体が散らばったままだ。

 廊下へのドアは閉まっていた。ロックを確認する。志木君の話が確かなら、このドアは午前一時の時点では既に施錠されていた。ドアの向こうは静まり返って、物音ひとつしない。真鍋さんが彼らを廊下に隔離した理由は分かる。彼女は、アンバサダーを疑っているのだ。内田さん、光堂さん、鰐淵さんは彼らを監視するために付けられている。

 一旦、所長室のドアを閉める。

 するとリンゴが一つ、落ちていているのに気付いた。奥村所長が渡したものだ。当然一口もかじった痕すらない。

 それにしても――犯人はなぜ髪の毛を引き抜いたり、なぜ首を捥いだりしたんだ。

 彼女の顔は、白いクロークに隠れて見えない。

 ――髪はアンテナになっていた。

 だからといって、こんな何処から見ても人間と見分けのつかないロボットに対してこんなこと、僕にはできない。

 奥村所長はチューリングやサールを引き合いにし、『彼女はまだ人間ではない』と言った。けれど、僕にとってはチューリングの境地も、それに反する理論も遠い世界の出来事だ。

 僕は〝彼女〟を、最初からずっと人間だと認識していた。ここで出会う前にも。視界の片隅を、ほんの僅かに掠めたときでさえ。

 だからこんなことをする人間が理解できない。なぜ――。


「どうだい?」


 茨さんの声で、僕は我に返った。「すいません、今試します」と慌ててスマホを取り出す。考えてみれば、どうせシリコンジャケットにも多少血はついてしまっているから、気にせず内側のロックで試してもよかった気はした。

 ピッと軽い音がして、LEDがグリーンになる。こうなるとこのドアはもうびくともしない。センサー部分は血でべっとりと汚れてしまったが。


「茨さん、施錠しました」


 がちゃがちゃとドアノブが少しだけ回って、がっちり止まる。施錠は完璧だ。


「――開錠します」


 またピッとやると、今度はブルーになる。開錠も問題ない。

 ドアがこちら側に開いて、茨さんが顔を出した。


「――どうやら本物だったようだ。設定も変更されていない。しかしこれで解らなくなった。完全な密室というものの可能性を、少しは考えてみる必要があるかもね」


 もう一度奥村所長の私室に戻ると、検視を終えた秦さんが立ち上がって「おれぁ、もういいかい。生憎、他人様の生き死にに関わるような身分じゃねえんで」。


「死亡推定時刻はどれくらいですか」


 秦さんは難色を示したが、渋々と顎の辺りの死後硬直具合を調べ、


「……まぁ、三時間は経ってないと思うよ。幅を取って二~三時間と言っとく」


「すると亡くなったのは0:30から1:30……」


「しかしこりゃ失血死のようだ。となると死んだ時刻が判っても、いつ襲われたのかまでははっきりとは判らんぞ。出血の様子からは、藻掻いた様子もなさそうだが」


 噴水のような激しい出血の痕跡はない。かといって刺された後に動き回った痕跡もない。

 茨さんは、この状況で出血性ショックを起こす可能性について尋ねたが、秦さんはそれもわからないという。出血性ショックでなくとも、気絶したり動けなくなることはある。その間にも血はどんどん抜けてゆき、意識レベルは低下して上昇することはない。


「――とまぁ、その状況で二時間持ち堪えていたとしても驚かねえが、三時間となると脱帽だな。生憎、いつ刺されたかは判らん。おい、誰だ窓開けっ放しにした奴ぁ」


 言われて見ればスリット状の窓の上部が、手前に向けて開いたままだ。

「す、すいません、僕です」と志木君。手袋をしていた僕が窓へ近づき、背伸びして閉めた。

 小窓にはどれにもノブ式の簡易なロックがついているが、それが皆開放されたままだったから外から押しただけで開いたのだろう。


「ま、エアコンが効いてるからな。死亡推定時刻に大きな影響はねえと思う」


 今、3:30を少し回ったところだ。志木君がこの窓から中を撮影したとき、所長はもう亡くなっていた可能性が高い。


「すると、所長が刺されたのは最大で五~六時間くらい前……21:30から22:30の間くらいと思えばいいですか。なら、ネットワークがダウンしたのと同じくらいってことになりますが」


 僕がそう言うと、茨さんは慎重に口を開く。


「おそらく。だがネットワーク障害との関連は不明だね。まだ何も言えることはない」


 それでも――志木君は、がっくりと肩を落として呟く。


「……僕がすぐ所長に報告に来ていれば、もしかして」


 その先を彼は言わなかった。助けられた可能性はゼロではないとしても、犯人と鉢合わせした可能性もある。誰が彼を責められよう。


「志木君、真鍋さん。それ以外に、不審な点はありませんか。普段と違う点とか」


 僕は助け舟を出すつもりでそう尋ねた。でもこれは残酷な問いだったかも知れない。志木君は懺悔の機会を失くしたし、この部屋が普段とあまりにも違うことは誰にでもわかる。

 主は殺され、ここにいたTIFAも、もういない。

 TIFAのいたドックの傍には、おそらく椅子として使っていたのだろう、小さな脚立がある。そこにもメンテナンス箇所などをメモした書類が無造作に積みあがったままだった。

 天井を見上げた茨さんが「あ」と声をあげた。


「エアコンというのは、これですね」


 丁度、所長のスマホが落ちていた場所の天井あたりだ。そこにはめ込まれた、事務所用の天井エアコンのフィルタカバーが設置されている。一辺一メートルほどの正方形だ。

 真鍋さんが「はい」と頷く。


「茨さん、これ、逃走経路には使えませんか?」


 僕はやや興奮気味にそう尋ねたが、彼女は「ボルト止めされているよ」と冷静だ。


「四隅を六角でロックされている。脚立や工具が必要になるね。


 六角とは六角形の穴付きボルトだ。脚立はあるが、六角レンチは見当たらない。

 そのときだ。


「――ラップトップ」


 志木君がそう口走った。


「ラップトップがこちらを向いています。普段は奥の窓側を向いてたのに……」


 確かに、夕方僕らが来たときもラップトップは向こうを向いていた。デモンストレーションのためにこちらへ向けられたのだ。

 何かの違和感があった。

 向き以外に、何かが違う――。


「カメラがついている……?」


 午後に見たラップトップは、ディスプレイ上部にカメラなんてついていなかった。同じ機種に見えるのに今はそこにカメラのレンズがある。

 志木君が「あっ」と何かを思い出したようだった。


「21:00からミーティングしてたんですよ。リモートの、Web会議システムで。遅めの定例みたいなやつです。普段はレンズカバーを下ろしてるんですけど、そのために開けたんでしょう。いつも22:00くらいまでやってて。でも昨夜は、所長が用があるとかで早めに終わったんです。21:30くらいだったかな。珍しいなって。向きはたしか、奥向きで……」


 志木君はスリット窓のほうを指差してそう証言した。


「それは気になりますね――有益な情報をありがとう。どんな用事かは言わなかった?」


「ハイ……そもそも、はっきりと『用がある』とは言わなかったと思いますけど、なんかこう、普段とは違う感じはありましたね」


「その録画は――それもサーバー上か」


 悔しそうにしつつも、茨さんは何かの手応えを感じたようだった。


「保全してくれたまえ。いつになるかわからないが、警察が来たらそのことを話して、映像を見せたほうがいいでしょう。さて私にできるのはこれくらいだ」


 そう言って彼女は手袋をとり、捜査を終えようとする。

 でも僕はまだ納得できなかった。


「ま、待ってください。僕にはまだ何もわからないです」


「私にだってわからないよ。でも現実に、今のうちにやっておくべきことは全て終えた。市民の義務は果たしたと考える」


 真鍋さんが、慌てたように茨さんの前に立ちふさがる。


「お、お待ちください、茨様。私からも、いえ、NNNの総意としてお願いいたします。どうか――どうか犯人を」


「無茶です、真鍋さん。あなたにその権限があるとは思えません」


 茨さんは、非情にもそう言い放つ。その姿勢からは、テレビで見た、ヘリコプターから犯人を追い詰めるような情熱は微塵も感じられない。

 本当にこれがあの茨悠遠か――と思いもしたが。

 彼女は少しだけ言葉を和らげ、言い直す。


「犯人が誰であれ、この吹雪では逃げることもままなりません。ここが密室である以前に、この施設自体が巨大な密室であることを思い出して頂きたいのです。犯人捜しで更に問題が起きるようなことがあれば、進退窮まるのはあなたということになります。私はそんなことを望まない。私は依頼人の安全を第一に――」


 そのときだ。

「ア」と、志木君の甲高い声が、ひと際大きな驚きをもって「リモコンが出てる」。

 それの何がおかしいのだろうか?

 見ればテレビのリモコンだ。ソファの対面位置に、積み上がった書籍に紛れて小さなテレビが置いてある。


「所長はテレビを観ないです。でも、ソファ横のテーブルにリモコンが」


 テレビを観ないならなぜ置いているんだろう。

 僕はまだ手袋をしている。衝動的に、そのリモコンを取った。


「所長じゃないなら、もしかして犯人が……天気予報とか……? 逃走のために?」


 茨さんは犯人も逃げられないと言うが。


「もし犯人がテレビで気象情報を得て、思いもよらないような方法で逃げようとしているなら早く捕まえないと――」


「『思いもよらない方法』とはなんだい。この吹雪の中、気球でも上げてフルトン回収でも?」


「思いもよらない方法は――思いもよらない方法、ですよ」


 我ながら意味のないセリフだと思いつつ、苦し紛れにリモコンのボタンを押す。

 電源を入れたとき、画面に映ったのは外付けの光学メディアプレイヤーの出力だ。連動したものか、プレイヤーが起動して再生が始まる。

 映し出された映像は――それこそ『思いもよらないもの』だった。

 どこかの高速道路を走る車中の映像だ。車載ではなく手持ち。運転席からでなく、助手席。

 しかし音が出ていない。続けてミュート解除ボタンを押すと、突然言葉が流れだした。


『――月十四日。日曜日。今日はいい天気です。アイリス? いい天気だよ。今日はどこいくと思う?』


 助手席から振り向くと、後部座席にはちょこんと座る少女。切りそろえた前髪。整った顔立ちの、聡明そうな美しい少女だけれど、どこか物憂げな表情――。


『わかんない。ヒント頂戴』


 ……聞いた声だ。


『ヒントは、高速道路です。北へ向かっています』


 そしてこの、撮影者の声――奥村所長によく似ていて、でも別人のように明るくて。


『わからない? 去年も行きました。同じ日に』


『わかった。湖だ』


 僕は反射的に――電源を切っていた。

 見るべきでないものを見てしまった。他人が決して知るべきでないことを。

 茨さんは俯き、「現場の保存をお願いします」とビニール袋を内田さんに渡すと退室してしまった。彼女の表情は伺えなかった。千束さんががっくりと肩を落としてそれに続き、やれやれという顔で秦さんも出てゆく。真鍋さんと志木君の視線が痛かった。

 やがて……僕も彼らの視線から逃げるように、事件現場を退出した。


***


 朝まで一睡もできなかった。

 解散したものの、僕らは決して朝まで部屋から出ぬよう、誰かが来ても決して部屋に入れぬように言いつけられた。

 当然だ。この状況でそんなことをする人間がいるはずがない。もしいるならそいつは犯人かサイコパスか、はたまた探偵だ。


(朝――だよね)


 疎らな髭を丁寧に抜き、化粧をして僕は三階へ向かった。確かテラスがあるはずだ。雪じゃどうせ出られないだろうけど、真っ暗なカフェテリアよりはマシに思えた。

 テラスに沿った長い廊下に、外を眺める先客があった。

 茨さんだ。

 煙草を吸っている。僕が驚いて尋ねると彼女は笑った。


「電子だけどね。千束さんのようには上手く煙を楽しめない」


 案の定、二重ガラスの外は相当な雪だ。もう明るいはずの時刻なのに、空は夜にしがみつかれたように暗い。


「雪は止みそうにないね」


 僕は、昨日歓迎会のときに裏手の非常口から踊る〝彼女〟を見たことを告げた。


「最後に見た彼女は、バレエを踊ってました。なぜなんでしょうね? 練習かとも思いましたが、ロボットが練習して上手くなるというのも何だか変な気がしますし。奥村所長に聞いたけど〝接地〟がどうこうって言われて、よく解らなかったんです」


 その奥村所長ももういない。

 彼は血の海に倒れ、果てていた。

 TIFAの方は、〝壊されていた〟というのが正確だろう。しかしそう言い切ることが、今はできない。できなくなった。


「つまり君は、アンドロイドが踊るのが変だと? 君自身は踊りたいと思ったことはないのかい」


「――僕は、ないですね。だからよく解らなくって。TIFAは踊りたくって踊ったのでしょうか。誰も見てないのに――ひとりで?」


「観客なら自分がいただろう。私が子供の頃には、『踊ってみた』動画などといって、ダンスの動画を撮ってネットで公開するのが流行っていた。それだって公開に至ったのは僅かで、撮るだけだった人はその何十倍もいただろう。だからそう――私は珍しいとは思わないよ」


 へぇ、と僕は思いもしつつ理解できたわけでもなく、「でも、それって自己満足ってことですよね」と応じた。


「そう。最初はなんでもそんなものさ。素晴らしいことだと思わないかい? 自己満足にはまず〝自己〟が必要なのだから」


 自己満足には自己が必要――。

 それはそうなのだろうけど、誰にでも自己はあるのじゃないのかと思う。

 あやふやながら、僕にすら自己がある。少なくともこの体がある。

 そういえば奥村所長は、脳と身体についても何か言っていた――。


「解らないかな。私が研究をしたのも、私が知りたかったから。お金の好きな秦先生がボランティアに志願したのも、反社会的性向のある堂山氏が地球を守ろうなんて言い出したのも、同じだと思う。きっと阿部さんも、バイオレンスな作風と彼女自身が暴力を苦手そうなことには関係があるのかもね。皆、なりたいものになろうとした。君だってそうなのじゃないかい?」


 僕は――いや、僕の話はいいだろう。


「そういう話なら僕にも解りますが……奥村氏は、彼女は特にバレリーナになりたいわけではないのだと言っていましたから」


 茨さんはフッと笑って、「なら君は、TIFAのバレエを観てどう思った?」。


「僕は――とても上手だと思いました。美しいと」


「そうか。ならそれが答えでいいのじゃないか」


 ですが、と僕の言葉が溢れ出す。


「まるで小さなステージがあるみたいに、そこを一杯に使って。スポットライトなんて街灯一本ですよ。でも、なぜでしょうね。彼女にはそれが似合っているように見えた。大舞台は想像できなかったんです。それがつらくて、悲しくなって……」


 彼女が踊っていた理由は、僕にはわからない。

 けれどよくできたアンドロイドなら踊りくらいできて当然だなどと結論したくもない。

 だって彼女のバレエは、どこか物悲しく、過酷で――していた。その先に自己満足があったなら、どれだけよかっただろう。


「私だって悔しいさ。機械だロボットだとはいえ、彼女は特別な存在だった。未明、君が再生したビデオの映像を観てしまった今となってはね」


「あの動画って――ネットにある動画とは、違いますよね。テレビで放送するものでもない……」


「所謂ホームビデオだね。最近はどう呼ぶか知らないが。君の家にはないのかい?」


 僕は首を振る。あるのかも知れないが、観た覚えはない。僕の親は、熱心に記録を残すタイプではないのだと思う。


「わかりません。でも――あんな動画があるんですか。編集も解説もなくて、撮っただけの垂れ流し。まるで視聴者のことを考えてないっていうか」


「お察しの通り、あれはプライベートなものだよ。他人に見せるものではない。あの映像で確信した。彼女は、奥村氏の願いから――製造者の思いから生まれたものだ。その製造者が死んでしまったら、誰が〝彼女〟を製造するんだろう。新たに製造された〝彼女〟は、きっとあの子じゃない。同じ脳を持っていても、別人だ」


 そう。

 僕らの中で〝彼女〟が本当に死んだのは、あの瞬間だったのかも知れない。

 昨夜秦さんに問われ、真鍋さんは所長にお子さんはいないと答えた。それから間もないうちに僕があのビデオを再生してしまった。

 TIFAによく似た、あの娘さん。あのビデオに映っていた娘さんはのだ。

 所長は、彼の本当の娘を模して〝彼女〟を設計した。その創造者を失った今、〝彼女〟は決して再誕しない。あの場にいた全員がそう悟った。

 僕が彼女を本当に殺してしまったのと同じだ。


「そんな顔をしないで欲しい。その責めを君に負わせるつもりはない。できれば私が本当の犯人を挙げたいと思いもしたよ。確かに私は、これまで殺人事件に幾つか関わって、捜査協力もしたさ。だがどれも、頼まれに頼まれて已む無く、だ。奥村氏がそれを望むかな」


「どういうことです? 真鍋さんは望んでましたよ。奥村所長の同僚が、です」


「――そこが確信できない」


「真鍋さんの本心ではないと?」


「そうは言ってない……。ただかなり複雑に練られた密室殺人だ。二人の被害者、密室じみた二つの部屋。それらは隣り合っていて――不気味だ」


 不気味、と僕はオウム返しする。


「現実の殺人はシンプルさ。誰かが誰かを殺そうと思って、つい魔が差して実行に移す。後先なんて考えてない。君が昨日指摘した通り、そこにロジックがあるなんてことは一見して判らない。でもこの事件は、まるで作り事めいてる。誰が何を企んでいるのか、その形さえ見えてこない。私には無理だ。ここにはコンピュータもネットもないし」


 コンピュータとネットがなければ彼女は役立たず――そんなはずはないと思う。

 けれど、単に不便だ、心細いということはあるだろう。


「茨さん、心細いのは解ります。僕だってネットが使えなくて干からびてしまいそうですよ。スマホは半身というか、全身みたいなところありますからね。でも」


「私はそこまでじゃないよ。考えるのは頭だけあればいいさ。不便なのは解るが」


「頭――AIならあるんですけどね」


「ああ。手が届かないが」


 TFAは、とりあえず無事のようだが、不通だ。

 所長のラップトップは残されているが、証拠として保全されている。志木君によればAPIが使えない以上は、ラップトップを使っても、しんばTIFAが無事だったとしてもTFAは使用できないらしいのだ。


「ヘリコプターも要ります?」


「……言うじゃないか」


 話題を変えたほうがいいだろうか。僕は周囲を見渡す。でも、周囲はどこも暗く、見えるのはテラスに積もった雪ばかりだ。


「そういえば、このテラスには防犯カメラがあるのだね」


 茨さんが指差した先、窓の近くには防犯カメラがあり、テラスを監視していた。

 どうして今その話をするのだろう? とは思ったが――少なくとも言葉とは裏腹に、彼女が捜査の意欲を喪っていない証左のように感じた。


「茨さん。悠遠さんとお呼びしてもいいですか?」


「今更のような気もするが、構わないよ。でも急にどうして?」


「今だけ、助手にさせてください。僕は、コンピュータやネットの代わりにはなりませんが――荷物くらいは持てます」


「――不動君。気持ちはありがたいが、ここは志木君らの活躍を待とう。彼がネットワークを復旧するか、光堂さんと鰐淵さんがTFAを復旧するか、先に救助が来るか。まぁ、犯人が逃げおおせる可能性もあるけどね」


 TFA? と僕は首を傾げる。


「TFAが復旧すると――どうなります?」


「犯人が判るだろう。TIFAは、自分を殺した犯人を見ているだろうから。見ていないとしても、その脳にはかなり大きな手掛かりを残しているのじゃないか」


 TIFAの情報は、脳であるTFAに送られている――。

 丁度そのとき、廊下を走ってくる足音がした。


「茨様! 茨様!」


 依頼人が、名探偵を呼びに来た。


「ここにいらしたんですね! 茨様! 不動様も!」


「どうしたのです、真鍋さん。こんな朝早くに」


「それが――志木が、大変なものを見付けたと――」


 大変なもの?


「ネットワークの復旧のほうが優先だと思っていましたが。手が足りないようなら、見るだけ見ましょう」


 僕らは研究所の地下へ向かった。

 それが、僕らを更に深い穴――ラビットホールへ導く招待状だとも知らずに。

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