第21話

 秀郷の伝説:栄光と孤独


1. 伝説のはじまり

仁和元年(885年)、または寛平3年(891年)。どちらが正しいかはわからないが、平秀郷という男の誕生は、まさに歴史の渦中にあった。下野国の国司の家に生まれ、弓馬術に秀でたその青年は、蝦夷との接点を深め、武芸にその才能を開花させていった。伝えられるところによると、彼の家系は下野国司として、平穏無事に過ごすことなく、いつの間にか朝廷に反旗を翻す道を歩み始めた。


2. 朝廷への反抗と流罪

延喜16年(916年)、彼は上野国の国衙に反抗し、時の朝廷に逆らった。流罪となった秀郷は、しかしその武勇によって、遠くの地に流されることはなく、むしろ服命することなく、その反骨の精神を貫いた。延長7年(929年)には、さらにその行動が激化し、下野国衙から追討命令を受ける。しかし、その後も、彼の名は消えることなく、戦い続ける。


3. 平将門の乱と功績

天慶2年(939年)。平将門の乱が関東を震撼させ、将門は関東8か国を掌握する。平秀郷は、この危機的状況において、甥である平貞盛、藤原為憲らと手を組み、将門に立ち向かった。天慶3年(940年)2月、秀郷は下総国猿島郡で将門の本拠地を襲い、彼を討つ。この戦功により、秀郷は名声を一気に高め、破格の官位と恩賞を授けられた。


その戦の中で、宇都宮大明神から授けられた霊剣を携え、将門に立ち向かったと伝えられている。この戦いで秀郷が使用したとされる「三十八間星兜」は、現在も宇都宮二荒山神社に伝わる貴重な文化財となっている。


4. 官位と栄光の頂点

平将門の乱を平定した功績により、秀郷はその後、従四位下に叙せられ、下野守に任じられた。さらに武蔵守、鎮守府将軍を兼任し、名実ともに武士としての地位を確立した。しかし、その栄光も一瞬のものであり、彼の名はその後、急速に史料から姿を消していく。


5. 最後の瞬間と伝承

平秀郷の最期については諸説がある。「田原族譜」によると、彼は正暦2年9月25日(991年11月4日)に101歳で没したとされる。しかし「系図纂要」によれば、天徳2年2月17日(958年3月10日)に死去したとも記され、また「佐野記」には、天慶10年(947年)に63歳で亡くなったと記録されている。いずれにしても、平秀郷はその後の歴史において、伝説のような存在となり、その死後も語り継がれた。


彼の伝説が続く中、栄光の影には孤独があった。数々の戦を経て、政治的な争いから遠ざかり、最後には静かな死を迎えたと思われる。しかし、その名は決して消えることはなかった。彼が討った平将門の乱の後も、秀郷の名は、彼が築いた城、そして彼が果たした役割によって、後の時代に語り継がれた。


6. 結末:歴史の彼方へ

平秀郷という人物は、ただの武士ではなかった。彼は反乱者であり、英雄であり、そして歴史の中で独自の足跡を残した存在だった。その生涯は、常に栄光と孤独が交錯するものであり、彼の名は、後世の武士たちにとって、永遠に語り継がれるべき伝説となった。


時を経ても、平秀郷の姿は、もはや歴史の一部となり、ただ伝説として残り続けるのだろう。


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