第34話

 巨大な燃える手が、迫ってきた……ように見えた。

 いや、違う。

 あれは、火山弾だろう。

 火の玉が、飛んで来た。

 ピチンチャ火山の、あろうことか廃坑跡が噴火したのだ。

 ありえない……ありえない。が、もうなにが起こっても驚くまい。

 そして……どうなった?

 なぜ私は無事なのだ?

 乗っていた装甲車がうまく切り抜けたか。

 でもそれならおかしい。

 なぜ、私はここにひとりでいるのだろう?


 待て。


 『私』とはだれだ?

 ……もちろん、鳳稀梢だ。

 どうも、自他の境目も緩くなっている気がする。

 なんとなく、私は私でありながら、どこか遠くで違うだれかと繋がっている気がする。

 私であり、オレであり、あたしであり、僕であり……

 おそらく――ここに長居すれば、『混ざってしまう』気がするな。

 とはいえ、どこに行けばいいものか。

 まっくらだ。

 物は見えている……はずだ。

 見えているが、なにもない。そういう場所なのだろう。

 自分が立っているのか、横たわっているのかもよく分からない。

 地面に触れている感触がない。

 『ここ』にいても仕様がないので、歩いてみる。

 前へ進む感触は、あった。

 むかし、そう、ずっとむかし、こんな場所にいたことがあった。

 これは、私の記憶だ。

 人間として死んで、甦ったとき。

 ――ここは、死者の世界か? 私はあの燃える手だか、火山弾だかで『死んだ』のか?

 いや、たぶん違う。勘でしかないが、死んでいる感触がしない。

 かつては、こんな場所にいた私を、手を牽いてもとの世界へ戻してくれた人がいた。

 もとの世界に戻ってきたときには、人間ではなくなっていたが、それはいい。

 問題は、いまだ。

 ぽう、と前方にちいさな灯りがともった。

 いくあてもないのでそちらへ向かう。

 行けども行けども辿り着かない……なんてことはなく、ものの数歩も歩くと、灯りの源に行き逢った。

 じゃがいもの精霊がふたつ、ぼんやりと輝いていた。

「PAPA!」

 楽しげに手を振るその姿に、ふと、笑みがこぼれる。

 ああ、自分が笑ったのが分かる。

 つまり、私には肉体があると言うことだ。

 私はその精霊たちを手渡された。

 じゃがいもたちは、しきりに「あちらだ」とばかりに、ひとつの方向を指さした。

 いくあてもないので、そちらへ向かう。


 待て。


 この精霊たちを手渡してくれた『手』。

 私は、その手を—―知っている。

 あの手はたしかに、かつて私の手を牽いてくれた手。

 もう二度と会えない――会えないはずのひとの手。


 振り返った。

 ぼんやりと淡く光る、『手』が、指さしていた。

 「早くいきなさい」

 そんな声が聞こえて—―

 私の視界が、一気に広がった。



 ガラガラガラ

 トッカトッカトッカ

 雑な作りの荷馬車が山道を登ってきた。

 牽いているのは驢馬で、荷馬車の積み荷はない。が、荷台に乾燥させた葉が何枚も落ちているところから、コカの葉を運んだ帰りなのだろうと思われた。

「じいじ、道に人が寝てるよ」

「おお、行き倒れかいのう」

 アステカの伝統のガウンを身にまとったしわくちゃの祖父は、しかし、下帯ではなくズボンを履いていた。

 麻の作業着だ。

 孫のほうは顔や胸、腕に魔除けの模様を描き、上半身は裸だ。下は大人用の麻のズボンを紐で縛って履いている。

 ズボンは既製品だったから、時代としては千九百年代以降だろう。

 祖父は稀梢のすぐ横に馬車を停めた。

 稀梢のほうは見向きもしなかったから、彼の姿は見えていないらしい。

 足元を見ると、男が一人、横たわっている。

 鳥の仮面をかぶった男だった。

 髪にケツァル鳥のきらきらと緑に輝く羽根を何本も飾り、翡翠の腕輪をし、身にまとっているガウンも上等のもので、美しい刺繍が入っている。

 翡翠と瑪瑙、金銀を織り込んだ下帯をして、古式ゆかしいアステカの礼装、ひとめで貴人と分かる装束だった。

 目立った傷もなく、痩せ細ってもいないが、倒れ伏したまま動かない。

 祖父は倒れている男の衣装を一瞥、馬車を降りて男の頬を何度か叩き、うつ伏せの男をひっくり返して、胸に耳をあてて、

「まだ温かいが、死んどるな」

 ひとこと、そうつぶやくと、身ぐるみ剥がし始めた。

「悪いな、おまえさんの持ち物、売ったらわしら一年は食べていける。あとでちゃんと弔いはしてやるから、勘弁な」

 ブツブツと呟きながらも動かす手は止めず、手慣れたふうに装身具を剥いでゆく祖父の手が止まった。

「じいじ、生きてるよ」

「なに? どこか動いたようにみえたか? まあ、ちょっとは動くかもしれんがもう死んどるようなもんだ」

「じいじ!」

「静かにせんか、オリエ。死者も子供の声には耳を傾けるというからのう、せっかく死んどるもんが目を覚ますだろうが」

 祖父の手が、貴人の腰に吊ってあった煙管にかかったときだ。

 貴人が祖父の手を掴んだ。

「うわっ」と叫んで、祖父が貴人の身体から手を放し、後退あとじさる。

「すまない」

 と、貴人は言った。

「なんじゃ生きとったんか、わしゃもうてっきり……」

 震えながらも残念そうに、祖父は剥いだ装身具をゆっくりと立ち上がった貴人に押し付けて返却しようとする。

「いや、これはあなたに」

 貴人がその装身具を、あらためて祖父に手渡した。

「そのかわり、あなたの村にしばらく置いてもらえないだろうか」

 と、貴人は言った。

 仮面に隠された顔からは、表情は窺えない。

 祖父は自分の手に転がり込んだお宝に目を輝かせながらも、思案深く首をひねる。

「ま、これはわしの独り言だとおもって聞いてくれ。キトでは、王族と神官がいがみ合いに明け暮れているという噂があるな。負けた王族がどんどん生贄にされとるという話もあるし、逃げたもんをかくまったらそいつも生贄になるという話も、こんな田舎にも伝わって来とる。神の生贄なら栄誉なことかもしれんが、わしらには生活もある。わしみたいなよぼよぼのジジイならいいが、稼ぎ手を失ったら栄誉が手に入っても生活は苦しくなる。さてどうしたものか」

「わたしはだれにも追われていない。なんのちからもない。ただ静かに暮らしたいだけなのだ」

 祖父は顎髭をしごきながら貴人を見遣る。信じてはいない顔つきだ。

「ま、わしらの辺鄙な村まではとばっちりは飛んでこんだろうが、ぜったいに大丈夫とは言い切れんからな。わしらはおまえさんの本当の名は聴かんし、おまえさんも言うな。住まいは村はずれにある、収穫の時だけ使う小屋。村に帰ってからわしが村長に話を通してやろう。この条件が飲めるならついてきてもいい」

 貴人は小さく頷いた。

「で、あんたはなんと呼べばいい?」

「――――カトルと」

 貴人は数瞬、逡巡したあと、そう言った。


 ――ああ、そうか。これがオリエとカトルの出会い。


 そのあとは、細切れだった。

 稀梢が瞬くたびに様々な情景が現れた。

 村の夫婦に生まれた子を祝福するカトル。

 収穫祭。

 雨乞いの生贄は、幼子の代わりに生まれたてのリャマ。

 居候する小屋の窓辺で、煙草をふかしながら遠くを見ているカトル。

 コカ中毒になった父に殴られて家出したオリエが、カトルの小屋に忍び込み、一緒に眠った夜。

 祖父の死をともに弔ってくれたカトル。

 母と姉が家を出たあと、置いて行かれたオリエがカトルとともに見上げた星空。

 カトルは生活費の代わりにどこかから金細工を持ってきてオリエに渡し、オリエはそれを売って、身を持ち崩した。

 オリエの持ってくる金無垢の装身具を狙って、ギャングが村に現れ、そして—―


 ダダダダダ!

 ギャアアアァァアァ! キシャアアアアァアァ!

 銃撃の音と、聞いたこともないなにかの鳴き声が響く。

 いつのまにか大風が吹く嵐の夜になっていた。

 雨粒が頬の肉を穿うがつような強い雨脚だが、身体に雨の感触はあっても、濡れない。

 ドドオオオオオオン……

 土津波で、視界が遮られ――また、静かになった。

 ずいぶんとおおきくなったオリエが、いろんな場所に分け入って、なにかを探していた。

 川の中で、あるものを拾う。

 ――冥界ミクトランの笛だ――

 どうやらこれはオリエの過去を、それもカトルに出会って別れるまでの過去を見ているらしい。

 オリエの姿が消えた。

 稀梢が目を細めると、ぼんやりとした明かりがそこかしこにあった。

「PAPA!」

 手元で、じゃがいもの精霊が両手を振る。

 あの光の方へ行けということらしい。

 手近なほうへ歩いていくと、レオニードが立っていた。

 軍用のズボンは身に着けていたが、上半身は裸だ。

 あの騒動のなか、装甲車に乗り込んだあと運よくズボンだけは履けたらしい。

 そうでなければいまでも全裸だ。

「ここは—―」

「オリエさんの『幼いころの世界』みたいなかんじでしょうか』

 稀梢が首をひねって言った。

「ここに来るまで、オリエさんの昔の記憶の断片のようなものを見ていました」

「僕もだよ」

「あたしも」

 いつのまにかシワトルもそばにいた。

 みな、手に手にじゃがいもの精霊を持っている。

 共和国の兵士たちも遅れて集まってくる。

 まるで腑に落ちないような表情だ。

 まっくらな世界が、すこし明るくなる。

 どこかでオリエの声がした。


「あんたに、会いたかったんだよ」


 視界が開けた。

 まるで地中に太陽の光が差し込んだかのようだ。

 いつのまにかみな、とりどりの花が咲き乱れる場所に立っていた。

 息を吸うと、涼やかでありながら甘い香りが胸いっぱいに満ちる。

 その花咲き乱れる場所、そそり立つ巨大な木はいままさに満開。

 その木の下で、オリエがカトルに話しかけていた。

 カトルは仮面をつけていて、やはり表情は読めない。

 ただオリエを見つめていた。

「いいさ。オレが悪いんだよ。もうほとんどちからの残ってなかったあんたの最後のちからを、オレのために使わせちまったんだから」

 オリエが笑う。

 手に持っていた冥界の笛をカトルに返しながら。

「行こう。あんたがやらなきゃいけないこと、オレも手伝うよ」

 オリエはそう言って、カトルの手から黒曜石のナイフを奪った。

 そして—―

 自分の胸に突き刺す。

 シワトルが「ひ」と小さく声をあげた。

 カトルが、オリエのしのこしたあとを引き取るように、血まみれのナイフの柄からオリエの指を引きはがし、すっくりと胸を割った。

 えぐり出された心臓は、まだ痙攣しながらも脈打っている。

 心臓から流れ落ちる血、胸から湧き出る血は、地に降って蛇になった。

 とても人間一人分の血ではない。

 これまでオリエが吸ってきたすべての人間の血と脂肪が流れ出している。

 蛇はみるまにその姿を大きくし、カトルの足に絡みつく。

 カトルもまた、姿を変えてゆく—―


 輝く翡翠の羽根を持ち、銀色に輝く蛇の胴と尾。

 ケツァルコアトル神――

 だれかがそう呟いた。

 その異形の神には、真紅の蛇が絡みつき、背を這い、鳥の頭の横でちろちろと舌を出している。


 キシャアアアアァアァ!


 それは神の咆哮――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る