6-4

 土曜日、僕は葉山先生の言ったことをずっと考えていた。

 大学の友人達から飲み会の誘いがスマホに届いていたが、疲れているとかやることが多いとか適当な理由をつけて断った。いつもであれば喜んで参加していただろうに、なぜかそんな日常に戻ることが躊躇われたのだ。どうせろくに楽しむことも出来なかったと思う。友人達もそんな僕の状況を知ってか知らずか、無理に誘ってこようとはしなかった。

 そして許可が出ていないにも関わらず、僕は美術室に来ていた。

「それじゃあパートに分けて作業するから、ちゃんと私の話を聞いてね」

 三橋さんは水を得た魚のように部員達に指示し、水上さんが提出したデザインを元に横断幕の制作に取り掛かっている。机と椅子を部屋の両端に寄せ、どこかから持ってきた新聞を下に真っ白な横断幕が床に拡げられている。巨大なそれを毎年のように制作し続けるのはそれなりの予算を使うだろうに、深早山高校は部活動にはかなり力を入れていた。

 部員達は各自で模写したデザインを手元に置いて、跡に残らないような画材を使って下書きをしていく。中には興味深そうに、中には面倒そうに、中には友達と話しながら。

 この調子では土日で横断幕は完成するだろう。

 僕はその様子を、美術室の端に重ねた机と椅子の前から眺めている。

 水上さんは登校してこなかった。

 部員達のいる前で直接訪ねることはできなかったが、衣笠さんはただ首を横に振るだけ。側についていてあげるように言ったが、それも出来ないのでは不安は増すばかりだろう。

 二人はごく普通の部員のように、他の生徒に交じって作業をしている。精神的に大人なのか不平不満を態度に出すことはしていないが、心ではなにを思っているかわからない。

 だが僕に出来ることはなにもない。

 三橋さんは僕を完全に作業から排除した。

 基礎練こそ付き合わせたが学校行事は部員だけで成し遂げたいようだった。露骨に作業分担の話題から僕を外し、ただ見ているだけしかできない状況を作り上げた。

別にそれに思うところはない。

むしろ見事だなと感心した。

その歳でよく自分のやりたいことをやり遂げる意志があると思う。僕とは違って、彼女は自分を知っているのだ。だから行動できる。その善し悪しを論ずるつもりもない。

「てかさ、水上さん今日は休みなんだな」

「そんなこともあるだろ。昨日も早退したぐらいだしさ」

 僕のすぐ傍で作業をしている二年生二人組の話し声が聞こえる。

 三橋さんには聞こえないように声の調子を落としていた。

「てかさ、やっぱ凄いよな。あんだけ遊んでてもやる気出したらすぐこれだろ?」

「才能の違いを感じるよなー」

「……やっぱり凄いと思いますか?」

 しまった、そう思ったのは僕だけではなかったようだ。

 二人はびくりと身体を震わすと、僕を振り返った後に恐るおそる三橋さんを伺う。

 幸いにも三橋さんは他の部員に指示を出すのに夢中でこちらには気づいていない。あの声の大きさでは僕達の会話など耳には届かないだろう。

「大丈夫みたいですね。すみません」

「い、いえ、なんかすみません」

「怒られるのは僕ですから安心してください。それより、水上さんは凄いと思いますか?」

「……えっと、そうだと思います。コンクール受賞したのもウチだと水上さんだけだし」

 受賞した絵。

 職員室前に飾られている、雑談から生まれた冗談の絵。

 思えば、僕の躓きはあの絵との出会いから始まったような気がする。

 確かにその前に水上さんの奇怪な行動はあったけれど、それも処理しなければならないだけの一作業だった。あの絵と出会わなければ、ただの変わった生徒の一人としてしか水上さんを見ていなかったはずだ。他の部員や生徒、先生方と同じように、才能ある少々変わった女子生徒の一人としてしか、水上さんを認識しなかっただろう。

 あの日以来、僕はあの絵を観ていない。

「二人はあの絵を観ましたか?」

「え? それははい、ここで描いてましたし」

「どう思いました?」

 僕の問い掛けに二人は顔を見合わせて答える。

「え? それはやっぱり凄いとしか。プロ顔負けっていうか」

「受賞しても確かにとしか思えませんでした」

 二人の返答を聞いて、それ以上深くは尋ねる気にはならなかった。

 その表情がいつか昼休みに見た他の女子部員達と同じだったからだ。

「そうですね。ありがとうございます。もう大丈夫ですよ」

 解放すると二人は安堵したように作業に戻っていった。話している最中もずっと三橋さんの様子を気にしているようだったし、確かにいつ気づかれてもおかしくない。彼女は異変を察知する能力に長けているし、今度こそ学校に報告されるだろう。さすがにそれは避けたかった。

「……よし」

 二人にも聞こえないぐらいの声で呟いて、僕は立ち上がる。

 そのまま真っ直ぐ三橋さんの所に向かった。

「三橋さん、少し席を外します」

「そうですか。わかりました」

 まるでこちらに関心がない、そんな心境が全て乗ったような言い方だった。

 多少は親しくなった部員が心配そうに僕を見上げるが、安心させるため微笑んだ。



 それはS10号サイズの人物画だ。

 どこかの仄暗い部屋の一室、所々にカビや剥がれのある漆喰の壁材を背景に具象的に描かれた女性が座って、変わらずに彼女は僕をみている。

 僕を写さないその瞳で、真っ直ぐに僕をみている。

 休日の誰もいない廊下で、僕はまたこの場所に来た。

 何か明確な理由があったわけではない。

 そこまで考えはまわっていない。

 もはやなんとなくに近い感覚で、僕は彼女と再会した。

「どうして、これを凄いで片付けられるんだ」

 たった数日、しかし僕の二十余年の人生を圧縮してもなお足りない濃密な時間を経ても、初対面の時と同じく僕はこの絵が恐ろしいままだった。息を呑み、両手には変な力が籠って、今すぐにでもこの絵から目を逸らしたくなる。

 しかし今度は眼を逸らさずに考える。

 なぜこの絵が恐ろしいのか考える。

 どうして僕は、この絵を観て変わったのかを考える。

 ————いつもの僕であれば、この絵を観てもなにも感じなかった。

————いつもの僕であれば、水上さんについてここまで考えなかった。

————いつもの僕であれば、水上さんに適当に合わせて会話をしていた。

————いつもの僕であれば、そのことになにも思わなかった。

————いつもの僕であれば、新島先生にすべて任せていた。

 いつの間にか、またいますぐにでもこの絵を破壊したい、そんな欲求に駆られていた。

 取りつけられたこの絵を引き剥して、床に叩きつけ踏みつけられたらどんなに気持ちがいいのだろう。この目に見つめられていることが疎ましくて仕方がない。苛立ちを逃すために意味なく地団太を踏めば、多少なりとも発散できるだろうに。


————いつもの僕なら、このわけのわからない苦しみを誤魔化していたはずなんだ。


「逢坂先生」

 糸で操られたかのように上がった手が止まる。

 その生徒は、僕と目が合うと気圧されたかのように一歩下がった。

「————猪狩さん?」

 どうして彼がここにいるのか、僕に声をかけてきたのかわからない。

 だから名前を呼ぶだけで、それ以上は言葉が出なかった。

「……水上の絵がどうかしたんですか?」

「————いえ、何でもありません。素晴らしい絵だなと思ってただけですよ」

 手を降ろして微笑む。

 しかし猪狩さんは警戒するように硬い表情のまま、まるで僕を敵だとでも言わんばかりに睨みつけている。両の拳は握りしめられ、真っ直ぐに僕を睨んでいる。

「先生は水上がどうして休みなのか、知ってますか」

 いきなり猪狩さんは本題に入った。

 言葉には僕を責める鋭さが含まれている。

「体調不良と聞いています。今日もお休みのようですから、心配していました」

「それだけですか?」

「他になにかあるんですか?」

 質問に質問で返したことに酷く腹を立てたようだった。眉間に大層な皺が出来る。

 昨日、猪狩さんは呆然自失とした顔で美術室に入ってきた。三橋さんがいくら問い詰めようと曖昧な返事をするばかりで、あるがまま表現すると落ち込んでいた。

 猪狩さんが水上さんにどのような感情を抱いているか、だいたい想像はつく。

 彼がどこに行っていて、そこで何があったか予想できる。

 大方、僕のところに来たのもそれが原因なのだろう。

「横断幕のデザイン、水上が嫌がってたの知ってますか?」

「あまり乗り気ではなかったのは知っています。上手くお手伝いすることが出来なくて水上さんを含め部員の皆さんには申し訳なく思っています」

「そんなのどうだっていいんすよ! 水上がどう思ってたのかが大切なんですよ!」

 唐突に激昂する猪狩さんを見て、むしろ心が冷えていくばかりだった。

 職員室近くで叫び声をあげれば、部活顧問として休日出勤している先生方に聞かれてもおかしくない。全員が全員部活に顔を出しているわけではない。げんに美術部の顧問は名前だけを貸している幽霊顧問だ。しかしそれでも、僕は慌てるでもなく微笑みを浮かべることが出来た。

「何か知っているんですね? 水上さんはただ体調不良でお休みしたわけではないと?」

「……本当に知らないんですか? ずっと水上と一緒にいたのに」

「申し訳ありませんが存じません」

 簡単にそう言ってのけられた。

 相手が水上さんでなければ、こうも容易いのか。

「俺、ずっと見てた。水上があの絵を描いてるとき、ずっと苦しそうだった。あんな顔初めてだった。水上、絵を描く時はいつも楽しそうにしてたから、あの絵には満足してないんだって」

「なるほど、そうだったんですね」

「今日休んでるのも絶対そのせいなんだ」

「実際に見た猪狩さんが言うなら、そうなのかもしれませんね。————ところで猪狩さん」

 想いが溢れているらしい猪狩さんに声をかける。

 彼はハッとして我に返り、再び仇敵でも見据えんばかりに僕と対峙した。

 微笑んだまま、尋ねる。

「君はなにが言いたいんですか?」

 口から出た言葉は、自分でも信じられないぐらいに乾いていた。

 しかしそんなことどうでもよくなるぐらいに、僕はおかしくなっている。

 猪狩さんは僕よりも背が低いからか、どうしても彼を見下ろす形になる。

 自分はいまどんな顔をしているのだろう。

 ちゃんと微笑めているのかもわからない。

「そ、それは————」

 水上さんにも、きっと同じようなことをしたのだろう。

 視線はせわしなく飛び、僕をちらりと見ては、またどこかへと飛ぶ。

 彼が苦しんでいるのはわかる。様々な感情が目の奥で蠢ている。

 もしかすると熱意だけでここにやってきたのかもしれない。

 居ても立っても居られず、迸る熱情だけで行動しただけなのかもしれない。

 彼はまだ高校生だ。自分の意志を明確に言葉にするなどまだ難しいだろう。

 それでも彼は行動した。

 僕になにかを言いに来た。

「羨ましい」

「え? あ、いや————」

「君が羨ましいです。本当に」

 何を言われているのかわからないのか、猪狩君はただ困惑している。

 でもそれは僕も同じだった。

 どうして彼を羨ましく思うのだろう。

 また疑問が生まれた。

 でも答えは外にはない。

 だってこれは僕の疑問だからだ。

 猪狩君に尋ねても答えなどありはしない。

 葉山先生に訊いてもわからない。

 これは僕から生まれた感情。

 原因は、僕の中にしかない。

 知っているはずなのに、知らないなにか。

「……そういうことか」

「あの、逢坂先生?」

 意味のわからないことを言われ、そして沈黙したかと思えば一人呟く僕は不気味だろう。猪狩君はやや引き気味で、一言言ってやろうという熱意は心配に変わっている。

 でも僕はそんな彼よりも自分に夢中だった。

 一つわかるとあらゆる疑問に結びついていく。心は興奮しもはや彼のことなど見ていなかった。チープな表現だが、点と点が線で繋がっていく感覚は言いようもなく気持ちがいい。

自分がわかっていく感覚というのはかなり滑稽で、そして恐ろしいほどに笑えた。

ふいに、初めての授業の日の朝にした、友人とのやり取りを思い出す。

考えて、感じろ。

まさに頭がワシャワシャのシャワーワルシャワだ。

「猪狩君、君のお陰でわかったような気がします」

「は? え? 何が、ですか?」

 まるで奇怪な宇宙人と出会ってしまったかのような顔である。

「君の想いは伝わりました。それは素晴らしいことだと思います」

「え? ありがとう、ございます?」

「こちらこそありがとうございます。それは猪狩君の美点です。ぜひそのまま水上さんとも友達でいてあげてください」

 疑問が解かれた後の解放感はなんとも気持ちがいい。

 次は行動に移せるかだけだ。

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