白色矮星

八橋鷲

本編

──夢を、見ていた……

 風が緑の草原を通り、私の肌に触れ、窓から窓へ突き抜けていく。私はそんな昼下がり、ウッドハウスのテラスにて揺れる椅子に座っていた。

 揺らめく視界を正常にし、顔をしかめながら、時刻を確認する。午後三時、日が暮れるまでそこまで時間がない。私はそっと立ち上がり、テラスの隅にある靴を履いて、目の前の物干し竿に向かっていった。

 そっと、かかった洗濯物を丁寧に取る。自分一人で持ち運べる程度の量だ。

 また、あの夢を見た。吉夢であり悪夢、覚醒した途端に私を苦しめる、意地悪な夢。いつまでも私の脳にこべりつき、支配者を気取る都合のいい夢。

 忘れたいのにいつまでも残り、私をますます惨めにしていく……。何故だ? 早く消えてくれよ。


 私は、心労を抱えながら乾いた暖かい服を隣において、テラスの段差に腰を下ろす。倦怠感が一気に体中を染めていく。

 夕日が草原を赤く染めていき、この高原には早い夜が迫ってきている。ここに隔絶された私を嘲笑うかのごとく、時は流れてゆく。肉体しか残っていない私は、この高原の一軒家で虚しく日々を送っている。

 夏なのに涼しい風が強く吹く、この高原にはその昔、結核患者のサナトリウムがあったという。そして、この家はそこで働いていた医者の家だった。

 もはや結核など不治の病ではない時代になった。しかし、異質を排除する習わしは、一切変わっていない。要するに、私にはこの場所がピッタリなのだ。

 私はふと思いなおした。そして、洗濯物をもって家の中へと戻り、夕飯の支度を始めることにする。日は少しずつ落ち、夜へと向かっていった。


□ □ □


──チック、タック、チック、タック、……

 時計の針が、乾いた音を刻んでいる。真っ暗な部屋の、体を吸い込んでいくようなベッドの上で、私は寝付けずにいた。

「はぁ……」

 私はため息をつきながら、天を仰いだ。暗闇の中でも、夕食の準備中についた傷を手当てしたものが見える。それが目に入ると、余計、沈滞とした気分になる。自分の頭に嫌気がさしてくる。

 私は『障害』を負った。それも、私にとって致命的なくらいの。私は全てから見放され、ここで死ぬのを待たれている。だって、今の私に価値などないのだから。

 もうこうやって、眠れないのも慣れてしまった。最初のうちにあった心から、ナイフのようで、ポタージュに似て、なおかつ水のようなものが込み上げてくる感覚はもうしない。

 そう感じるエネルギーさえも、私には残っていないのである。今の私に残っているのは、倦怠なのに脳は覚醒している矛盾だけだ。それも、数えきれないぐらい経験した。だから分かってしまう。どうせ、もうじき意識はなくなる。まったくもって喜ばしいことではなくとも。


□ □ □


目が覚めると、私はダイニングルームの床に倒れていた。慣れた手つきで立ち上がると、軽く伸びをし、時刻が午後一時であることを確認する。私は洗面所へと向かった。

風呂場の前の、使うつもりのない三面鏡の付いた洗面台で顔を洗いながら、私は朝食兼昼食の内容を考えていた。しかし、それは、

──ピーンポーンー

 という、めったに聞かない音で遮られる。インターホンの音だ。仕送りの時ではないのだがと訝しく思いながらも、急いで顔を拭き、玄関へと駆ける。

「はーい、今出まーす」

 そういいながら、重い木のドアを押した。

「えっと、どちら様ですか」

 見知らぬ男が立っていた。しかも、異常に特徴的な。かなり日焼けした褐色の肌が、半袖、半ズボンの服から露出していて、筋肉の付いた肉体を見せつけている。しかし、そんなのをすべて帳消しにするのは、失われた左腕。明らかに荷物を配達する人ではない。

 見るからに関わってはいけなそうな人間なので、反射的にドアを閉じようとして思い直す。その間に、その男は口を開き始める。

「君が、佐竹の息子か」

 と、こちらの質問に答えずに、質問で返す。どうやら、私が佐竹であることは知っているようだ。恐らく、父親の友人か何かだろう。

「ええ、はい、そうです。私が佐竹利通の息子、佐竹泰道です」

「そうか。俺は高瀬蓮。君の父親とは昔からの友人でね」

 予想していた通りの回答。私は顔をしかめ、警戒心を上げる。しかし、相手に気づかれぬうちに瞬時に笑顔を作る。

「そうですか。父の友人なのですね。ここで立ち話というのも何ですので、とりあえず、上がって下さい」

「分かった。ありがとう」

 その男──高瀬は、家の中に入り、靴を脱ぐ。私は、そいつをリビングまで案内する。


 高瀬は、私の勧めに従って、椅子に座った。申し訳程度にお茶を急いで作って出した後に、私も高瀬と向かい合うような形で座る。そして、わからなさゆえの恐怖を抑えて、おもむろに口を開く。

「それで、高瀬さん、今日はどういったご用件で来られたのですか」

作り笑いを浮かばせ、声のトーンを上げて尋ねる。高瀬は、きまり悪そうにこちらを見つめ、

「実は、君を助けてほしいと、君の父親から言われているんだ」

 と、おずおずとしている。おかしい、何故だ。私は、思考の闇の中へ入ったような感覚を抱いた。

──あり得ない、父が自分を助けようとするなんて。自分をどうでもいいと思っているあいつが。

 先入観にとらわれた瞬間、私は先に行動に出ていた。すぐさま立ち上がり、吐き捨てる。

「無理です、あなたには不可能です」

 すぐさま早足で部屋から去ろうとする。高瀬は、あからさまに狼狽えている。

「待ってくれ。俺になら君が理解できる。同じく失ったもの同士なら」

 独りよがりな言葉をあいつは出す。それは私の、高瀬に対する信頼を限界まで下げた瞬間でもあった。

「そんなわけありません。あなたに私は理解できない。あなたは結局その領域にいませんから」

 ドアを開け、私はそそくさと二階の部屋へと駆けあがった。


□ □ □


 あれから、どれくらい時間がたったのだろう。気が付いたら目の前には傷の付いた幾何学文様、どうやら、またあれが来ていたようだ。

──少し言い過ぎだったかな

 無意識状態から抜け出し、冷静になる。多分、あいつの言葉は嘘だろう。明らかにそうだったから。

 そんなことも分からなかった。あの時は、私は思いっきりため息をつく。障害を憂いながら。

 センチメンタルに沈んでいても、それは生態的本能に邪魔される。空腹なのだ。どっかの迷惑な客のせいで、今日は何も食べていない。だから、腹部に激痛が走る。頭痛がひどくなり、視界が狭まる。

 本能は扉の向こうへと駆り立てるが、恐怖と警戒心と自尊心によって、抜き差しならない状態に陥る。

──その先に行ってはならない

 自身の文脈でしか理解できない観念と行動。『障害』が取り返しをつかなくした、宙に浮いた均衡。私は両義性の過去へと沈んでいった。

 自由への渇望と伝統的価値観。社会への疲れと、家に対する反発、ゆがんだ自信と助長する才能と狂気。本来相容れないはずのものの、危うい重ね合わせが私だった。

 それを『障害』は破壊した。決していい意味ではなく。希望は消え、葛藤だけが残った。希望のある葛藤こそが人間の本質なのに。本質を失くした私は、ただひたすら、ここで死ぬことを期待されて生きている。

 なぜ? なぜ? あれがなければ……、あれがなくとも…… 私は何を誤ったのか? いつだ? 目的を持たされて生まれた時からか?

──トン、トン

 扉はこちらの様子を知らない音を立てる。しかも、かなり大きく。思考は途切れるが、反応はしない。しばらくすると、ドアの前に何かがおかれる音がして、その後、心地の良い、しっかりとした足音が耳に入る。さすが軍人といったところか。妙に腑に落ちる。

 私は階段からの音が聞こえなくなってすぐドアを引き、置かれたものを確認する。夕日を反射し、若干の橙色を帯びているおむすびが皿に乗って二つだけ。ただし、サイズはかなり大きい。何故か愛らしく思えてくる。

 私は急いでそれを部屋に入れ、扉を閉ざした。空腹で頭がおかしくなっている私はすぐに、一つを持って、勢いよく口の中に入れる。二、三口で断面が口より大きくなる程に。

 何の具も入っていない、少し形の崩れたただの塩むすび、何の変哲もなさ過ぎて、逆にメッセージ性を感じてしまう。実際そうなのかもしれない。

 ふいに、頬に暖かく湿った感覚がする。高原の夕焼けが揺らぎ、私の心をより強く揺さぶる。私は、一個目をすぐに平らげてしまい、もう一つを口へと運ぶ。

 これも、ただの塩むすび。本当にシンプルだ。でも、それがいい。何も飾り立てていない、逆説的な奇抜さがある。それは塩むすびだけでない。皿や、高瀬の置き方、置く前のこちらに対する行動にそれが感じられる。

 私は、初めて高瀬に対して好感を持った。

 窓から、絵にかいたような夕焼けを、私は望む。明日は洗濯でもしようか。

 そんなことを考えているうちに、私は二つとも食べ終えてしまった。シンプルで、外れの無い、そんな料理(?)だった。ただ、私は一つだけ不満を持ってしまう。

──あの塩むすび、ちょっと塩辛すぎないか?

 それが涙のせいか、あいつの味付けのせいかは、分からないが。


□ □ □


──何も、見えない。

 すっかり日が沈み、いつになく閉じ切った部屋は自分の手さえも判別できない。私は、暗い密室の中で横になっていた。

 今が何時かはわからない。だけど何となく、そんなに夜が更けていない気がする。まだ眠るには早いが、倦怠なので体を休める。どうせ、意識を落とすには時間がかかるし。

──今日は、ひどく揺さぶられる日だった。

 『障害』で弱った思考は、私の混乱、怒り、恐怖を抑えられなかった。しかも、いつになく高揚した気分のせいで、涙を流してしまった。失礼な客のせいで。

 今日の流れがまだ尾を引いているから、私は瞳を閉ざし、自滅行動を始める。それは、私が決して犯してはならない禁忌。だが、いたずらにうごめく本能と、変革を求める理性が、私を駆り立てる。私は、過去を振り返ることにした。


 生まれた時から、私は一つの道しか許されなかった。とある町の大病院に生まれた私は、医者になる選択肢以外はなかった。いや、意図的に消されていた。密かに、私ほどの頭脳がないと気づけない程に。

 あれは、十三歳くらいのことだっただろうか。あまりにも恵まれた頭脳を持っていた私は、図書館でとある本に出会った。確か、格式高い哲学書だった。読んでみると、そこには未知の世界があった。私が理解できなかったところもあった。

 当時、自信過剰だった私は、その本に世界を崩された。私の内的世界をただの精神にまで落とした。その時、私は思わず涙を流してしまった。傍から見ると意味不明な中学生だっただろう。だけど、同時に哲学に興味を持った。それで生きていく道を望み始めた。

 ある時は、自然界のつながりに感銘を受け、科学に興味を持った。マルクス主義とケインズ主義を比較し続け、経済学に没頭した。文学にも傾倒した。

 私はさまざまな学問に魅入られ、恋にも等しい感情で、打ち込んだ。そう考えると、相当な浮気者だったのだろう。だが、一つだけまったく興味を持てない学問があった。

 それは、医学。私はそれに興味深さも、美しさも感じなかった。家への反発があったかどうかは分からない。ただ、私にはどうも中途半端で、とるに足らない学問のように思えた。

 そうだ、あれは中三の時だった。


「お前は、将来、どうするつもりだ」

 食事中に、父はそんなことを聞いてきた。かなり痩せていて、目つきは鋭く攻撃的だ。私は、様々なことを忘れてきたが、あの、私を人間としてみていない、視線は頭に残り続けている。そんな威圧を受けている私には、一つの答えしかできなかった。

「もちろん、医者になって家を継ぐつもりだよ」

「本当にそうなのか、別の道に進もうと思わないのか」

 父はひどく賢く、残酷な人間だった。こうやってあえて否定することで、私に真の意志で決めたように思わせる。よく覚えていないが、昔から、この答えが出るように、こんなやり取りをしていたのだろう。

 本当に、頭の使い方を間違っている。私に非人間的な才能がなければ、この化け物に思考を掌握されていただろう。それでも、あの目の前で逆らうことなどできなかったが。

「そうだね……いろんな分野を見てみたけど、やっぱ医者になるのが一番かな、って」

 嘘だ、真っ赤な嘘だ。私は気が進まないが、食事を口に運ぶ。

「そうか……、できることがあったら協力する」

 気持ち悪い、今思い返しても吐き気がする。あの時口の中のものを吐き出さなかったことは、奇跡だっただろう。実の子供を跡継ぎのための道具としてしか見ていない奴の、偽善に満ちた言葉。どのようにこんな人間が育ったのか、疑問に思った。祖父母は生まれたときに他界していたから、知る由もなかった。


──あの時以来、私は本当に逆らうことができなかった。あの機械のような、人間性のない父に底知れぬ恐怖を抱いた。いくら才能に恵まれていても、それに立ち向かう勇気は存在しなかった。

 私はその後、高校へ進み、無事にこの国の最高学府の医学部へ受かり、しかれたレール通りに歩いて行った。そして、あの事件は起こった。


「これでもう大丈夫かな」

「もう少し確認したほうがいいんじゃない」

 木造の四畳半の部屋に声が響き渡る。二人で勉強するには窮屈な下宿の部屋。私は法学部の友人と勉強していた。

「いや、でももう遅いし……」

 時計を見ると午前一時を指している。

「うーん……まあ、そうだね。今日はもうお開きにして、明日、最終確認しよっか。そしたらその次の日は……」

「いよいよ、本番だな」

「その通り」

 そうだ、明後日(明日)は司法試験だ。合格率三パーセント未満の、文句なしの最難関国家試験。私は目の前のハッピを着た目の前の友人と、それに挑もうとしていた。

「それにしても、驚いたな……」

 そいつはおもむろに口を開く。

「お前が司法試験受けるなんて言い出すから。医学部なのに」

「……まあ、突拍子のない行動は、お前らしいけど」

 高校時代からの同級生である友人は、感慨に浸ったような顔をしている。まあ、私に目的があるなんて、誰も知らないのだが。

 私は、口をつぐみ続ける。

「でも、まさか一年でここまでできるようになるとは。ちょっと、六年かけている人の気持ちを考えてくださいよ……」

「はいはい、そうですか。一浪して大学に入って、そのあと麻雀にはまって一留した人のことなんて知りませんよ」

「で、明日は早めに切り上げるから。ちゃんと寝てね」

「分かった」

 私は返事を聞き、中身の詰まっていないドアを押す。

「じゃあな」

「じゃあね、また明日」

 私はドアを閉じ、一歩一歩進むたびにギシギシと軋む廊下を渡る。

 下宿を出た瞬間、生暖かい風が肌をなでる。初夏の帝都には、人は見えず、蝉の声がよく聞こえる。

 先の敗戦より三十数年、程よく壊されたこの国は、健全な立憲君主制の民本主義国家として歩んでいる。(そのせいで煩雑になった条文の暗記には苦労するが)

北の方の国とは小競り合いが起きているらしいが、軍事マニア以外にこのことに興味を持つ人間は、誰一人いない。先の戦争のように挙国一致することも、相互監視することもない。反対派だっている。個人主義が支配する人々は、ただ働き、消費し、税金を納める、それだけだ。

 それでも、ここに住む人々は余裕がない。いつも何かに追われて、安定した土台の上で、昼夜問わず挑み続ける。矛盾を抱えながら。

 彼方からラッパの音が耳に入る。こんな不健康を誘発しそうな文化がまかり通る。これが三十年間理想としたこの国の個人主義の実態だ。縛られる先が変わっただけに過ぎない。

 個人主義が本当に正しいかは分からない。だけど、それがましだと信じざるを得ない人もいる。伝統と因習に苦しめられている人間にとっては。

 私は鼻腔を刺激する、ラッパの音の元を通り過ぎ、自分の家へと進んでゆく。

 計画は、順調に進んでいる。この一年、自分の才能と労力を総動員して、知識の吸収に努めた。あの家からの解放と夢の実現、それを達成するために全力を注いだ。この目的は、あいつには言っていない。あいつはこれを言えるほど信頼に値する人はいない。

 皆、私を誤解している。私を、天才だから何の悩みもないと思っている。もちろん、私が心を開かないから、理解されないという側面もある。それは鶏が先か、卵が先かだが。

 酔っぱらいの声が少し聞こえるだけの下町を進み、夜でも喧騒と明かりが支配する都心へと近づいていく。私は内心、『ラーメン食べたかったなあ……』と思いながら明日も朝が早いので急いで帰路につく。家まで、あと数分だ。

 そんな風に考え事をしながら、道を進んでいると、

──キィ……

 とけたたましい音が聞こえる。そして次の瞬間、

──ドンッ

 背中に強い衝撃がほとばしる。ブレーキがかかっていたおかげか、意識は飛んでいない。しかし、目の前には電柱があって……


 それ以降は、記憶にない。気がついたら三日経っていて、意識は戻っても、ぼんやりとしていて、うまく考えることができなくなっていた。


 ここまで思い出して、私は自分の愚かさにため息をつく。やっぱり、こんなことをすべきではなかった。己を苦しめるだけだから。しかし、ここまで来てはもう思考を止めることはできない。私は最後まで続けることにする。

 結果として、『障害』がつきまとうようになった。思考力、注意力の低下、私はこれによって価値を失った。天才としての価値も、不本意だった佐竹家としての価値も。

 私はあの場所で自身の天才性を発揮して生きる道も、医者として、佐竹家を継ぐという最悪の道も、消えてしまった。

 まあ、何よりもひどいのは、私に現れる無意識状態なのだが。お陰で、日常生活を送ることさえも不可能になった。社会に溶け込めなくなったおまけ付きで。

 こうなった私に父はどう対処したかというと、この高原の家に私を押し込めた。注意力の低下と無意識状態により、一人だといつ死んでもおかしくない私を。

 あいつにとって、後を継げない私に価値などなかった。私をそのための道具としてしかみなしていないのだから。

 ここまで回想を続けて、私はようやく現実に意識を戻した。精神的な圧迫感はひどいが。多分、眠るのには時間がかかるだろう。この感覚にも慣れてしまったが、居心地の良いものでは決してない。

 結局、あいつに乱されてしまった。何度もした、しなくていい回想を行うよう駆り立てられた。

 逆効果にしかなっていないじゃないか、あいつへの恨み言が頭をよぎる。

 まあいいか、夜はまだ早い。いつもなら布団に入ってすらいない時間だし。私はそっと目を閉じ、また自分の世界へと入ってゆく。隔絶された場所の、孤立した家の、閉ざされた部屋の中で。


□ □ □


……気持ち悪い。なんとなくそんな気がする。私は目を開けてみる。すると、そこには悪夢が広がっていた。

 赤くただれた海、廃材が埋め尽くす海岸、雨が降っていないのに黒に近い灰色に覆われる空。おかしい、こんなはずじゃない。

 別にこの光景は珍しいものではない。今まで、そんな土地を何度も見てきた。けど、けど……

 ここは本来、空と海が澄み渡っていて、体が沈んでしまいそうな砂浜が広がっているはずで……

 よく感覚を研ぎ澄ますと、波の音も、海風の涼しい肌触りもなく、空気がどよめいている。

 私は、走り出した。目の前の世界を否定するために、急いで、急いで、急いで…………

………………変わらない、何も変わらない。穢れた風景だけが付きまとってくる。私はいっそう足を早める。

 あれからどれくらい走り続けただろう。変わらない景色の中、私は瓦礫の中に一つの鏡があるのを見つけた。私はそれを手にとってみる。すると、そこには……

──白衣を着た私が写っていた。


□ □ □


 日差しがカーテンを突き破って、部屋の中を照らし、私の意識を覚醒へといざなう。

 夢を見ていた。いつもとは違う、都合の悪い、別の方向での嘘の夢。まあ、実際は記憶のツギハギといったところだろうか。私の頬には、温かい触感が下に行くにつれて冷たくなっていく、あの感覚がしない。むしろ、若干口角が上がっているのを感じ取れる。

 時計を見ると、午前八時。皮肉なことに健康的な時間だ。今日はどのようにしてこの部屋で過ごそうか。

 頭の中の靄が晴れてきたところで、鼻腔をつく匂いを感じ取る。私がドアを開けてみると、そこには朝食が置いてあった。私はそれを落とさないように、ゆっくりと回収する。

──とんだお人好しだな

 心の中でそうつぶやきながら。


 ちなみに、やっぱり朝食の味は濃かった。


□ □ □



 カーテンを開けたままにしていると、長かった影は短くなっていた。私は朝食を摂った後、本を読むなどして時間を潰し、昼がどんどん近づいていることを感じ取っていた。

 籠城を開始してからもう少しで丸一日、この不毛な抵抗にも倦んできた。

──はて、どうしようか

 心の中には警戒心と、疲労感、少しづつ浸食してくる不快感と閉塞感、そして変化への期待。窓から外を覗き込んでみる。古びた建物と、私を閉じ込めるかのごとく鎮座する山々。青々とした草原と、疎らな木々。なんとなく新鮮な感覚がする。

 一日中部屋にこもるなんて簡単なことのはずなのに、どうしてこんなに辟易しているのだろう。

 家によくわからない部外者がいるからか? それともあの夢のせいなのか?

 ただ、いつまでもここにいるのは間違っている、そう叫んでいる自分がいる。──黙れよ。

 私は窓から目を離し、机を見てみる。読み古した本と、破れた紙の切れ端。

 更に立ち上がり、少し曲がって、扉を視界にいれる。

 越えようとしている自分がいる。──超えるなという自分がいる。

 泣いて、笑いたいという私がいる。──心を閉ざしたいという私がいる。

 叫びたいという己がいる。──何も語りたくないという自分がいる。

 湧き上がるすべての本当の「私」たち。私はそれらを振り払い、そして……

──禁断の扉を超えた。


□ □ □


 グツ、グツ、グツと、鍋から音が発せられる。

「あっ、ちょっとあれとってください」

 私は左側の棚を指差す。高瀬は食材を切っている。

「これか?」

 高瀬はお玉を指差した。

「はい」

「ほら」

 私は軽く投げられたそれを取る。何やってんだ、あいつ。

「ありがとうございます。あと投げないでください」

「ああ、すまん」

 えっと、一体なんでこんなことになったかというと……


 私は部屋を飛び出し、階段を駆け下り、リビングについた。

 あいつはいない。しかし、耳を澄ますと、奥の離れ小島のようにある台所から音が聞こえてくる。──私はそこに向かって走り出した。

 一種の躁状態だろうか、私は迷うことがない。台所につく。水の入った鍋は、ガスコンロの火で熱せられている。高瀬は、義手をつけて、何かしらを切っている。そこに向かって私は淀みのない表情で言葉を投げた。

──手伝いますよ。

 高瀬は驚きと喜びのまじった表情で返す。

「ああ」

 私は急いで高瀬に近寄り、包丁を強奪して、首を鍋の方向に向ける。

「分かった」

 高瀬は鍋のそばへ向かう。私は円柱状に切られた人参を、四等分していく。トントン、トントン、トントン、と小気味の良い音を立てながら、高瀬の方に目をやった。すると、

「ちょっと、何味噌をもう、入れようとしているんですか。あと量多すぎです」

 あいつは理解不能な行動をしていた。

「え、そうなのか。あとこれくらいがいいだろ」

 私は愕然とした。しかし、よく考えると別におかしいことではないと気づいた。そもそも、私みたいに料理に慣れている男なんて少ないんだから。

「そうです。そしてあなたの料理は味が濃ゆすぎるんですよ!」

「そうか? これが普通だと思うのだが。軍隊でもそうだったし……」

「軍人とひ弱な二十代男性を同じにしないでください!」

 私は半ば叫びながら、包丁を扱う。そして、

「だいたいですね……って、痛ったぁ……!」

「ってああ……、何やってんだよ」

 私はしっかりと指を切ってしまった。気分が高揚していて、叫んだものの、慣れた手つきで後ろの棚にある救急箱を開ける。私はすぐさまオキシドールとガーゼとテープを取り出し、処置する。不思議とあまり痛くない。興奮しているからだろうか。


 私は手当を完了させ、また、まな板の方へと向かう。私が止血している間に、高瀬は包丁と食材とまな板を洗ってくれていた。そして今は高瀬が食材を切っている。

「失礼しました」

 私は代わりに鍋の番につく。と言っても主にやることは、切られた食材を炒めることだが。

「大丈夫か」

「ええ、慣れてますし」

「慣れたらいかんだろ」

 そんな会話をしながら、私は食材をフライパンに入れて、ヘラで混ぜていく。そうしながら、食材をいれる順番を意識する。

「でも、俺と話してたから、集中できなくて怪我したんじゃないか?」

「いや、障害のせいです」

「そうなのか」

「それにしても、あなた義手でしょう。そちらのほうが大丈夫なんですか」

「大丈夫だ」

 高瀬は誇らしげに包丁を落とし、小気味の良い音を立てる。

「でも何も順番わかってないじゃないですか!」

「知らねーよ。ていうか、知っている方がおかしいんだよ」

「多分、これから知らないといけない時代が来ますよ! ……二十年後くらいに」

 そこで、私はひとつ重要なことに気づく。

「そういえば、根菜は水と一緒に入れてから、沸騰させるはずですよね」

「あっ……」

「……」

「……」

「何やってんですか!」

 私は叫んだ。今日何回目かの。はて、どうしようか、一度冷まして時間を取りたくないし、食材を無駄にしたくない。ここだと食料が手に入りにくいから。

「薄く切りましょう。私が代わりますから」

「いや、危険だろ」

「あなただとできないでしょう!」

 私は強引に包丁を奪い取り、人参と大根を薄切りにしていく。

「めんどくさいですね。一度で薄切りにできたらいいのに」

「そういう道具があればいいんだがな……、どうだ、泰道、作れるか」

「無理ですよ、私には。あなたこそできませんか」

 私は自分の頭を指差す。

「俺にも無理だ」

 高瀬は左腕をかかげる。そして、同時に二人で笑い出す。

「なんか、不謹慎ですね」

 私は性格の悪い笑みを浮かべた。


 薄切りにし終わり、いきあたりばったりの食事の支度も、安心できる段階になる。あいつ、なんであの二食はまともだったんだ? 天文学的確率でも引いたのか。おにぎりの形が崩れていたのは、義手のせいだろう。

 私は同時に、どうして高瀬の間違いに気づけなかったのか疑問に思った。話していて、テンションが上がったからだろうか?

 いや、『障害』のせいだ。そのはずだ。

 私は、そっと汁物に水を継ぎ足す。それにしても、あいつ、人間としての素養を疑うレベルで適当なのでは?

 疲れた。扉を超えたがために、面倒なことになった。でも、なんとなく、あれが私の一つの本当の姿なのではとも思った。

 なんていうか、こんなときも遠い昔にあった気がする。


□ □ □


「少し、私の話を聞いてくれないか」

 お茶を飲みながら、向かいに座っている高瀬は、おもむろに口を開く。私達は、あれからなんとか食事を作り終わり、昼食を摂って、その後高瀬に呼び出されて、またリビングに戻っていた。

「はい」

 私は気が変わらないうちに急いで返事をする。

「そうか、じゃあ、あれは三年前のことだった……


──我が国の北方で戦争があったことは知っているだろう。俺はそこで司令部の一人だったのだが、ある日俺が司令部の一人として、私は前線に赴いたんだ。

 で、その時運悪く爆撃に巻き込まれて、左腕を失ってしまったんだ。

 ここまでだったらよくある話だろ? でもな、ここからが問題だったんだ。

 俺が怪我の治療を済ませて、故郷に帰ったときには戦争は終わっていた。実質的には痛み分けだったが、一応、我が国が勝ったことになっていた。そこで故郷でなんと言われたか分かるか? 「名誉の負傷だ」だってね。


 内心、怒りでいっぱいだったよ。俺は別に勇敢に戦ったわけでもない。ただ、たまたま攻撃にあたっただけだ。なのに、あたかも英雄かのように扱われる。どうも、やりきれなくてな。そして、内心失望したよ。


 あの三十年前の戦争で負けて、自力で民主化して、それでより良い国を作った。私はちょうどその時入隊直後だったんだがな。

 それがどうだ、戦前と考え方は一切変わっていなかった。個人主義だが自由主義だがを選んで、軍に残り続ける決断をした俺を非難した奴らの考え方がな。


 だからな、この傷は決して名誉でも誇りでもないと思っていた。だけどな、俺は一方で祭り上げられて、少し嬉しく思っている自分もいたことに気づいた。

 お前と俺だと傷の性格が全く違う。俺はお前を本質的に理解することはできない──


……てっ、ことだ。参考にならない話ですまんな」

 高瀬は長い昔話のあと、お茶を飲み干す。私は顔を険しくしかめながら、俯いていた。手つかずのお茶は湯気が立たなくなっていた。

「いえ、ありがとうございます」

 そう言ったきり、黙り込む。今は考えることが重要だ。高瀬の話、確かにあいつに私を理解することはできない。初めて話したときに直感したように。失ったあとの結果を見れば、『障害』の性質の違いは明らかだ。

 でも、なんというか疲れた。私の心の中にいる、助けと解放を求める声、それに逆らい続けるのが、どんどん億劫になってきた。いいんじゃないか、別に、『障害』が別のものでも、待っていた結果が正反対だったとしても。何かを失って、己の矜持を傷つけられた、その一つの共通点だけで。それに……

 自分にもその側面があるって気づいちゃったし。

 

 高瀬はこちらが答えを出すまで、待ってくれている。何たる健気さだよ。どうも、こいつは憎めない。私は一つの重大な結論を出す。今まで誰にも言ってこなかった、あのことを。

 私は顔を上げて、真剣な表情を崩さない。リビングには私と高瀬、テーブルと椅子だけしかない、そんな感覚がする。深呼吸して、意を決して、口を開く。

「では、今度は私が話しましょう。私が何故ここにいるのかを」

 私は己の過去を語り始める。それは、長年保ってきた秘密主義を崩す瞬間でもあった。



「────と、いうわけで、私は佐竹家から解放される道も、佐竹家の長男として家を次ぐ道も、なくなったしまったわけです」


 私は長い長い、昔話を終えた。真剣に聞いてくれた高瀬と同時に、冷めきったお茶を飲み干す。外は、心地よい昼下がり、といったところだろうか。実際、時計を見ると、午後二時半ごろを指している。

 私は長年くすぶっていた、この独白への欲求を満たすために、この話の最終段階へと入る。

 それは、私が理解できていなかった、いや、理解を避けていた話。

──高瀬によって気づかされた。

「両方の選択肢がついえた時、私は最悪な気分でした。才能も、努力も、何もかもが壊されて、悶々としていました」

「……ですが、あの時、同時に、どこか安心していた、そんな感覚もしていた、今となってはそう思うのです」

 高瀬は神妙な顔をしながら、どこか腑に落ちない、といった気分を醸し出している。

「私はおそらく、不安だったのでしょう。家に頼ることを放棄して、絶対的自信があるわけでもない、己の能力だけを信じて、自分の決めた道を進むのが」

「……それに、次ぐかどうかの葛藤だってありました…」

「ですから、私は才能と共に、不安定性と葛藤が消え去ったのです。あの障害を持った時、私はようやく地に足をつけることができるようになった感覚がしました」


 私は、急須からお茶をつぎ足し、そっと口に含む。今日何度目かも分からない沈黙が流れる。私は椅子に体重をかける。

 高瀬は、考えをまとめているようだ。私はそれを見守りながら、頬杖をつく。どうにも、目を閉じたくなる。そして、私の意識は少しづつ……


 意識が現実へと引き戻されてゆく。体の硬直が解け、バランスを崩し、視界が追い付かなくなる。私は頭が机に衝突するのを、すんでのところで回避し、高瀬に向き直す。

「起きたか」

 何か意を決したような顔をしている。私はこの客人が考え込んでいる前で、華胥の国に遊びに行っていたようだ。

「失礼しました……」

 私は、謝罪しつつ、時計を見てみる。寝ていたのは三十分くらいのようだ。

「まあいい、それより、もう一つ聞いてほしい話がある。私の、とある、友人の話を」

 私の体が一気に引き締まる。誰の話かは分かり切っているから。私の頭の眠気は、完全に飛んで行った。



──私の故郷には、一つの大病院があった。町の誰もがその病院を利用するものだから、そこはすごい繁盛でな、そこの病院の一家は町一番の金持ちだったよ。

 で、その一家の息子と、俺は同学年だったんだ。あいつは変わった奴だったが、生まれの良さか、物腰柔らかで、羽振りもよく、なおかつ席次も一番だった。そして、俺とは親友と呼べる仲だった。



 あれは俺たちが旧制中学校の四年生くらいだったころだ。


春の陽気さが窓から突き抜けてくる教室で、私はそいつにいつものように話しかけられた。

「ねえ、高瀬くん、君が、来年から士官学校に行こうとしているって聞いたんだけど本当?」

「ああ、本当だ」

 このころになると、あいつは、若干女々しさをおびるようになっていた。まあ、そんなことはどうでもいい。相も変わらず、優しさがあって、成績は一番上だったのだから。

「じゃあ、今年が最後だね」

「そうだな。ところで、お前は中学を卒業したらどうするんだ?」


「そうだね、まあ、一高でも目指そうかな」

「そこから、医科に行くのか?」

 その瞬間、あいつは、どこか覚悟を決めたような表情になった。

「いや、文科に行こうと思ってる」

 そして、意外な答えを返した。あの時は、誰もが、あいつが病院を継ぐことになると考えていた。

「文科って、小説家にでもなるのか」

「そうかもね」

「曖昧だな。それで、親は賛成しているのか」

「そうだね……、父親は賛成しているけど、それ以外は…………、ほぼ反対かな」

「そうか……」

「でも、何とかしようとは思うよ、自分の人生なんだし」

「そうなのか? まあ、応援している」

 思えば、この時のあいつの顔は、落胆が混じっていたのかもしれない。あいつのような特殊な人間は、受け入れられないのが普通で、私にも、よく分からなかったから──


「昔の父は、そんなことを考えていたのですか」

 私はここまでの話を聞いて、今との差異に、呆気にとられる。

「今のあいつからしたら、想像もつかないだろ」

 高瀬は、にやりと笑う。だけど、私はその中にある苦々しさと、重苦しさを見逃さなかった。

「で、そんな今思うと、思想を三十年くらい先取りしていた奴が、何故、こうなったかというと……」


──あの会話から十年ほど経った頃、俺たちは戦争を乗り越え、若干の混乱の時代を、生き抜いていた。

 早々と、この国が降伏してくれたおかげで、俺は沖縄で待機したまま、終戦を迎えてしまった。そして、あいつは学徒出陣の影響も受けず、医者になっていた。

 あいつは結局文科に行かなかった。『細雪』とかが連載中止になっているのを見たからだろう。

 連合国の協力もあって、この国は自力で民主的傾向の復活、強化を遂げた。そのことからか、巷では個人主義が流行っていた。あいつは、恩恵を受けなかったが。


 あいつは、とある高原のサナトリウムで働いていた。

──どうされたんですか? ○○さん

──大丈夫ですよ。すぐに、薬を出しますので

──外国産の食料が入ってきました! これで栄養状態を改善できます

 あいつは、そこでの生活を楽しんでいた。結核に苦しむ人の希望となって、東奔西走する日々を。ここで一生働きたいとも思っていた。

 そのサナトリウムの外れには、一つの一軒家があった。そこの医者が、代々住んできた家らしい。

 そこから見える景色は美しかったそうだ。彼方に見える森や山も、夕日に照らされる草原も。

 あいつは、文科に行きたがっていた風流人だったから、その生活に生きがいを感じ取っていたのだろう。

 あいつは、家に言われた通り、医者になったものの、自分のやりたいことを見つけたはずだった。


 ある日、突然、国からその療養所を廃止するという連絡があった。もちろん、急にではなく、二年後にということだったが。

 その話を一番最初に知ったのは、何故かは分からないが、あいつではなく、その実家だった。

 そして、そいつらはすぐに行動し、意気消沈しているあいつに、閉鎖後にあの町の大病院で働くという約束を取り付けた。


 二年後、あいつは失意のうちに、その高原を去り、町へと戻った。内心、断腸の思いだったのだろう。

 あいつの顔から笑顔は消えた。定められた生き方に反発して、自力でつかんだ生きる意味、それを壊されたのだから。

 それから、あいつは言われるがままに、お見合い相手と結婚し、後継ぎを作ることとなった。あいつにとって、それは不本意なことでしかなかった。あいつの仲の、楽しかった記憶は、埋没していった。

 そして、そいつの子供が生まれた時、あいつの歪み切った思考は、結論付けた。

──こいつは、ほかの道など考えさせてはならない。後を継ぐ、その結論に疑問を抱かせてはならない────


「……と、いうわけで、こうやって、あいつ──お前の父親の、佐竹利通は、お前の見てきたような人間になった」

「そうだったのですか……」

 最悪な父を形作った、周囲の打算だらけの過去、築き上げた希望を崩される怒り、憎しみ、失望。

「それから、あいつは俺に手紙を送らなくなった。あいつからしたら、他人と関わることも嫌になったのだろう」

「……そして、あいつはお前を後継ぎとしか見なくなった」

「……」

「自分がなりたくないという感情を抱いていたにもかかわらず」

 父の体験には、私の障害と似ているところがある。そして、どちらも己を失った。

 父に対する恨みは消えないが、少し、憐憫の情が湧いてしまった。 結局、親子二代で惨めな二十代を送っているだけじゃないか。


「あいつのお前に対しやってきたことは、決して許されるものではない……」

「……でも、一応、こうなった理由はあるんだ」

 高瀬はお茶をすする。日は少しずつ傾き始めている。私の中で許せない父の像が崩れる。同時に、絶対的な恐怖も消えていく。



 結局、親子二代で惨めな二十代を送っているだけじゃないか。

 憎しみは、わずかながらも浄化されていく。ちょうど、きれいな空気が肺炎患者を癒やすように。


□ □ □


テラスからは夕日に照らされた草原を一望できる。私は、あの後一人、ここに出て考え事をしていた。

──崩された。常識が。十数年間信じ続けていた前提が。

知ってしまった。理解してしまった。私は父親と同じような目にあっているという事実を。認めたくない。あんなに嫌いだった父親と実は似たもの同士で、同じ轍を踏んでいるなんて。

否定するしかない。腐り切った継承を。それが、『障害』を抱えながらできる唯一のことだから。眼前に広がるは、心を揺さぶる純粋に美しい景色。父は、これをどんな気持ちで眺めたのだろうか。この景色は、父をどう動かしたのだろうか。

『満たされたこの地を追われた父と、満たされない思いでここに来た私』

ふいに、そんな言葉が思い浮かぶ。この地は人に安らぎと幸福を与える。だから、サナトリウムになったんだ。

私の中に、一つの欲求が湧き上がる。

──この見放された楽園を、失わせてはならない。




楽園のサナトリウムは閉鎖されて、もうその時代を知る人は一人もここにいない。

ここにいるのは、新参者の私一人。真なる体験者でない私だけだ。

私がここを記録しなければ、この楽園は誰の目にも止まることなく、消えてしまう。

そんなことは、許せない。私は、この地を言葉にしなければならない。あの場所の分まで。

不本意だが、結局、私と父は同じような存在でしかない。ここに感動を覚えることも、文学にあこがれてしまうことも。

父はここにいることが叶わなかった。私も、あの場所で生きることはできなかった。

だからこそ、私は己のため、父のため、あるいは、不自由に苦しむすべての人のために、残さなければならない。解放された、この楽園を。

ようやくつかめた。虚無主義から脱却できた。

私は、さえぎられることのない空を背にし、家の中へと戻っていった。


□ □ □


 暗い部屋の中、私は布団に身を包んで体を休める。不思議と、いつものような気持ち悪い感覚がしない。────私は、思ったより単純だったようだ。

 私の決意を高瀬に話した時、あいつはただ一度、頷いた。真剣な表情からは、若干の安堵も伝わった。

 今日も激動の一日だった。日々を無為に過ごしていた私にとって、この二日間は、二ヶ月くらいの長さに感じる。

 そういえば、すべての始まりは、あの夢だった。あの、いつもとは違う嘘の夢。

 ────これは、私だけの秘密にしておきたいから、実は高瀬には言わなかったことがある。まあ、誰にも言うつもりはないことだし。私はふと思い立って、瞳を閉じ、その明るい過去をなぞらえ始める。



────私は旅に出た。

 大学五年の夏、私は日本中を訪れた。

 どうして、そんな旅に出たかというと、腰を落ち着ける場所を見つけたかった、それが主だったと思う。

 この頃になると、ようやく、父から逃げる勇気が生まれた。だから、私は行く先を見つけなければならなかった。それも、遠くへ。

 日本中、様々な場所を転々とした。すべての地域に、それぞれの個性があった。しかし、どれも、一つだけ共通点があった。

 汚れた川、海、濁った空、光の届かない外界。競争主義が生み出した、汚れに満ちた空間。

 それだけは、どこも変わらなかった。私はどこも良いとは思えなかった。

 

 少しづつ秋へと近づき、そろそろ、旅を終わらせねばならなくなった頃、私はある街を見つけた。

 そこは、自然を残しておきながら、人が豊かに、笑顔で住んでいた。そこは、原初の風景であると同時に、この世界の最終到達点にも思えた。


 あのとき、私は疲れていた。父とのことだけでなく、それを表に出さないことにも。それに、この社会にも。

 私は才能を持って生まれた。そのおかげで、私は自身の状況をすんなりと理解できた。だからこそ、父の支配をうまく躱すことができた。一方で、苦しめられた。才能があるということは、それより上の才能と対峙するということなのだから。

 私は天性の負けず嫌いでもあった。しかし、どんなに才能があっても、それを超える奴はいるし、私より遥かに乏しい才を磨いて、食らいついてくるやつもいる。

 私は負けることが許せなかった。だから、追いながら、逃げ続けなければならなかった。弱音を吐きたくても、決して口に出さず、感情を出すことを忌避し、いつも周りに壁を作っていた。敵に、自分の弱さを見せたくないから。──私に物心がついてから、余裕といったものは存在しなかったのだ。


 そんな私にとって、あの街は、前提を否定してくれるものだった。この街に、救われた。この街が、恋人のようにも思えた。

 当然、この街に住みたいと思った。それも、強く、強く。

 私はその時、ようやく父を否定できた、そんな気がした。────


 法学を選んだことに、特に深い理由はない。強いて言うなら、たまたま興味があった、それくらいだ。

 私はここに来てから、あの景色を毎日のように夢で見るようになった。そして、うまくいかなかった現実に、絶望した。

 だけど、もう大丈夫だ。そんな気がする。だって、ここは、あの場所に匹敵するところなのだから。

 私は、この過去を直接に語るつもりはない。あそこには真の体験者がいるから。私はあの場所への憧憬を、楽園の記録に、こっそり入れ込む。それは私の文学者としての矜持だ。──作品も作っていないのに、そんなことを言うのは僭越だが。


──そういえば、今日、洗濯をしなかったな。

 くだらないことを思い出し、私は眠りにつく。


□ □ □


 目が、覚める。窓から日差しが突き刺さる。わずかに、鳥のさえずりが耳に入る。

 時計を、見てみる。時刻は、八時前後。私は部屋の扉を開け、階段をゆっくり降りていく。


 リビングにつくと、誰もいない。ただ、テーブルには朝食が一人分、置かれている。何故かは分からないが、このとき、高瀬がもう帰ったのだと確信した。

 私はすぐにやることを決める。そして、急いで朝食を摂り出す。食べないと失礼だから。

 朝のこべりつくような脳の感覚を滅却させて、急ぐ。私は驚異的な速さで食べ終え、玄関へと足早に向かい、靴を履いて、家を飛び出した。


 私は駆ける。視界では、朝の穏やかな自然が慌ただしく流れている。どうしても、あいつに会わなければならない。その思いだけを胸に、全速力で駆け抜ける。

 そこには美しい感情だけではない。あいつを、英雄にしたくない。そんなネガティブな感情が私を突き動かす。

 私の問題を解決させて、何も言わずに突然去る。何カッコつけているんだ。『風と共に去りぬ』じゃないんだから。私を救うのは、美しさだけでいい。私の文学者成分が言っている。

 感情が私をひたすら前に押しやるが、胸、肺、足は悲鳴を上げている。おそらく、このままでは持たない。しかし、私に慣れた、一つの触感が迫ってくる。頭を、白で埋め尽くすようなあの感覚が。

──どうぞ、ご勝手に。

 私はこのときだけ、それを自然に受け入れられる気がした。

 


 コンクリート造の、いかにも田舎のといった、粗末な駅舎。気がつくと、目の前にそんな建物が現れた。足に激痛が走る。心臓も肺も穴が空きそうなほど、激しく脈打っている。

 全身が熱くなりながらも、私はホームへと向かう。水田からの涼しい風は、私を癒してくれている。

 ホームへ入ると、私はすぐに、左腕以外が日焼けしている男を見つけた。──高瀬だ。

 あちらも、こちらを見つけたようで、目を見開いている。そして、二人とも歩み寄っていく。

「なんで急にいなくなるんですか!」

 私は近づくやいなや、大声で誤解を招きかねない発言をする。周りの目が若干白い。

 しまった、女々しすぎた。これじゃまるで、私と高瀬が恋人同士みたいじゃないか。おぞましい。

「いや、なんというか、その……」

 あいつはあいつで、おずおずとしている。馬鹿なのか?

「──昨日の話を聞いて、もう大丈夫だと思ったからだ」

 ここで、自分の子供くらいの年齢のやつに、怒鳴られる異常性に気づいたのか、あいつは堂々と言う。

「カッコつけないでください」

「ああ、それはすまない」

 私はかなり食ってかかっているが、肺が限界なので、黙り込む。

「……そもそもな、俺はお前の父親に頼まれて、来たわけじゃないんだ」

 そんなのは今更言われなくても知っている。

「俺がたまたま故郷に帰ったとき、風の噂でそんなことを聞いて、それで、多分あそこじゃないかって思って、お前の所に来たんだ」

「で、何が言いたいかって言うと、要するに、もうあそこにいる意味はないんだ」

「だって、お前はきっかけさえ与えれば一人でできるから」

 私は、その言葉に不本意ながら、心を動かされた。

 私は、誰にも理解されなかった。己を語る気もなかった。だけど、こいつは理解していなのに、理解していないとできないような行動をする。意識せずに、私のような人間に、合う行動をしている。

 なんとなく、あいつが父の親友だったのが納得できた。


 警笛の音が聞こえてくる。規則的な轟音が響き渡る。

「じゃあ、そろそろお別れだ」

 高瀬は乗り口の方向へと体を向ける。私は少し休めた肺に力を入れ、「待ってください」と制止する。

「最後に、この三日間、ありがとうございました」

 私は深く頭を下げる。──ありがとう、ただそれだけでいい。それ以上の言葉は、野暮だから。

「そうか、どういたしまして」

 あいつの喜び混じりの声が耳に入る。その間に、電車はホームの前で止まる。

「じゃあな」

 ただ一言だけ置いて、あいつは電車の中へと向かう。私は、笑顔になって手を振る。


 私は電車が見えなくなるまで、せめてもの見送りをし続けた。


□ □ □


 満天の星空に、冷たい風が肌をさす。この高原の肌寒い夜、私は外に出て、夜の楽園を言葉に変えようとしていた。

 あれから、私の生活は決して順調というわけではない。料理中に怪我だってするし、無意識状態に、悩まされ続けている。いつ死ぬかは、全くわからない。

 でも、なんとなく、行きたいと思うかぎり──記録し続けようと思うかぎり、死ぬことはない。そんな予感がする。

 今はここにこれたことに、幸福を抱いている。世界は鮮やかになって、自然に、泣いて、笑って、心を開くようになった。記録することで、叫びたい己を語れるようになった。

私の中にあったからが、弾けた、そんな気がする。

 初めて、父の行動を正しいと思った。もしかしたら、父のわずかに残った人間成分が、私をここに行かせたのかもしれない。

 私は草むらを敷いて、寝っ転がる。これで心地よく空を眺められる。

 無数の星々と、それを引き立てる、美しい闇。誰の心でも浄化してくれそうな、そんな力を持っている。

 そういえば、星にも寿命があるんだっけ。確か、寿命を迎えた星は、小さく、暗く、そして白色になる。

名称は──白色矮星

 助長して膨らみ、赤く巨大になった星の、最終段階。もはや誰の目にもつかない、そんな忘れられた存在。なんとなく、今の私に似ている気がした。

 己の才能を信じて成長していった者の、なれの果て。やっぱり私は、白色矮星なんだ。ものすごく腑に落ちる。

 そういえば、どっかの学者によると、白色矮星は、小さくても質量はほかの星と同じくらいらしい。

 だから、周りの星に影響を及ぼすんだとか。

 そうか、それでいいんだ。小さく、暗くなっても、人目につかなくても、私は自身の持つ重みで、誰かを突き動かす。それができれば十分だ。

 才能を失った私でも、誰かを動かすことができる。そのはずだ。白色矮星には白色矮星なりの戦い方がある。


 ふと、くしゃみが出る。寒い中にさらされ続けたせいだ。私はそっと起き上がり、夜空を背にして家へと歩みだす。創作はできなかったが、目標を見つけた。


 星空の裏には、今日も隠遁者たちが住んでいる。

                                   (完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る