第13話

新婚生活


 私の新婚生活は二人きりの穏やかな時間ばかりです。お手伝いの方は近所に住む方で、千代さんとおっしゃいます。彼女は旦那様を不幸にも亡くされて、家事を通いでしてくださいます。


「お二人ともいつも仲良くて羨ましい」と言ってくださいます。


 家に帰ると、綺麗に掃除をされていて、おかずも少し作られております。私は味噌汁くらいを用意すればいいだけなので、千代さんには本当に助けてくださいました。千代さんが干してくださった洗濯物を取り込んで、私は畳むだけでいいのですから、本当にありがたいことです。朝ご飯だけ自分で用意するのですが、それをおにぎりにして、正様に持って行ってもらうのです。おにぎりを握っている時、なんというか、幸せな気持ちになります。ですが朝は忙しいので私も慌てて準備をして学校へ参ります。

 千代さんは土曜日も来て下しまして、私が昼過ぎに学校から戻るとお掃除をしてくださっておりました。


「もう土曜日は適当で大丈夫ですよ」と私が言いますと、「お仕事を取り上げないでくださいまし」と言われます。


「私…、独り身ですから、しっかり働かないと」


「それは…すみませんでした」


「いいんですよ。私は…こうしているのが気が楽なものですから」


「…そうなんですか?」


「夫はねぇ…。ほとんど家に帰らず、お酒を飲んで川に落っこちたんです」と千代さんは言います。


「それは」


「いい生き方、いい死に方ですよねぇ。自分の好きなことばっかりして、自分勝手に死んで」とさっぱりした口調で言われました。


「でも…お寂しくはないですか?」


「いいえ。あの人に教えてもらったんですよ。人生はいつ終わるか分からない。好きに生きようって。そこは尊敬できますけどね」と明るく笑いました。


 私は千代さんの前向きな笑顔を見て、何だか胸を突かれました。


「それにそんなに好きな人でもなかったですからね。あの人と結婚させられたって、ずっと思ってましたから。だからそれも私のために早く逝ってくれたのかな? 最後の親切だったのかなって思いましたけどね」


 驚きで口が開いてしまいました。


「お嬢さん…、あ、奥様のような恋愛結婚ではないですから。本当に…今は清々しく生きております。ですから、お二人を見ていると、こんな関係もあるのかと驚いておりますよ」と千代さんがわざと目を丸くした。


 二人とも驚いてる顔を互いに見て笑い出します。そうして笑っていると、午前診で終わりの正様も帰ってらっしゃいました。私は慌てて玄関まで走ります。


「奥様」と千代さんが叫んだ瞬間に私はすっ転びました。


 千代さんが床をピカピカに磨き上げ、滑るので注意するようにと思ったらしいですが、全ては遅かったようです。あっという間に私はヒキガエルのように廊下に突っ伏しました。


「すごい音が…」と正様が恐る恐る入って参られましたが、私は恥ずかしさと痛さで起き上がれません。


「大丈夫ですか?」と慌てて私を抱き起こしてくださいましたが、打撲と羞恥で顔が赤くなります。


「手拭いを濡らしてきます」と千代さんが台所へ向かいました。


「だ…大丈夫です」と小さな声で言いましたが、正様はささっと手を当てて患部の様子を見て、少し口を横にきつく結びます。


「あの…」


「血は出てないですが…内出血すると思います」


「あ…はい」


「…可愛いです」


「へ?」と思わず変な声が出ました。


「ユキさんは…本当に可愛いです」とぎゅうっと抱きしめられました。


 すっ転んだ私を可愛いと思うなんて、正様は本当に不思議な方です。でも心地がいいので、しばらく黙っておりました。足音が近づいてきますが、正様は一向に離してくださいません。


「まあ。失礼します」と言って、手桶の水と手拭いを側に置いて、千代さんが去って行きました。


「少しおでこを冷やしますか」と手際よく手拭いを絞って、おでこに当ててくださいます。


「さすがお医者様ですね」


「役に立ってよかったです。でも怪我しないように気をつけてくださいね。足は大丈夫ですか?」


「打ったところが痛いですけれど、大丈夫です」と言ったのに、着物の奥の足を診られました。


 妙に恥ずかしくなります。


「冷やした方がいいですよ」とそこにも手拭いを当てられます。


「冷たい」と思わず声を上げてしまいました。


 正様がため息をついて、夜が待ち遠しいとおっしゃるので、私はますます顔を赤くします。


「もう、自分でしますから」と言って、手拭いを自分で当てました。


「歩けますか?」


「歩けます」と言ったのに、正様が抱き抱えます。


「あの…歩けます」


「何かあっては一大事です」と言って、私を居間まで運んでくださいました。


 そして、ゆっくりと下されて、私はきちんと座り直しました。


「足が痛いなら、無理して正座しなくても」と言って、座布団を半分にして、そこに腰掛けるように言われました。


「ありがとうございます」


「いいえ。走ってこなくても…大丈夫ですよ」と正様がおっしゃいましたが、それは私が走りたくて走ったことなので、どうしようもありません。


「あの…お昼の用意をさせていただきます」と私は立ち上がりました。


「今日は僕が運びましょう」と台所へ向かいます。


 私も後からついて行きました。台所で千代さんがご飯の用意をしてくれています。旦那様は千代さんの分も一緒に運ぼうとしましたが、千代さんから拒否されてしまいました。


「お二人の間でなんて、喉がつかえてしまいます。私はここでのんびり雀を見ながら食べますので」と台所の戸を開けたまま、そう言いました。


 台所の戸からはまるで外が切り取られたような美しい緑が見えます。お隣の家がツツジで囲ってくださっているのでいい景色です。


「私もここで食べようかしら」


「では僕も」


「いやいや。もう、本当に嫌だこと」と言いながら、千代さんはスペースを空けてくださいました。


 三人で土間に足を下ろし、縁に腰掛けました。千代さん、正様、私という順番です。お昼は味噌汁と鯵の開き、大根と里芋の煮込みとご飯です。大根と里芋は夜はもっと味が染みることでしょう。


「何だか気持ちが落ち着かないですねぇ」と千代さんは言います。


「そうでもないです。僕は…千代さんにお願いがあります」


 私も千代さんも正様を見ました。


「夏頃に僕は台湾へ行きます。どうか…ユキさんを頼みます」


「まぁ…。それは分かっていますけれど…」


「当分、帰れないと思いますので」


 私は一年後には向こうに行こうと思っているので、半年くらいしか会えない時間はないと思っていました。ですから不思議な気持ちで正様の話を聞いていました。きっと正様には半年も長くお感じになるのかしら、とのぼせたことも考えたものです。


 それから時間があると、私たちは二人で縁側に並んで、仲のいい鳥のように寄り添って、私たちは庭を眺めたり、月を見たり過ごしました。片側の温もりを感じながら、まるで一つの塊になったような気持ちになることもございます。ずっとこのまま幸せな時間を過ごせて行けたら…と思いながら、私は正様の出発までの時間を気にしておりました。


「ユキさん…幸せって僕は分からなかったけれど、君のおかげで知れた気がする」


 細い目が優しく微笑みかけてくださいます。私はその言葉で、笑顔で、嬉しく幸せになりました。

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