これ以上悔いることはないと思っていた②


「まず、ステラ様の体のお怪我が、治せるもので良かったと、私は思っています。イアン様が抱えていらっしゃったとはいえ、このお部屋にまたステラ様が戻ってきてくださったこと、嬉しく思います」


 マリンは、すう、と息を吸うと、大きく吐き出した。繋いだままのステラシアの手を、控えめにキュッと握りしめる。

 

「それよりも、ステラ様が抜け出したいと思われるほどに、疲れていらっしゃった、そんなことにも気が付かなかった自分をいま猛烈に恥じています」


「……え。そんな、それは……だってわたし、言わなかったから……」


 予想もしていなかったマリンの言葉に、ステラシアは戸惑ったように彼女へと目を向けた。

 ソファの前の床に膝を付きステラシアの手を握るマリンの瞳は、いっそたじろぐほどに真剣だ。

 その姿にクシャリと顔を歪ませてステラシアは「ごめんなさい」と呟いた。優しく握られたマリンの手を、ぎゅっと握り返してうつむいてしまう。

 悔いて、悔いて、悔いて。あの日に師匠を見捨てて逃げ出したときから、もうこれ以上悔いることなどないと思っていたのだけれど。


(それでも、それでもやっぱりわたしは……)


 ――後悔ばかりだ。


「あー……友情を確かめあってるとこ悪いんだが、ステラちゃん」


「え? あ、はい!」


 開いた扉の隙間から様子を伺っていたらしいクリフォードが、顔だけ室内に突っ込んでステラシアを呼んだ。逞しい腕を捲くった袖から覗かせながら、後ろ頭を掻いている。「友情なんて恐れ多い! 主従の絆です!」と足元で吠えたマリンはサラッと無視された。先ほどの意趣返しだろうか。

 

「アルト……あ、いや、殿下が呼んでるから、部屋まで来てくれねぇか?」


「ぅ…………はい」


 優しそうに細められているけれど、射抜くような赤茶の瞳に首をすくめて、ステラシアはノロノロとソファから立ち上がる。

 自業自得とはいえ、この宮の主であるアルトラシオンの許可もなく抜け出したのだ。さぞかし怒り心頭なことだろう。

 元から開いていたドアから廊下に出れば、背後にピッタリと、マリンとイアンが付き従う。先導するクリフォードの背中を追いかけながら、ステラシアはほんの少しだけ身をちぢこまらせた。


「さっき戻ってきてようやく身支度が整ったんだよなー。頭からひっかぶっちまって」


「……被害は?」


「んー? まあ、いつもの感じ」


「ということは、怪我人もいない、と。そういうことですか?」


「ああ、まあ、そうなんだけどなぁ」


 ステラシアの真後ろから、イアンとマリンが交互にクリフォードと会話をしている。その三人の台詞に、ステラシアは眉を寄せた。

 今朝、朝食前にアルトラシオンの身支度を整えていたときには、王城以外への外出予定はないと聞いていた。だから、昼はともかく夜は共に食事をしようと誘いを受けたのだ。ただの側仕えだからと断ったにも拘らず、それはもう綺麗な笑顔で迫られて。


(殿下はどこかに行っていたの……?)


 どうして? と考える間もなくクリフォードの言葉を思い出して青褪める。彼は『身支度』と言っていた。本来なら侍従の役割であるそれは、いまはステラシアの仕事になっている。


(もしやこれは職務放棄――なのでは!?)


 長い廊下を練り歩きながら、アルトラシオンの部下である三人はあーでもないこーでもないとポンポンはなしが弾んでいる。

 騎士団の所属が違うはずなのに、彼らは会話に困ることがないようだ。イアンとクリフォードは幼馴染だと聞いていたが、マリンは彼らとあまり関わることはなかったようなのに。


「あ、あの! 殿下は、外出されていたのですか? 今日はどこにも行かないと聞いていたのですが……」


 会話が途切れた頃合いを見計らって尋ねれば、クリフォードが肩越しにチラリとステラシアを見遣る。しばらく歩いてからピタリと足を止めた後、振り向いた彼は傍らの壁に斜めに寄りかかって腕を組んだ。


「ステラちゃんが城を出たのと同時刻にな、東の街道に魔獣が出たって、魔法騎士団から伝言鳥が飛んできて。まあ、騎乗で二時間ほどのところになー。イアンは外に飛び出してっちまってたから、俺と殿下で討伐に向かったんだ」


「え、と……なんだかその、申し訳ありません。でも、わたしが抜け出したときですか? 昼間だったのに……?」


「そ、真っ昼間だったのに」


 目の前の騎士の赤い髪がコクリと頷いて揺れる。

 クリフォードの言葉の端々に胸を抉られながらも、ステラシアは小さく首を傾げた。考えるように、指の背を唇に当てる。

 最近の魔獣の動向はおかしい。本来なら夜の闇の中から溢れるように湧き出る魔獣が、昼間の陽光の下でも構わずに現れる。星が堕ちて隠されなければ、そこまで活発に闇から生まれて動き回ることもないはずなのに。


(でも、わたしと師匠が襲われたのも、まだ陽が出ている頃だった……)


 そう、あのときも、これから陽が沈むだろうという時間帯だった。


「そんなわけで、アイツは頭から魔獣の体液やら……血やらを頭から浴びて、風呂に放り込まれていたってワケだ」


 続くクリフォードの言葉にステラシアはハッと顔を上げた。


「魔獣の体液を、頭、から!?」


 胃がひっくり返りそうな腐臭と、草木を溶かす瘴気を思い出して、ステラシアの顔から血の気が引いていく。

 あの獣たちの体液は猛毒だ。触れれば肉を溶かす。あっという間に骨が露出して、そしてその骨すらもすぐに溶け消え――最後には魔獣に食われ骨も残らない。

 運良く生き残ったとしても痛みと苦しみが延々と続き、瘴気に侵食される地獄のような日々が長引いて、死なせてくれと泣き喚くのだ。苦痛のために途中で生を手放してしまう者も多い。人も、動物も。


「だっ、で、殿下は、だいじょ……ぶ、無事なのですか!?」


 魔獣による瘴気を清め、侵食を止め、苦痛を軽減させられるのは星の力を持つ者だけだ。通常の光魔法はまったく効かない。瘴気を浄化した後であれば、回復魔法もわずかに効果をもたらすが、傷を塞ぐことはできない。それも、肉体の欠損箇所を再生できる者は、特大以上の星の力持ちに限られる。それこそ、極大の――。

 アルトラシオンが頭から体液を浴びたのなら、脳まで溶けていてもおかしくない。あの星を散りばめたような紫の瞳は、金の髪は、めったに笑わないけれど美しい容貌は、どうなってしまうのだろう。瘴気で苦しんでいないだろうか。痛みで絶望してはいないだろうか。ふとしたときのあの優しさは、無くなってしまわないだろうか。


(わたしに、もっと力があれば……っ)


 必死な表情でクリフォードに詰め寄るステラシアを見て、赤茶の瞳がフッと和らいだ。ポンとステラシアの頭に重みが加わった。豪快そうに見えて、髪型を崩さないようにと繊細に撫でる手付きが優しくて、泣きそうになる。

 

「だいじょーぶだよ」


「そうです! そのために私は先ほど呼ばれてたんですから!」


 後ろから、キュッと手を握られてステラシアは「ぁ……」と吐息を零した。

 そういえば、イアンに連れ戻されたとき、マリンは室内にいなかった。別の場所から急いで走ってきていたのを思い出す。


「そうですよ、ステラ様。それに我が主――殿下は極大の星の力持ちなので、そう簡単にどうにかなったりしません」


「そーそ。あの人ちょっとばかし引くくれぇ強えからな!」


「グレン」


「なんだよ、ベルフ」


 中間名を愛称も交えて呼び合いながら戯れる騎士たちを横目に、マリンが大丈夫ですよ、とステラシアに囁いた。


「殿下はご自身で瘴気を浄化していましたし、肉体の再生には私も微力ながら力を放出しました。王宮には他にも保護されている特大から極大の星の力持ちがいますので、そちらの方々にも少々力をお借りしましたし、殿下の側近にもお一人、強くはないですが星の力持ちがいますので!」


 綺麗なもんですよ! と言うマリンの笑顔に、ステラシアはホッと肩の力を抜いた。良かった、と安堵の溜め息を吐く。

 その様子を見守っていたらしいクリフォードが、寄りかかっていた壁から体を起こす。ステラシアを見つめ、ニヤリと笑うとすぐ後ろにあった扉の取っ手に手をかけた。

 いつの間にか、アルトラシオンの部屋のそばまで到着していたらしい。騎士である彼の大きな体に遮られて、ステラシアは扉に気がつけなかった。

 長い廊下で目印になる、花を生けた花瓶がクリフォードの体越しにチラリと見える。


「それではお嬢さま、どうぞお入りください。殿下がお待ちかねです。……たぁっぷり、叱られてこいよ」


「えっ!?」


 トン、と背中を押されて挨拶も何もなく室内へ入ってしまう。不穏な言葉に慌てて振り向いたときにはもう、扉はパッタリと閉まった後だった。


 ◆ ◆ ◆

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