第四話 思い出は深く、去来は遠く
雪の底、ベンチには一人だった。
肉より眠、食より眠が優先される性分の葵は、また警官に起こされて諭される。一日でいなくなるというと、彼はひどく悲しそうな表情をしていたが、葵の知るところではない。
また、夜が来た。今季一番の冷え込みに目を開いているだけで痛くなるため、背中を丸めてその時を待つ。
「八瀬さん」
仕方がなさそうに、それでいて嬉しそうな雪の声に薄目を開ける。光に目が慣れず、頭痛にうっと声を漏らすと、すかさず柔で暖かなものに包まれた。
鼻詰まりでろくに使い物にならないのが、このときばかりは功をそうした。
「だから言ったのに……」
「き、みに頼るべきじゃじゃ、ない。それ、に、私みたいな人間は長生きできないんだ」
口角は震え、今にも途切れそうな意識をつなぎ止めるのは、停滞を許さない思考そのもので、約束を守ろうとする意志だけだった。
棒切れのような腕で押し返そうとするも、掴まれて抵抗虚しく終わってしまう。
「ばかっ……ばかっ……」
「……ここへ来たんだ。悩みのひとつでも言ってみ」
「言わないっ!言うわけないっ!」
葵の背中に触れた指先からは、かすかにゆっくりとした拍動しか感じられず、緩やかな声音は不吉な未来を雪に予知させる。
風前の灯火を手で囲っているようなものだ。まったく熱が伝わらず、ピクピク動いていた両耳も停止している。
なぜここまで執着しているのだろう。
——理解されないであろうなにかに惹かれたから。
すんなりと雪の中に答えが出る。それほど単純でありながら、漠然と理解できなかった。
血の気が失せていく毎に呼吸が荒くなり、瞳孔が開いていく。葵はもうしゃべる気力もなく、安らいだ瞳で泣き顔を映す。
「いやっ!いやっ!」
どうすればいい⁉︎この忌々しい青年を助けるにはどうすれば……。
そこではっとする。病は気から。その言葉がぐるぐると頭を回り出す。
「……」
どんっ、どんっ……。
背中を叩く、あざになるかもしれないほど強く青年を気付けする。
それは学術的見地や経験に基づくものではなく、思いつきに近いものだった。
「がっごほっ」
目を見開くと、次第に早鐘を打つようになり、瞳孔反射が正常に行われる。
「葵さん!」
「……悩みは、なん……」
「あなたが死ななくて済むにはどうすればいい⁉︎」
「ごう、まんだねぇ……はあ、はあ、そんなの、私にもわかんないよ」
あの人がいなくなって、その道は断たれたんだから。
独白する葵はまどろみのなかで笑ってみせた。答えらしいものを得られないことに焦りを覚える雪は、ぐっと我慢して葵を活気づける方法を探す。
探して、思いつかなかった。
「じゃあどうすれば」
「川の水に海魚が生きられないように、私もいまの時代に生きるのは難しいんだよ、六之条さん」
肩を押し退け、胸に手を当てて落ち着かせる。深呼吸についで意識ははっきりとした。
驚くべきさまであるにしても、雪には強がりのようにしか見えない。
うつむいても、必ず視界の端に葵を見とどめて悩む素ぶりを見せる。
ねめあげる朱の瞳に絶対に死なせまいという意思を葵はひしひしと感じた。
「もたせるために体を温めてたのに、どうして眠る真似すら許してくれないかな」
「葵さん!」
青筋を立てる雪に肩を竦め、目線を合わせた。
「合わないんだ。どうしようもなく、私は適応できない。」
労力として求められているわけではない。ましてや社会からすれば、葵のようなものは足手まといでしかない。
加えてのそぐわない思想。幕末に散った武士はこんな気持ちだったのか。
葵は納得し、雪は不満を抱えていた。
「いうべきことも言わないまま、死ぬなんて許しません」
昨夜の二番煎じだと葵は自嘲した。
「社会に必要とされない私に、なにを求めるんだよ」
「そんなもの『語らい』に決まってるじゃないですか!」
散々明確にできなかった望みが、沸点を超えて口から飛び出した。
葵は身じろぎしてその言葉を噛み締める。
「……そう、君もなのか」
「どういうことです」
白い吐息にちらほら積もった雪道、目の前が遠くなって長い時間が流れたように思えた。
葵は白濁の目を伏せて————ほころんだ。
「っ⁉︎」
「……私ね、友と語らう時間がなにより楽しかった。それはもう、いつもおしゃべりして笑い転げたもんさ。だからもし、君が、私の友になってくれるなら、私は生きよう」
愚かしい行いだ。きっと正常な葵なら柄にもない嫌味を言ったことだろう。
雪は葵の価値観を大分、理解しているわけではないがここが分水嶺であることを悟る。端正な表情は苦悶に染まり、膝の上で握りしめた手は真っ白になっている。
重々しく声を落とす雪は、鋭い眼光で温和な葵を見据えた。
「その言葉、偽りでは」
「ないよ」
「この先どうするんですか」
「住み込みの職場探しかな」
あっけらかんとした葵に知られぬよう小さく息をつく。
ああ、よかった。
われ知らず安堵がもれた。
「もう会える保証はありません。それでもいいんですか?」
「君は私と語らいたい。そう言ってくれた。なら、またどこかで会えるでしょ。私は人の声を聞き分けることに定評があるから」
家を知っても、行く気はなかった。
友がいる。それだけで葵がいつかを思い描ける材料になる。
満足にうなずく葵に対し、震える声で雪は語りかけた。
「そ、それなら私の家のハウスキーパーとか」
「は?」
「やっぱり駄目ですよねそんなこと!」
ばっと手をかざして弁明するが、いっこうに返答はなかった。
——葵は現在、ある意味人生でもっとも出し難い難題に行き当たっている。
スマホもないのに住み込みの求人を探す。年末に?。当分の寝床や食事はどうする。むしろ凍死する方が早い。
前向きになればそれで悩ましい、というより絶望的な壁が存在する。
かと言って未成年の少女の家に住み込みなんて……。
葛藤する葵の様子にむくむくと自分の案に自身が出てきた雪は、流し目に口元へと手を当てる。
「友達の家ならいざ知らず、でしたっけ」
「っく!もう好きにてくれ!」
正確には違うが、勢いで言った内容に違いない。
唇をかんだ葵は諦念をにじませてさじを投げた。悔しそうな彼に、雪の口元は弧を描く。してやったり。優越感に入った雪は仕方なさそうにほおに手を添える。
「はあ、どうしてこう、頑固な人は説得に時間がかかるのでしょうね」
「……悪かったな」
「いえいえ!それだけの価値があると認めてるんですよ。でも、割いた労力とクリスマスという時期をかんがみれば」
「ああもうねちっこい!なんでも言うこと聞いてあげるから、その変に責め立てて悦にいるような声をやめてくれ!」
空腹に寒さもあって、鼻を赤くした葵は気が短い。
ぐううう、活動的になれば当然の摂理である腹の虫が鳴り、ひとまず雪の家に戻ることになり、静まり返った公園を後にするのだった。
——————————————————————————————————————
「っはっはっは」
「犬ですか」
「三日ぶりの夕食……あっ」
ジーンとくる暖かいリビング、物欲しそうに山盛りの白米を見つめる葵は、気が遠くなって椅子から横に倒れてしまう。
ここ数日で心臓が鍛えられた雪は冷静であった。
対面から即座に寄り、背中を支えて椅子に座らせる。消えない病人の香りに沈鬱な思いを振り払った。
眉を下げた葵は謝辞を述べる。
「……まったく、興奮しないでください。ご飯は逃げませんから」
「申し訳ない」
「胃が弱ってるんです。まずは味噌汁でも飲んで、次にごはんをよく噛んで飲み込んでください」
もともと葵に食べさせるものだったのだろう。家に入って葵を食卓につかせた雪は、テーブルにあったラップ付きの椀をレンジに入れて家の間取りを教えてくれた。
「……どうですか」
味噌汁とごはんを交互に口に含む葵をうかがう雪に、彼は椀と箸を置いた。
「味は……分からないんだ。だからきっとおいしいんだろうね。炊いたばかりの米は食感でも分かるから」
「そうですか……まあ気にしないでください」
雪は腕を組んで背を預けつつ、あごを引く。
考え込む銀の少女、厚手のニットという私服姿も相まって、余人には見られない表情に同級生なら鼓動を乱していただろう。しかし、眼前の葵にはぼやけて顔など明瞭に見えない。
薄明な双眸が雪の安心に拍車をかける一方で、見られないことを残念にも思う。
できれば本当の意味で顔を合わせて笑いあってみたい。楽しそうに濡れる葵の目を目にしてみたい。
そっと脳裏に描いた葵は、奇しくもほころんだ顔で雪を見つめていた。
「……ふう」
「お風呂沸かしてますから先に入ってください。浴室はさっき説明した通りです。後から着替え持っていくのでそちらは心配なく」
「これが俗に言う至れり尽くせりというやつか」
恐ろしい。肩を震わせてなにかを怖がる葵を横目に、くすりと微笑む雪は食器を集めて席を立った。
——————————————————————————————————————
ノズルシャワーの勢いに負けて転倒した折、すりガラス越しに雪の声がかかった。
「大丈夫ですか?」
「いてて、ちょっと転んだだけだよ。気にしなさんな」
取り繕うようなプライドはなく、年下に対する言いづらさも感じないので、葵は正直に答えた。『……良かった』雪の安心したような声に罪悪感を覚えるも、『パパの服ですので、あまり邪推しないでくださいね』という冷たい後半にそれは粉砕される。
何事もなかったかのように立ち上がり、ひねりに手をかけた。
——風呂から上がり、新品そうなふかふかのタオルに六之条家の経済力を見た葵は、顔を青くしてスウェットを着た。
私、六之条夫婦に殺されないだろうか。お金持ちの親は教育熱心なことが多いと聞いているため、伴って子供のそういう事情にも厳しいのではないか。
もともとハウスキーパーという単語からそうではないかと漠然と推測していたが、まさかホテルにありがちなタオルが備えてあると、ますます葵の胃は重たくなっていった。
「……いじめ問題に際して浮かび上がってくるのは、なにも環境や人格の問題だけではない……」
葵の目が痛くならない程度に明るさを落とし、テーブルでペンを綴る雪の背中に、葵は迷って口を開けた。
「上がったよ」
「あ、八瀬さん。ってもうこんな時間、ええっとそうですね。両親のベットで寝てもらうわけにはいかないので、わたしの部屋のを使ってください」
立てかけの時計を見上げてあたふたしだす雪の声を聞いていると、不思議なことに心に余裕が生まれてきた。
学校かなにかの書き物をしていたのかもしれない。没頭するあたり、熱心な様子がうかがえた。
目を細めて嬉しそうにする葵と対照的に、雪は顔を赤らめて目をそらす。
まだ湿った黒髪、火照った肌、屈強な雪の父とは体格の違いすぎる葵のために生まれた空白からは、惜しげなく鎖骨が覗いている。
チェーン付きの眼鏡を外して眉間をもむ。
八瀬さんは病人、八瀬さんは病人……。自分にそう言い聞かせて息をついた。
「君の両親はどうしたんだい」
「二人とも外交官で、世界中を飛び回ってるそうです」
自由な人たちです。文字が埋め尽くすノートに視線を落として表面を撫でる。
葵には及びのつかない家庭環境である。それはその他多数の一般人も同じ意見だろう。
声音から、会える機会を待ち遠しく思っているのは明々白々で『そうかい』としか葵には言えなかった。
「昨日運び込んだのは私の部屋ですから……場所わかります?」
足の感触や匂いの変化から場所の大方は捉えられる。
打って変わって平静な雪に、言い知れぬものがこみあげてくる。しかしそれを声に出すことは出来なかった。
昨夜の記憶がよみがえり、どうしても気になってしまう。
「……分かるけど、金木犀の香りづけをしてる部屋で合ってる?」
「はい。部屋のものは出来れば動かさないでくれると助かります」
「分かった。……金木犀か」
ノートを手に、一緒に部屋へ戻ろうとする雪は動きを止めてしまった。
既にリビングに葵の姿はなく、秒針を刻む音だけが響いていた。
——————————————————————————————————————
聴覚過敏はどんな音にも集中を乱されるので、基本的には耳栓でもしたいのですが、耳をふさぐという行為自体に本能的な危機感を刺激されるため、なかなか塩梅が難しいところがあります。
なお今作の主人公、八瀬葵も盲目のため聴覚が研ぎ澄まされて過敏になっています。雷に飛び上がったりしますねw
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます