第11話 「監督さん、ちょっと良いでしょか?」
愈々、首位攻防のクライマックスだった・・・。
七回を終わった時点で、蓑田は相手チームを零封していた。これが先週同じチームに滅多打ちされた投手とは思えないほど、彼の球には伸びが有り勢いがあった。然し、自軍の方も打線が相手投手に押さえ込まれていた。
八回の表、先頭打者がスライダーをライト前に運んで出塁した。制球力の良い相手投手を見て、名高は初球にヒット・エンド・ランのサインを出した。走者が走り、打者はセオリー通りに右方向へ打ち返した。地を這って一、二塁間を抜けたと思われたゴロを相手の二塁手が横飛びに好捕した。打者はアウトになったが走者は二塁へ進んだ。次打者は三球三振だった。流石に相手のエースは好投手だった。
ヘッドコーチが名高に歩み寄った。
「代打を送りましょう」
「誰が居るんだ?」
「山岡が居ます」
「山岡か?」
「ええ、彼に行かせてやって下さい」
名前を呼ばれてヘルメットを手にした山岡の眼が光っていた。
名高は主審に代打を告げに行った。途端にスタンドの彼方此方から山岡の名前を呼ぶ声がした。名高はバッターボックスに向かう山岡と擦れ違った時、ポンと彼の尻を叩いて打席へ送り出した。
山岡はフルカウントまで粘った。然し、最近は代打専門でベンチに居ることが多い彼は、辛うじてファウルで粘っている状態だった。
「どうした山岡、気合が足らんぞ!」
名高が大声を出した。その声に山岡が頷いた。
見送ればボール気味の球を山岡は上から叩きつけた。打球は左翼のライン際にふらふらと舞い上がった。サードとショートとレフトの三人が打球を追って走った。球はラインの白煙を上げて三人の真中に落ち、ファウルグランドに転がった。
その一点が決勝点になった。蓑田は相手を完封した。
名高は試合後のインタビューには負けた時でも潔く応じた。
「勝った時には選手に聞いてくれ。その代わり、負けた時は儂が話す。選手はそっとしておいてやってくれ」
また彼は選手の個人名を出して批判することはしない。これは選手に対する配慮であった。
「選手には家族が居る。もし儂が試合後のコメントで、名指しで批判したら、奥さんが何か言われたり、子供が学校で虐められたりする可能性が大きいからな」
どんなに辛い敗戦でも堂々と受け答えした。
「儂はマスコミを使って選手にメッセージを送ることはしない。言わなければならないことは直接本人に自分で話す」
ユニフォームを着替えて監督専用車へ向かおうとする名高監督を大野由香が呼び止めた。
彼女が追い縋るようにして言った。
「監督さん、ちょっと良いでしょか?」
「うん?何だね」
「人間が、自分でない人の為に祈る時、どんな風にしたら通じるのでしょうか?」
「何のことだ?」
「ですから、私は毎日、夫の為にお祈りをしていますが、私はこの通り元気で、夫は身体の具合が悪い訳です。お祈りのし方が悪いのかなあ、と思いまして・・・」
「君のご主人は心臓病で入院されて居るんだったね」
「はい、そうです」
「手術をするのかね?」
「成功率は五分五分だと医師から言われています」
由香が空を見上げた。秋の星座が煌めいていた。
「星を見ても、山を見ても、わたし毎日祈って居るんです、どうか夫が元気になりますように、って。でも、ちっとも通じません。私の身体の半分を、いえ、全部を、夫のと取り換えても良いですよ、って祈って居るのに・・・」
由香の頬に涙が流れていた。
名高は生まれてこの方、何かを祈ると言うことをしたことが無かった。祈ると言う行為が既に人間を弱者にしていると彼は考えていた。
「君がそんなに弱気でどうするんだ!君が病気をひっ叩いて、ご主人と二人で生還しなきゃならんのだよ」
名高は由香の傍に寄って優しく肩に手をかけた。
「涙は最後に流すもんだ。君とご主人ならきっと乗り切れる。信じるんだ、自分を!」
「はい・・・」
「儂は野球しか知らんが、野球だって、乗り切れると信じてグランドに立つ奴は笑ってベンチに帰って来るもんだ。大丈夫だ。ご主人を信じなさい。君が選んだ男じゃないか」
「そうですね、私が選んだ人ですものね」
由香は鼻をくしゅんとさせて微笑った。
二日後、試合の終わった後で名高監督が由香に、銀地に紫色の小さな袋を手渡した。「京都吉田神社」と刺繍の有るお守り袋だった。
怪訝な表情でじっと見返した由香に名高が言った。
「家の奴から、これを大野さんにあげて下さい、って言伝ったんだ」
由香は恭しく丁寧に押し頂いた。
「良い奥様ですね」
「なあぁに、あんなもんだよ」
「わたし、コーチになる時、一度ご挨拶に伺ったことが有るんです」
「儂の留守中に、か?」
「済みません、お出かけだったものですから。その時、奥様が言われました、あの人はただ野球が好きなだけで、怒ったり喚いたりするのは自分の為だけに野球をする人に対してだけだ、って。あの人は唯々野球を愛して愉しい野球をしたい人で、他に何かがある人じゃない、って。その言葉を聞いて、私は監督の下でやらせて頂こう、と思ったんです」
「・・・・・」
名高は黙って空を見上げた。
「済みません、余計な話をして」
「なあに、構わんさ」
「では、これで・・・真実に有難うございました」
「うん」
頷いて去って行く名高の後姿を由香は腰を折って見送り、それから、お守り袋を両掌の間にしっかり挟んで、星空の神に祈るように眼を閉じた。顔の前で合わされた掌が小刻みに震えた。
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