9 推理と捜査
「なぜ一年以上経ってから殺意を抱いたのか・・・。確たることはわかりませんが、今週法医学教室に行って秘書の方に結城良平が死体検案書を再交付してもらいに来なかったか確かめました。秘書は、名前は聞いていないけれど、六月二日に上野先生に来客があったことを知っていました」と私は島本刑事に言った。
「死体検案書の再交付を求めに来たのかい?」
「はい。死体検案書は死亡届に付随した書類で、死亡届を役所に提出し、亡くなった方を
「つまり、一年ぐらい経ってから遺族・・・この場合は結城良平がやって来て、死体検案書の再交付のために上野先生に面会したということか」
「おそらく。・・・結城良平は以前から息子の航平が本当に自分の子なのか疑っていたのかもしれません。顔が自分に似ていないとかの曖昧な理由で。それで最初に上野先生に会って死体検案書をもらった時に息子の血液型を聞いた可能性があります」
「親子として矛盾がない血液型だったのか確認するためにか」
「はい。そこで上野先生に親子として矛盾がないA型と聞かされた結城良平は安堵したことでしょう。そして一年後に上野先生に再会した時、なぜかわかりませんが改めて血液型を聞いたら、今度は自分の子としてはあり得ないB型だと聞かされた・・・」
「死亡の一年後に息子が自分の子でないと知ったのか」
「息子の真の父親は誰なのか。・・・かつて母親を秘書として雇っていた有田教授を疑いました」
「一色さん、それは推理の飛躍があるぞ。それだけでは有田教授が実の父親だと決めつけられない。万が一疑ったとしても、確証がなければ殺すことまではしないだろう」
「そうですね。私たちの知らない事実がほかになければ・・・」
「今日の一色さんは歯切れの悪い言い方をするね。それに結城良平が殺人犯だったとしても、・・・衛生兵の見習い時代に静脈注射の仕方を学んだことがあったとしても、殺害方法にペニシリン注射を選択した根拠がわからない。首を絞めるとか、刃物を刺すとか、確実な殺人方法はいくらでもあるはずだ。それがあんな実験めいた手段で。・・・まさか、一連の法医学の実験も結城良平がしたと言うのかい?」
「いいえ。有田教授殺害のカモフラージュだとしても、無関係の人間を十人も襲って、そのうちの五人を死に至らしめるのはやり過ぎだと思います」
「じゃあ、一連の実験めいた事件は別の人物の犯行か?」
「その可能性の方が高いでしょうね」
「一色さんは誰が犯人だと思う?今まで名前が挙がった人の中に犯人がいるとすればだけど」
「その前に、燃焼血腫の実験で亡くなった三人の身元はわかりましたか?」
「いや。届出された行方不明者に該当者は見つかっていない。焼け焦げた服の切れ端が古そうなものだったから、この三人も浮浪者ではないかと思われる」
「最初の緊縛性ショックの被験者も燃焼血腫の被験者も、いずれも睡眠薬で眠らされた浮浪者だったのですね?」
「そう。ガスクロマトグラフを使った分析法でジアゼパムという催眠鎮静薬が検出されている。そして居酒屋で酔いつぶれ、長髪サングラスの犯人に連れ出されて空気塞栓症の実験をされた二人も同じ薬を酒に入れられたようだった。空気塞栓症の症状が出なかった大学生については、居酒屋を一人で出たと店員が言っているので、睡眠薬を入れられてはないようだが」
「お酒を飲んでいたとはいえ、一錠や二錠分の睡眠薬を飲ませても前後不覚にはなりませんよね?だから、大量の睡眠薬を混ぜられた可能性が高くなりますが、一般の人には入手しにくいんじゃないでしょうか?」
「そうだな。一九五〇年代に睡眠薬自殺が急増したので、一九五〇年代末に医師が書く処方箋がなければ薬局で睡眠薬は買えなくなった。普通の人が大量の睡眠薬を準備するのは大変だろう」
「それに、実験をするためには中毒死しないよう量を加減する必要がありますしね」
「睡眠薬を大量に準備でき、しかも投与量の加減がわかる人、となると臨床医か?」
「法医学教室の先生は普通処方箋は書かないようです」
「となると、怪しいのは臨床医の藤田医師か・・・」
「最後の大学生は路上で酔いつぶれただけだったのですか?」
「そう。泥酔しているところに偶然出くわしたので、睡眠薬を使う必要はなかったのだろう」
「そうでしょうか?泥酔しているように見えても、袖をまくり上げたとたんに抵抗するかもしれません。繁華街の近くで騒がれたら他人に目撃されますよ」
「ということはどういうことだい?」と聞き返す島本刑事。
「酔っぱらって前後不覚になっていたので、飲ませることができなかったという解釈も成り立ちますが、あるいは、手持ちの睡眠薬がなくて、しかたなく路上で泥酔している人を捜して注射をしたのかも・・・」
「入手できなくなったのかな?医者なら自分で処方箋を書けばいいだろうに」
「それからペニシリンの注射剤についてですが、一般の人でも薬局で簡単に買えるのでしょうか?」
「注射は医師しかできないから、町中の薬局ではまず買えない。ペニシリン・ショックの死亡例が報告されてから病院でのペニシリンの使用は激減したそうだけど、病院や医学部には在庫が残っているだろう」
「となると、有田教授にペニシリンを注射したのが結城良平だったとして、ペニシリン剤をどこから入手したかも調べないといけませんね」
「そうだな」
「ここで一連の事件の時系列を整理してみましょう。まず、最初の被害者である浮浪者が太ももを緊縛されて具合が悪くなって倒れていたのは五月十二日火曜日の朝でした。その人はいつ睡眠薬入りのお酒を飲まされたのでしょう?」
「前日の五月十一日月曜日の夜じゃないか?はっきりしたアリバイがあるのは、藤田先生、滝井先生、金丸先生の三人の中では月曜日も翌日の火曜日も朝から夜まで仙台の大学に出勤していた滝井先生だけだ」
「でも、立花先生は緊縛を解いた後数時間は異常がなく、その後徐々に症状が生じて二日以内に死亡することがあると言っていました。となると、緊縛されたのは五月九日土曜日の夜で、翌日に緊縛を解かれた可能性があります」
「そうか。特急『ひばり』にでも乗れば四時間で仙台まで帰ることができる。金がかかるが不可能とは言えなくなるな」
「仙台までの乗車賃はいくらですか?」
「片道で特急料金が六百円、運賃が千三百円だから合計千九百円だ」
「けっこうかかりますね」
「何度も往復するとしたら大学の助手には負担だろう」
「焼死体が発見された日時はいつですか?」
「千葉で火災が発生したのが五月十六日土曜日の深夜、横浜が翌十七日日曜日の夜だ。そして東京で火災が発生したのは五月二十四日日曜日の午後十時頃だ」
「いずれも土曜か日曜の夜ですね。遅くなると特急『ひばり』には乗れないかもしれません。仙台行きの寝台列車はありますか?」
「ああ、上野を夜十一時半に出発する夜行急行『新星』がある。B寝台の上段か中段なら急行券込みで千四百円、運賃を足すと合計二千七百円だ。けっこうかかるが、朝までに仙台に帰ることができるな。もっとも東京に住んでいる藤田先生と金丸先生にも犯行は可能だが。この二人には休日や夜に確かなアリバイはない」
「そして空気塞栓症を起こしたひとり目、私が倒れている人を発見したのは五月三十日の土曜日です。埼玉の河川敷で死亡していた二人目は六月一日月曜日の朝に発見されていますから、空気を注射されたのは日曜の夜でしょう」
「・・・ここまでの犯行は藤田、滝井、金丸の三人とも可能だな」
「お酒に睡眠薬のジアゼパムを混ぜたとすると、錠剤や錠剤を砕いて粉状にしたものならすぐには溶けず、ばれてしまう危険が大きいですよね?」
「そうだな。・・・ジアゼパムには注射液も売られているらしいから、それを混ぜたのかな?混ぜることで多少味が変わっても、酔っぱらっていれば気がつかんだろう」
「そうですね」
「注射液を入手しやすいのは、やはり臨床医の藤田先生だろうな」
「でも、薬剤師の滝井先生なら、臨床医以上に投与量の目安をつけやすいということもあるでしょう」
「しかし、有田教授がペニシリンを注射されて亡くなったのは六月三日水曜日の夜。また、二十一歳の大学生と五十七歳の会社員が泥酔している間に何かを注射されたのは六月二日火曜日の夜だ。この三件は仙台に住んでいて平日は朝から夜まで大学に出勤していた滝井先生にはまず不可能だ」
「そうですね。でも、さっきも言ったように、六月二日に上野先生に結城良平らしき来客がありました」
「一色さんが言いたいのは、上野先生から息子の正しい血液型を聞いた結城良平がペニシリンをどこからか入手し、翌日の夜に有田教授に注射して殺害しようとしたということかい?」
「その可能性があります。・・・六月二日の夜に注射された大学生と会社員は、結城良平のペニシリン注射の予行練習なのかもしれません」
「筋は通っているように聞こえるが、どう証拠を得るかだな」と島本刑事が頭をひねった。
「藤田先生が在籍する総合病院、東京都立医大法医学教室、仙台薬科大学中毒学教室、そして明応大学医学部法医学教室で、最近睡眠薬やペニシリンがなくなっていないか、こっそり調べてみることはできないでしょうか?」
「本人たちには内緒で、病院の薬剤部や大学教授らに頼んでみるか。指紋を後で調べられるように、なるべく素手では触らないようにとの注意を添えておこう」
「お願いします」
「・・・明応大の法医学教室も調べろということは、上野先生が関与している可能性を疑っているのかい?」
「そうです。結城良平がペニシリンを射った犯人であると仮定すると、息子の血液型を知ってから有田教授の死まで一日しか経っていません。他に入手ルートがあるのかもしれませんが、上野先生が結城良平に教室にあったペニシリンを渡したのならその日のうちに使用できます」
「上野先生が結城良平にペニシリン注射で有田教授を殺害しろと指示をしたのかい?つまり、殺人教唆を疑っていると?」
「島本刑事はペニシリン注射という不確実な殺人方法に疑問を抱かれていました。そのことをずっと考えていたのですが、息子の血液型から自分の息子でないと結城良平が気づいても、その息子が有田教授の子なのか断定することはできません。解剖時に採取した息子の血液がまだ残っていて、さらに有田教授の血液が手に入れば、血液型による親子鑑定がある程度可能かもしれませんが、有田教授に血液を提供しろと言うことは誰にもできないでしょう」
「難しいだろうな。死んだ息子が有田教授の子かもしれないから血液型を調べさせてくれと直球で有田教授に頼んでも、断られたらそれまでだ」
「結城良平も、息子の実の父親に復讐したい気があったとしても、・・・そして有田教授が怪しいと疑っていたとしても、親子であることが確認できなければ、殺人には躊躇すると思います」
「そうだな。それなら、どうしようと思ったんだ?」
「天の配剤に委ねようと考えたのではないでしょうか?」
「天の配剤?・・・どういう意味だい?」
「ペニシリンを有田教授に注射する。有田教授がショック死すれば有罪、つまり死んだ息子の実の父親であり、無症状か、軽いアレルギー症状程度しか出なければ無実と判断するのです」
「・・・そんなんで息子の真の父親が誰だかわからんだろう?」
「冷静に考えればそうなのですが、切羽詰まればそういう考えになるのかもしれません」
「仮にそうだとして、結城良平は上野先生にペニシリンを提供するよう頼んだのかい?いくらなんでも上野先生がそんな無茶な願いに応えるとは思えないが」
「いえ、結城良平の興奮が激しすぎて、このままでは結城良平がほんとうに有田教授を殺害しかねないと危惧したとすれば、結城良平を落ち着かせるために、上野先生自身が妥協案としてペニシリン注射での
「なるほど。上野先生は結城良平の怒りを抑えるためにそんな提案をしたのか・・・」
「そしてもうひとつ、上野先生が結城良平に有田教授を襲うよう提案した動機があるのかもしれません」
「あわよくば自分が昇進できるかもって動機は否定的だったんじゃないか?」
「それは、結城良平の怒りを自分からそらすためだったのかもしれません」
「は?」島本刑事が驚いた顔をした。
「結城良平の妻、結城聡子が法医学教室に務めていた時、上野先生も在籍していました。結城良平が妻と有田教授の関係を疑っただけでなく、ひょっとしたら上野先生とも関係があったんじゃないかと疑われかねませんから」
「え?上野先生とも関係があったと言いたいのかい?」
「いえ、それはわかりませんけど・・・」
「・・・とにかく、明応大の法医学教室の睡眠薬やペニシリンの在庫は立花先生に確認してもらおう。くれぐれも上野先生には内緒でと言ってね」
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