11 終幕
私の首が白神が引くネクタイで絞められ、呼吸ができなくなった。私は必死に抗おうとしたが、白神をはね除けることはできなかった。
徐々に呼吸苦が生じてくる。逃げ出したい、息がしたい。そんな願いも空しく、堪え難い苦痛はさらに増していった。
私は吸えない空気を吸おうと口を開いた。苦しみで舌が口から飛び出して来る。やがて目の前が真っ赤になってきた。
両親や兄や立花先生、島本刑事たちや大学、高校の友人たちの顔が脳裏に浮かぶ。ここで死んでしまったら、みんなに何と言って謝ればいいのか・・・。
私は苦痛の中で意識を失いかけてきた。・・・もう死んでもいい。早く楽になりたい。
「何をしとるか!」その時誰かの怒声が聞こえ、白神の体が後方に持ち上がった。
白神は私の首に巻かれたネクタイを両手で握っていたため、つられて私の体も持ち上げられたが、すぐに白神が手を離したので、私は再び床の上に倒れ込んだ。
「一色さん!」「千代子、大丈夫か!?」
立花先生と兄の声が聴こえ、玄関に飛び込んできた二人の手によって私の首に巻かれたネクタイが取り外された。
咳き込みながらもぜいぜいと息を吸い込む。しかしまだ目の前は赤く、その赤いフィルター越しに心配そうに私を見つめる立花先生と兄の顔があった。
はあはあと荒く息をしながら私は何とかうなずいた。まだ声は出せなかった。
立花先生に上体を抱き起こされると、玄関の入口の前で白神を押さえつけている島本刑事の姿が目に入った。
「
私は立花先生と兄に支えられて奥の部屋に入り、急遽敷かれた布団の上に寝かされた。
白神は島本刑事に同行していた警察官二人に連行され、島本刑事が私の様子を伺いに来た。
「大丈夫かい、一色さん?」心配そうな島本刑事。
私は微笑みながらうなずいた。「どうしてここへ?」
「救急車も呼んだから、念のため病院で診てもらってくれ。白神を署に留置したらすぐに見舞いに行くよ」そう言って島本刑事は下宿を出て行った。
その後救急搬送された病院で首や脳やその他の検査をしてもらったが、何も異常がないとのことで、検査で一日入院しただけで私は下宿に帰ることができた。ただ、あの日から何日か、目の充血が取れなかったけど。
その後、改めて見舞いに来た島本刑事や立花先生や兄から当日の状況を聞いた。
私の助言を元に寄せ場近くの安宿を調べた結果、私が襲われたのと同じ日に白神らしき男が寝泊まりしている宿を見つけたそうだ。
島本刑事が宿の管理人に詳しく話を聞くと、白神は毎日朝早く出かけては、夜遅く帰っていた。普段は薄汚れた格好をしていたが、必ずショルダーバッグを持って出かけていたそうだ。
ある日、宿に帰って来た白神がそのバッグを誤って床に落としてしまったことがあった。ごとんと何か硬い物が入っているような音がしたそうだ。白神はあわててバッグの中を確認していたが、その時安宿の管理人は、バッグの中に高価そうな双眼鏡が入っているのに気づいた。
「おそらく、一色さんたちに気づかれないよう遠くから一色さんの行動を監視していたのだろう。一色さんの家や行動パターンを知るために」
「白神はやはり行き当たりばったりの犯行を犯すのではなく、綿密に計画を練ってから行動に移すタイプだったんですね?」
「そうだろうね。おそらくドアのノックの仕方も白神には気づかれていたのだろう」
「しかし私が襲われたその瞬間にみなさんが来て助かりました。私は運が良かったんですね?」
「実は宿の管理人から、その日の朝、白神がこぎれいなスーツ姿にネクタイをして出かけたと聞いたんだ。いつもは小汚い格好だったのに。そこで今日が凶行の日なんじゃないかと気がつき、警察官を連れ、立花先生にも連絡して、一色さんの家に急いだんだ」と島本刑事が言った。
「俺はちょっと買い物に出かけた時に偶然立花先生と刑事さんたちに出会って、事情を聞いて一緒に戻って来たんだ」と兄が言った。
「すまん、千代子。俺が出かけていなければ千代子は襲われなかったろうに」
「兄ちゃんが出かけたかどうか、白神は監視してたと思うから、兄ちゃんが出かけなければ私は別の日に襲われたわ。そうなっていたら島本刑事が助けに来れたかわからないから、やっぱり私は運が良かったんだわ」と私は言った。
「それでも君を危険な目に遭わせてしまったのは自分の責任だ」と頭を下げる島本刑事。
「その点は僕も同罪だよ」と立花先生もうなだれた。
「いや、自分が一色さんに頼り過ぎたのがいけなかったんだ。君のご両親にも謝らないと・・・」
「ところで兄ちゃんは何の買い物に出かけていたの、あの時」
「お前、あの日、プレゼント用のネクタイを買っていただろう?立花先生にあげるものだと思ったが、俺も婚約祝い代わりに何か買って来ようと思って出かけたんだ。休みはその日しかなかったからな」
「ありがとう、兄ちゃん。兄ちゃん用にもネクタイを買って帰ったよ。クリスマスパーティーを開ける状況じゃないから、今二人に渡すね」と私は言って、しまってあったネクタイの包みを取り出した。
ネクタイを買って帰った日にネクタイで首を絞められる。・・・皮肉な話だけど、幸いなことに私はネクタイ恐怖症にはならなかった。
「ありがとう、一色さん」「サンキュー」私からネクタイを受け取ってお礼を言う二人。
「申し訳ないですけど、島本刑事の分はまだ買ってなくて・・・」
「そ、そんな気を遣う必要はないよ。ただでさえ迷惑をかけたんだから」と島本刑事があわてて言った。
私が襲われたことを知って両親もすぐに駆けつけてくれた。その場に島本刑事と立花先生も同席し、土下座でもしそうなほどに平身低頭で両親に謝っていた。
「けがも後遺症もなさそうなんで良かったですけど、もともとはこの子が推理小説好きなのが悪いんですよ」と母は言って、島本刑事や立花先生を責めなかった。
「ただ、立花先生と一緒になると、今後もこのような目に遭わないかが心配だ」と父。
「いえ、私たち法医学者は、警察官のように現場で捜査したり、まして犯人と対峙することはありません。・・・今回はたまたま犯人が元同業者であったために、千代子さんにまで危害が及びましたが、こういうことは普段は起こりませんし、今後は私が千代子さんを必ず守ります」と立花先生が言ってくれた。
「千代子のことをこれからもよろしくお願いします」と立花先生と島本刑事に頭を下げる両親。
立花先生たちは逆に恐縮して、頭を下げまくっていた。その様子を見て笑いそうになる私。
「笑ってる場合じゃないぞ」と兄に釘を刺される。
「でも、私は今後も立花先生や島本刑事のお手伝いを、できる範囲で続けます」と私はみんなに宣言した。あきれ顔で見返される。
「だって法医学教室や警察のお手伝いを続けていれば、きっとあんな犯罪は減っていくはず。だからこれからもよろしくお願いします」と私は島本刑事たちに頭を下げた。
「ほんとにもうこの子は・・・」とあきれる母親。「立花先生、どうかこの子を見捨てないでね」
「はい。もちろんです」と立花先生が力強く答え、私は顔が熱くなった。
その日私は両親と一緒に実家に帰ることにした。もう私を襲ってくる人はいないと思うけど、それでも両親が心配していたからだ。
「千代子、立花先生のご両親からお電話があってね、正月の二日に先方へみんなであいさつに行くことになっているからね」と下宿を出る前に母に言われてびっくりした。
「そんなこと、私も立花先生も聞いてないわよ」
「あんたが襲われた日の前日くらいだったからね、連絡を受ける間がなかったんじゃないかねえ」
「その時は一色さんにもらったネクタイを締めて行くよ」と立花先生。
「俺も、俺も」と兄。すぐに使ってもらえて嬉しいことこの上ない。
見送りにきてくれた立花先生と島本刑事と兄とは駅で別れた。そのまま電車に乗って生まれ育った町に帰った。
そして実家で正月までのんびり過ごした・・・わけではなく、毎日夜遅くまで実家の中華料理屋を手伝った。
正月の三が日はさすがに店を閉め、大晦日の深夜に戻って来た兄を加えて家族水入らずの時を過ごした。
そして二日には全員が盛装し(と言っても父と兄は普通のスーツ姿、母と私はよそ行きの服)、立花先生の実家に向かった。
先方に着いたのはお昼頃で、立花先生のご両親と、新婚の兄夫婦と、兄嫁である節子さんのご両親に歓迎され、楽しい一日を過ごした。
正月休みは短い。私と兄はまた下宿に戻り、大学が始まるとミステリ研の部員たちに心配されながらも一連の事件のあらましを詳しく説明させられるはめになった。人のことは言えないが、みんなミステリ好きだからしょうがない。
立花先生もミステリ研の部室に呼ばれて、法医学的な補足説明をさせられていた。ミステリ研の兵頭部長の従兄だから仕事中に無理矢理呼ばれたようだ。
それぞれの事件について説明しているうちに、私が襲われたことに
「一色さんには悪いけど、殺されかけた人の感想なんてなかなか聞けないからね」と申し訳なさそうに言う美波副部長。
「そうだね。一色さんが死ななくて本当に良かったよ」と神田君。私が死ななかったことが良かったのか、私から感想を聞けることが良かったのか、どっちの意味なんだろう?
「私が白神の最後の実験台になりかけましたが、その実験・・・襟の上から絞殺されたら私の首にははっきりした絞め痕は残らなかったのでしょうか?」と、私は疑問だったことを立花先生に確かめた。
「君も懲りないね」とあきれられながらも、立花先生は説明してくれた。
「首回りの襟を全部立てて、その上からネクタイのような索状物で首を絞められたら、確かに明瞭な絞め痕、索溝は首に生じにくいだろうね。一色さんを助けた時にもそんな痕跡はなかったと思う」立花先生の言葉を聞いて一斉に私の首に注目する部員たち。
「でも、絞められた位置より上の皮膚はうっ血して赤くなっていた。だから我々専門家が見たら、首を絞められたことは丸わかりだね」
「白神の実験は失敗だったということですね」と検事志望の田辺先輩が言った。
「殺人を偽装しようとしても専門家の目はごまかせない。・・・勉強になります」
「白神はどんな刑を受けそうかな?」と山城先輩が田辺先輩に聞いた。
「興味本位で何人かを殺し、死体損壊もした上に、一色さんを殺そうとまでしたからね、死刑になる確率が高いでしょうね」
「当然の報いよね」と仲野さんが言った。「実験がしたいのなら、他人に迷惑をかけないようにするべきよ」
「まだ先の話だけど、今年の明応祭に出す機関誌にこの事件の記事を書いてくれないかな?」と兵頭部長が私に聞いた。
「
「なら私は裁判を傍聴して、その手記を載せようかな?」と田辺先輩。
「私は一色さんの紹介記事にしようかな」と悪のりする仲野さん。
「いやいやそれは・・・」と固辞するが、私の話題で盛り上がる能天気な部員たちだった。
島本刑事は別の日にいつもの小料理屋に私たちを招いて、改めて謝罪してきた。
「一色さんには甘えてばっかりで、ほんっとうに迷惑をかけた」深々と頭を下げる島本刑事。
「そんな、気にしないでください」
「妻と娘からも怒られたよ。あんまり一色さんを利用するなってね」
「そんなお気遣いをなさらず、これからもどんどん私を利用してください」
「事件に直接関わらせなければ問題ないんじゃないかな」と立花先生が口添えしてくれる。
「ところで、白神はどんな様子で取調べを受けてますか?」
「素直に犯行を認めて自供しているよ。それも自慢げにね。・・・この様子なら弁護士が頑張っても、裁判が始まって判決が出るまで時間がかからないだろうね」
「そうですか・・・」
「とにかく一色さんには迷惑をかけたから、今後は捜査の協力を依頼することはしない・・・」
「え?」私は思わず残念そうな声を出してしまった。
「・・・けど、時々話し相手になってくれるかな?話を聞いてくれるだけでいいんだ」
「も、もちろんです!」今度は逆に嬉しそうな声が出てしまった。私の気持ちはばればれだ。
「それでさっそくなんだが、ある建設中のビルでね、転落事故があってね・・・」と話し出す島本刑事。
その話を熱心に聞く私を見て、立花先生は微笑みながら肩をすくめていた。
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