5 和製切り裂きジャックの謎

四つ目の相談事を一応終えた時に、島本刑事の奥さんが切った西瓜を持って来てくれた。冷たくてとても甘かった。


「さっきの話の続きですが、他殺を自殺に偽装するのは犯人が罪から逃れるためでしょうけど、死んだ人にとってはどうなんでしょう?」と私は聞いた。


「どういう意味だい?」と聞き返す立花先生。


「具体的には生命保険です。死んだ男性が生命保険に加入していた場合、自殺と判断されると保険金を支払ってもらえるんでしょうか?」


「商法の保険に関する条文には、自殺の場合は保険金を支払わなくてもよいと書かれている」と立花先生が言った。(註、昭和四十四年当時の話。現在は保険法として独立し、同様の条文が設けられている)


「ただし実際は各保険会社で免責期間を決めていて、契約から一年以上経てば自殺でも支払われるみたいだよ」(註、昭和四十四年当時の話)


「生命保険に加入した後で自殺する人の統計を取ると、契約から十三か月目に自殺する人が多いそうだよ。保険会社は頭を悩ませていることだろうね」


そう言って島本刑事は私たちが食べた西瓜の皿を集めると、奥さんに渡しに行った。


「すみません、ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」手伝いをする間もなく島本刑事が片づけてしまったので、私はお礼を言った。


「気にしないで、一色さん。まだまだ相談に乗ってもらうつもりだから」


「今度はどこの事件なんだい?」と立花先生が聞いた。


「次は八月に起こった事件で、鳥取県警からの相談なんだ」


「鳥取県?島根県の隣ですね?松江の事件も八月だったし、松江の近くなのでしょうか?」


「米子市という、島根県との県境に近い都市だそうだ。松江市からは三十キロぐらいしか離れていないから、国鉄や車ですぐに移動できる距離だ」と島本刑事。


「それでどのような事件ですか?」


「住宅街の一軒で、その家にひとりで住んでいる女性の凄惨な遺体が発見されたんだ」


「凄惨・・・?」その言葉だけで卒倒しそうだ。


「三十代の女性で、遺体は道路沿いの六畳間で発見された。あお向けで布団の上に横たえられていたんだが、首から下腹部まで切開され、肋骨、心臓、喉頭以下の気管と肺、肝臓、脾臓が切り取られ、遺体の傍らに置いてあった」


「まるで解剖しているみたいじゃないか!?」と吐き捨てるように言う立花先生。


「司法解剖を行った解剖医もそう言っていたよ。しかし胃や腸、膵臓、子宮などは腹部に残ったままで、頭も無傷だった。そして死因は首吊りだった」


「え?何を言ってるんだい?わけがわからないよ!」と驚く立花先生。


「首を吊って死んでいた遺体をわざわざ布団の上に降ろして解剖を途中までしていたというのかい?」


「そういう結論らしい。首の皮膚に斜め方向の絞め痕があったこと、胸やお腹の内部と布団上は血だらけだったけど、生前の出血であることを示す軟凝血、つまり軟らかく凝固した血は認められなかった。そこで死後遺体を傷つけられたと結論づけられた。・・・部屋の隅に首を吊るのに使ったロープが落ちていたそうだ」


「それで・・・自殺なのかい?」


「遺書も見つかった。男にだまされて有り金を全部取られたとかで、人生に絶望して自殺するというようなことが書いてあったよ」


「自殺への偽装・・・は考えられないですね。あるいは自殺を他殺に偽装しようとしたのかも」と私は聞いてみた。


「他殺死体を自殺に偽装したいのなら、遺体を切り刻んだりはしないだろう。生命保険には加入していなかったから、他殺に偽装する意味もないとのことだった」


「中途半端に解剖したような遺体だけど、メスなどの解剖用具を使っていたのかな?」


「切断部分は粗く、しかも大雑把だったから、メスではなく小型の包丁を使ったのではないかと考えられた。そして被害者の家を捜索したところ、台所に置いてある果物ナイフから血痕が検出されたそうだ」


「何の準備もせずに女性の家に上がり込み、思いつきで解剖を始めたみたいですね」と私は口をはさんだ。うなずく立花先生。


「最終的には自殺と判断されたけど、遺体が切り刻まれているから、死体損壊事件として犯人の捜査は続いている。・・・あまりにも異様な現場だったので、刑事たちは犯人のことを『和製切り裂きジャック』と呼んでいるそうだ」


「切り裂きジャックって、あの有名な連続殺人犯ですか?」


「そう。事前に島本刑事から頼まれて、切り裂きジャックの事件を調べておいた」と立花先生が言って、持って来ていた鞄の中から一冊のノートを取り出した。


切り裂きジャックジャック・ザ・リッパーは、一八八八年の八月から十一月にかけてイギリスのロンドンで五人の女性を殺害したと言われている。


 一人目の被害者は四十代の女性で、右頬に打撲痕、首の左右に刺切創・・・刺して切り開いたような傷だね。・・・があり、傷の内部では頸静脈が切断されて頸椎にまで傷が達している。腹部には上下ないし左右方向の刺切創が数条ずつあり、下腹部に深い刺切創があった。発見の三十分前まで現場には異常がなかったそうだ。


 二人目の被害者も四十代の女性で、中年男性と立ち話をしていた数分後に叫び声が聞こえ、約十五分後に遺体が発見された。首は左から右へ大きく切開され、傷は頸椎に達していた。腹部が大きく切り開かれ、小腸が切断されて肩の上に放置され、子宮が切り取られてなくなっていた。この遺体を調べた解剖医は、自分でも十五分でここまで解剖するのは難しいと言っていた。


 三人目も四十代の女性で、男性と立ち話をしているのを目撃された二十分後に遺体が発見された。首の左側が切られ、動静脈が切断されていた。この遺体にはそれ以外にはあまり傷がなかったようだ。


 四人目も四十代の女性で、三人目の女性の遺体が発見された時から三十分後に、この女性の遺体も発見された。そのわずか十五分前に男性と立ち話をしているのを目撃されている。左右の瞼が切り取られ、首は左右に大きく切られ、頸動静脈や頸椎の椎間板という継ぎ目部分も切られていた。さらに腹部は上から下までギザギザに大きく切り開かれ、小腸が引きずり出されて右肩にかけられていた。肝臓、膵臓、脾臓、左腎臓、子宮、外陰部にも切ってできた傷があった。


 五人目は二十代の女性で、夜中に下宿屋の自分の部屋へ男と入ったのを目撃されている。翌朝のお昼前に大家が家賃を取りに行ったところ、死んでいるのが発見された。腹部と太ももの皮膚が剥ぎ取られ、腹部臓器はほとんど取り出されて遺体の横に放置されていた。左右の乳房も切り取られ、顔はめった切りにされ、首は骨までずたずたに切られていた。胸も左右に切り開かれ、心臓は現場に残っていなかった」


私はもう卒倒しそうだった。「そ、それで・・・?」


「要するに、三人目を除いて死んだ後に執拗に遺体が傷つけられている。二人目や四人目は、三十分以内の短時間で臓器が切り取られていたんだ。・・・当時から現在に至るまでいろいろな人・・・殺人犯から偉人までが切り裂きジャック事件の犯人と疑われてきたけど、結局真犯人の逮捕には至らず、迷宮入りになっている」


「内容が内容なので説明があまり頭に入りませんでしたが、遺体がひどく傷つけられていたことは何となくわかりました」


「三人目は傷が少ないけど、おそらく人が来たので遺体を傷つける暇がなく、その場から逃げ出したんだろうね。しかし人体を傷つける衝動が満足できなかったため、四人目の殺害に及んだのかもしれない」


「遺体の臓器を短時間で切り出している例が多かったことから、犯人、切り裂きジャックは、解剖の経験と技術があった人のように思われますが?」


「当時も屠殺業者や狩人、医師などが犯人像として考えられていたようだよ」


「五人目は徹底的に解剖されていたようですが、おそらく屋内での犯行だったので邪魔が入る危険がなく、時間をかけられたのでしょうね」


「そうだね」


「今回の事件は、被害者はおそらく自殺をしていた。そしてたまたまその遺体を発見した犯人が解剖した・・・ということでしょうか?」


「女性が死亡していた部屋は道路に面していて、窓もあったけど、カーテンが閉まっていた。もしカーテンがわずかに開いていて、たまたま外を通りかかった犯人が首を吊って死んでいる女性に気づいたとしたら・・・」と島本刑事。


「普通はすぐに警察か救急に通報しますよね?」と私は口をはさんだ。


「そうなんだけど、犯人は遺体を解剖したい衝動に駆られた。そして玄関戸に鍵がかかってなかったのかわからないけど、屋内に侵入し、カーテンをきっちり閉め、台所から包丁を持って来て、解剖を始めたんだろうね」


「屋内で解剖されたのは切り裂きジャックの五人目の事件と似ていますね。でも、こっちの犯人は臓器を一部しか切り取らず、解剖を途中でやめています。なぜなんでしょうか?」


「普通の人なら、気持ち悪くなって遺体を切り刻むことをやめた、と考えられるけど・・・」


「犯人は解剖に慣れたような人でした。仮に解剖の経験のある人なら、・・・例えば法医学者とか、病理医とか、解剖学者とかなら、正式の解剖用具がなくても、冷静に最後まで解剖できたことでしょう」


「そうだね。・・・また、法医学の知識がある者の犯行だって言いたいのかい?」と聞く立花先生。


「その可能性はなきにしもあらずです」


「でも、法医学者が犯人なら、大学でいくらでも解剖ができるはずだ。わざわざ偶然見つけた他人の家に押し入ってまで解剖したいと思うのかな?」


「そうですね」と私は同意した。


「しかし犯人が尋常な精神の持ち主でないことはわかり切っていますから、私たちとは違う考え方をしていたのかもしれません」


「・・・ところで、現場の家の玄関に鍵はかかっていなかったのかい?」


「うん、無施錠だった」と島本刑事が答えた。


「こじ開けた痕跡もなかったそうだから、女性が死んだ時から無施錠だったのだろう」


「人が訪ねて来たので、犯人はあわてて逃げたのかもしれないな」と立花先生が私に言った。


「そうですね・・・」と私は言いながら、また考え込んだ。


「何か思いついたのかい、一色さん?」と尋ねる島本刑事。


「仮に犯人が法医学の知識がある例の人だとして、今回も実験を行ったとしたら、何を実験しようとしていたのかと考えたんです」


私に注目する島本刑事と立花先生。


「その犯人は切り裂きジャックの事件のことをよく知っていたのかもしれません。・・・日本に切り裂きジャックの事件が紹介されたのはいつ頃なのでしょうか?」


「正確には知らないけど、少なくとも昭和の初め頃には一般の雑誌に紹介されたことがあったようだよ」と立花先生。


「今回調べた限りでは、昭和四年に発売された中央公論という雑誌に、牧 逸馬まきいつまという人が『世界怪奇実話』の一編として切り裂きジャックの記事を書いている」


牧 逸馬まきいつまですか?初めて聞きました」


林 不忘はやしふぼうというペンネームで丹下左膳たんげさぜんの小説を書いた人だよ」


丹下左膳たんげさぜんなら知っている。今も人気がある時代劇の主人公で、戦前戦後に多くの映画が作られた作品だ。


「じゃあ、犯人が切り裂きジャックについてよく知っていたとしても不思議ありませんね?」


「何を考えているんだい?」


「先ほどのお話では、切り裂きジャックが三十分以内に遺体を切り刻んだことになっています。先生は解剖に慣れていると思いますが、三十分でお腹の臓器を取り出すことができますか?」


目を見開く島本刑事。


「メスなどの解剖用具が揃っていたら、三十分以内に急いで臓器を取り出すことは可能かもしれない。しかし小型の包丁しか使えないと難しそうだね。普段あまり研がずに使っているナイフや包丁だと扱いにくくて手間取るだろうし、肋骨は包丁では切りにくいと思う。まして外の様子を伺いながら・・・誰か来ないかと聞き耳を立てながらの作業だと、普段の解剖より時間がかかりそうだ」と立花先生。


「犯人は、切り裂きジャックのように素早く解剖できるか、試してみたと言うのかい?」と島本刑事が聞いた。


「それがひとつの可能性だと思います。時計を見ながら、例えば三十分以内に臓器をどれだけ摘出できるのか、試そうとしたのかも」


「そして三十分経ったところで解剖を中断したのかい?」と聞く立花先生。


「はい。犯人は解剖自体がしたかったわけではないのでしょう。だから三十分経ったところで『この程度できるのか』と本人は結果に満足してその場を去ったのでしょう」


「・・・そうだとしたら、もはや常人の神経ではないね」と島本刑事が嘆息を漏らした。


「しかし鳥取県警の刑事には何と回答しよう?犯人は切り裂きジャックのことをよく知っている、解剖経験のある人物とでも言うか?・・・捜査の参考になるんだろうか?」


「そうですね。手がかりにはなりにくいでしょうね」と私が言うと、


「まあまあ。とりあえず次の相談事を聞いてみようか。何か思いつくかもしれないし」と立花先生が言ってくれた。


「まだ相談事はあるんだろ?」と島本刑事に聞く立花先生。


「ああ、相談事はもうひとつあるよ。次ので最後だ」と島本刑事。


考えてみれば午前中に二件、午後に次の相談事を含めて四件、合わせて六件になる。これだけの相談事を全国から持ちかけられるなんて、島本刑事の名声がどれだけ広がっていることか。


「今度のは九州、鹿児島県警からの依頼だよ」


最初の相談事が北海道、そして最後が九州鹿児島。本当に日本全国から依頼が来てるんだ、と私は感心した。

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