第4話 劣等感と理想感。


 ……たー……ひーなーたー。


 甘ったるい匂いと声に引っ張られて、

 差し込む光を鬱陶しく思いながら瞼を開けた。


「おはよう、ひなた」


 呑気に手をひらひらとさせて、歯を見せて笑う春が遅刻するよと話しかけてくる。


「んー。え、今何時?」

「七時半だよ」


 その言葉にガバっと起き上がる。

 歯磨きしていたら、ドアから顔を覗かせたニコニコの春。


「ひーなたっ、学校送っていくからね」

「あいがと」

「ふふ、まだ寝ぼけてるの? かわいい」


 違う。歯磨き中だから上手く喋れないだけね。


 やけに上機嫌な彼女を横目に、まだボーッとする頭でセーラー服に着替えて玄関に向かう。


 昨日なにもなかったみたいにお互い普通だ。気味が悪いくらいに。気まずいよりは、全然いいけど。


「いこう」


 靴を履いて立ち上がる。私より小さな手が、当たり前のように手に絡みつく。その手に違和感はないし、むしろ馴染んでいる。


「うん」


 あまりにも良い天気で、眼球が痛くなるほどの眩しさに目を凝らし、車に乗り込む。春が運転手に私の学校に向かうよう告げると、滑らかに車が動き出す。


 すっかり目も覚めて、スカートからでている自分の膝小僧を見つめる。


「ひなた、どうしたの?」


 不思議そうな顔で覗き込んでくる。


「ごめん、私のせいで春が遅刻する」

「そんなこと? 私はひなたと少しでも長くいれるから気にしてないよ」


 体から空気が抜けて、優しさに肩が落ちる。


「……次から気をつける」

「別にいいよ。ここ、寝癖ついてる」


 寝癖がついた前髪をふわふわと撫でられる。


「今日も泊まれる?」


 私もなるべく家には帰りたくないけど、そろそろ弟の様子が気になる。


「ううん。今日は家に帰るから、また連絡する」


 目を瞑ったまま答えると、前髪を撫でていた手が止まる。

 両手で頬を挟むように包まれ、強制的に春の方へ向けられた。


 真剣な表情に、瞼をパチパチ動かす。


「絶対連絡してね。家知らないから連絡取れないと学校で待ち伏せするからね?」

「今日学校終わったら必ず連絡するから、待ち伏せだけはやめて」


 早口で答えると、春は少し困ったように眉を下げて笑った。


「じゃあ、どんなことでもいいからいつでも頼ってよ」


 憂鬱な気分が顔に出てたのか。

 春の優しさに胸がぎゅっとなって、何も言えなくなる。


 もう十分頼っている、こんなのは私の甘えだ。

 またこの複雑な感情に引っ掻き回される。


 いつも何かを察しているかのような言葉をかけてくれるけど、春には理解できない家庭環境だと思うし、言うつもりもない。


 春は両親に愛され育っている。それは一緒に過ごしていてわかった。思いは理解できても、心の奥底でトゲトゲとした部分がそれを受け入れようとはしない。


 春は別に何も悪くない。同情でもなんでも、優しすぎる。

 私が勝手に劣等感を感じてるだけだ。

 今だって触られた頬が気になって、気に入らない。

  

 そんな自分に溜息が出そうになるし、今自分がどんな表情をしてるかも分からないから「ありがとう」とだけ言って窓の方に顔を背ける。


 いつもより酷く静かに感じる車内の中、なにも言わず学校に着くまでただ手を握ってくれていた。


「いってくる」

「うん、行ってらしゃい」

「送ってくれてありがとう、春も行ってらっしゃい」


 車から降りて、私も笑顔で手を振る。

 上手く笑えてるか分からないけれど。


 姿が見えなくなるまで、窓から顔を出して手を降ってくれる。

 そういうところが、時々眩しすぎて嫌になる。


 きっと、私はあんなふうにはなれない。


 憂鬱な気分のまま教室に入る。集まる視線を無視して自分の席に着き、何事も無かったかのように授業に集中する。


 四時間目が始まって間もなく、集中力が切れてきた。

 私の席は窓際の一番後ろだからついつい、外を見てしまう。


 騒がしい運動場に目をやると、ルイのクラスが体育をしていた。


 そういえば今日から体育祭の練習だっけ。

 遠くてあんまり見えないけどルイはわかる、髪色で。


 あれは……綺咲さんかな、肌白いし、走り方綺麗だけど速くはなさそう。同じクラスの時は、どうだったっけ――。


「おい、高坂集中しろ〜!」


 いきなり担任にプリントで頭を軽く叩かれた。周りからクスクスと笑い声が聞こえてくる。

 

 少しよそ見しただけなのに、なんなんだ。寝てないだけいいじゃん。


 なにも面白くない私は、ムカつく担任の間抜け面を授業が終わるまで、ひたすらノートに描きまくった。


 チャイムが鳴り、給食を食べて昼休み。お腹も満たされいい感じに睡魔が襲ってくる頃。動くのが怠くて教室でうとうとしていると邪魔が入る。


「高坂、応援団長を頼みたいんだけど」


 ゆっくり顔を上げると男の担任がこちらを見下ろして、にんまりと笑っていた。急な衝撃発言に脳がだんだんとクリアになって目が覚める。


「冗談やめてください」 

  

 そんなことより眠気を返してほしい。


「それが冗談じゃないんだよ」


 頼むよ〜とすりすり拝むように手を合わせている。

 いやいや、なんで私が。


「嫌です」

「えぇーなんでだよー。大変だけどきっと楽しいぞー? ね、立川さん、そう思うよね?」


 このたちの悪い担任は、近くの席で読書していた大人しめのクラスメイトを巻き込んで、半ば強引に圧で頷かせている。


 面倒になってきた。


「百歩譲って団員なら良いですけど、団長は却下です」


 できるなら目立つことは避けたい。

 

 担任は腕を組み、むむむと大袈裟に悩む振りをする。


「うううーん、そうかそんなに嫌か〜、じゃあ仕方ない。団員で決定!」


 腕を解き、手をパンッと合わせ締めくくる。


「練習は明日からだから、よろしく!」

「はぁ」


 結局、いいように運ばれる。


 午後は体育祭の練習をそこそこ頑張った。

 疲れてクタクタになりながらも、帰る支度をして教室を出た。


 すれ違ういろんな匂い。

 古臭い匂いもあれば、甘い柔軟剤の匂いに、汗の匂い。

 

 そのどれとも違う儚い香りがして、足元にあった視線を上げる。


 左を見ると前をみて歩く綺咲さんが隣にいた。

 私の視線に気づくと、こちらを向く。


 取ってつけた笑顔で、取ってつけたような注意を口にした。


「前、見て歩いたほうがいいよ」

「綺咲さんも、前見て歩きなよ」

「高坂さんがこっち見てきたから」

「人が隣に来たら見るでしょ」


 本当は綺咲さんの存在にすぐ気づいた。

 そんな自分が嫌になり、視線をそらして階段を降りる。


 重ならない足音だけが響く。


「私は前見て歩いてたけど、俯いて歩く高坂さんが見えたから」


 だから、なに。そう言えばいいのに、言葉が喉に詰まる。

 綺咲さんは職員室に用があるからと行ってしまう。


 よく分からない綺咲さんに、もやもやして少しだけ乱暴に下駄箱を閉めてしまった。



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