失踪した使者
「おいでロクテーヌ」
差し出された皺だらけの手のひらにロクテーヌは喜んで飛びついた。今日も外国の歴史や社会情勢について教えてもらえるものだと思い込んでいたので、隠し通路を見せられた時は驚いた。ロクテーヌが好奇心と不安が入り混じった瞳で見上げると、いつものように穏やかな笑みが返ってきた。
「見ての通りだ。君にはこれから全ての隠し通路を覚えてもらう」
「でも……隠し通路なんて、誰も……」
「私しか知らないからね。だからロクテーヌ、君は誰にも話してはいけない。秘密を知るのは一人でいいんだ。私もそうして受け継いだ」
ロクテーヌは選ばれた。隠し通路を継承するに相応しいとされた。しかしロクテーヌにはそれよりも気になる事があった。秘密を知るのが一人でいいならば何故今教えたのだろうか。
「おじい様。それってもうすぐおじい様が死んでしまうような言い方です」
「……」
前公爵ジャン=ロッシュ=シャンペルレは返事をしなかった。
彼がこの世を去ったのはそれから間もなくの事だった。最初に発見したのはロクテーヌである。悲惨な死体だった。薄く開かれた目は白く濁り、老体から肉が抉られ、辺りに血が飛散していた。しかし立ち尽くしたロクテーヌの白い喉からは叫び声さえ出てくることはなかった。
食い散らかされた、という印象があった。
ジャンの遺言は隠し通路に保管されていた。秘密を継承したロクテーヌに宛てた遺言であることは明らかだった。
——曰く、シャンペルレ家を守れ。
遺言を胸にロクテーヌは生きる。かつて栄華を誇った国家は内側から腐敗し、すでに空虚な黄金の堕落へと成りはてた。薄汚い貴族社会の中でシャンペルレ家だけは高潔であり民衆のために誠意を尽くしているのだと、ロクテーヌは知っていた。だからこのシャンペルレ家に属するものは使用人に至るまで誰一人傷つけさせない。
邪魔者を消すための手段は如何に汚れていてもいい。その汚れをロクテーヌ一人で請け負えば済む話だ。
「契約を結びましょう? 何も不審に思う必要はありません。命令を聞いている限り、あなたに餌を与えます。甘い汁ならいくらでも吸わせてあげましょう。ですからこの手を取りなさい」
差し出した手をフィードは握り返した。雨の日の夜だった。
部屋の扉をたたく音にロクテーヌの意識は浮上した。令嬢としてフィードを動かすのは久しぶりだからか、今日はどうもあの頃を思い出す。頭を切り替えて招き入れると、女中のアンジェが真っ青になって現れた。只事ではない様子だが、ロクテーヌは手元の本を優美な仕草で閉じた。
「ご報告します。シェリー様が……どこにもいらっしゃいません」
「城下を御視察されているのではありませんか?」
「それが、いつもなら使用人に一言おっしゃってから衛兵と共に出掛けられるのですが、今日は……」
アンジェは不安そうに首を振った。前で重ね合わせた両の手は微かに震えている。
「ロクテーヌ様もご存知ないですよね」
「ええ、残念ながら」
ロクテーヌは顔色一つ変えることなく睫毛を伏せた。そうするとシェリーの身を憂いているように見えるのだと知っていた。案の定、アンジェが慌てて両手を彷徨わせ、励まそうと口をぱくぱくとさせた。
「あっでも、きっと大丈夫です! シェリー様が一人で外出されることもあったみたいですし!」
「……お一人で?」
初耳だ。
「ええ、大通りで買出ししていた子が見たって言ってました! お忍びのご様子だったので声はかけなかったみたいですけど」
「……ではきっとすぐに見つかりますね。安心しました」
「はい」
元気いっぱいにアンジェは頷いた。自分に向けられた幼気な好意は微笑ましく、御しやすい。シェリーが消えた今、部屋を出る必要も失われ、もうすぐ休暇を終えたソミュールが戻ってくる。そうなればロクテーヌとしてアンジェに向き合う機会はほとんどなくなるだろう。
兎角、一件落着だ。
「アンジェ」
「はい」
「ワインを用意して下さい。そうですね、軽めの赤で」
「はい……へ?」
アンジェは間抜けな声をあげて、目を見開いた。
「なんで?」
ついつい溢れた本音に、両手で口を押さえた。女中としてあるまじき態度だった自覚があるのか、みるみる耳まで赤くして目が潤んでいく。昼間からいきなりワインを要求したのは初めてで、脈絡もなかったのでアンジェの動揺は無理もない。まさか祝杯だと教える訳もなく、何も知りませんという顔でロクテーヌが見つめると、アンジェは謎の弁明を始めた。
「あ、あの、違うんです。どうか、お気になさらずっ」
「……?」
「うっ……ワ、ワイン、お持ちしますね! 失礼します!」
軍隊のように機敏な礼を披露して、慌ただしく走り去った。忙しない動きでも物音がしないのは流石だが、あまりに奇妙な動きだったのでついつい笑ってしまう。同意を求めて彼に呼びかけたが、バルコニーの外で木々が揺れるだけだ。
「……そういえば、いないんでしたね」
ぽつりと口にして、彼女は木陰を見つめた。しばらく行動を共にすることが多かったのでついつい呼んでしまった。それがどうも癪に障って不機嫌そうに唇を尖らせる。さっさと忘れてしまおうと机に本を広げると、黒猫がすり寄ってきた。
「あらビオ。隠れるのはやめたんですか?」
ビオはロクテーヌの膝に飛び乗って、白い手のひらを待っている。アンジェがいる間は嫌がって出てこない癖に、と思いながらその気まぐれな態度が可愛らしい。本を読み進めながら撫でてやると、不満そうに唸ったので仕方なく本を閉じる。片手間に触るなということらしい。
両手でマッサージするように撫でると、すぐにごろごろ喉を鳴らした。膝の上で気持ちよさそうに伸びているので、腕に抱えなおしてブラシを用意した。黒い毛並みはすでに艶々としているが、更に磨きをかける。ビオは口を半分開き尻尾をゆらゆらさせていた。
「お気に召したようで光栄です」
ふ、とロクテーヌの表情が緩んだ。ロクテーヌに傍若無人な態度で振舞えるのはビオくらいだ。小さな前足の爪が伸びていたので、そろそろ手入れをしようかと考えていると、突然ビオが逃げ出した。ロクテーヌの膝を離れて寝室のほうにするりと体を滑り込ませていく。
同時に響いたノックの音に納得してしまった。ワインを手にアンジェが戻ってきたのだ。用意された銘柄は王室に献上する高級品だった。部屋を出るときはあんなにも顔を赤くしていたアンジェが一転して、踊りだしそうなほどご機嫌だ。
「……アンジェ……どうかしましたか?」
「えへへ……知りたいですか?」
嵐さえ吹き飛ばしそうな笑顔で栓の空いたボトルを傾ける。香りを閉じ込めるために膨らんだ薄いグラスに注ぎ、完璧な位置で液面を止めた。アンジェは言動からそそっかしい印象を受けるが、女中として決して劣っているわけではない。
「ええ、是非教えてください」
「私が……ふふっ、驚かないでくださいよ? 私が魔法をかけました!」
「…………」
机の上のワインは、ボトルのラベルもグラス越しに見える色も何の変哲もない。言動さえどうにか出来ればもう少し評価も上がりそうなものなのに。ロクテーヌは静かに続きの言葉を待った。
「う……もう少し反応して欲しかった……」
「……どんな魔法をかけてくださったんですか?」
肩を落としていたので、付き合ってみることにする。アンジェは俊敏に顔を上げると指先をきらきらと動かしてワインに何かを送った。念じているというべきか。
「元気が湧き出る魔法です!」
きっぱりと言い切ると、何故か誇らしげにした。ロクテーヌは目を丸くして、そして……笑った。
「ではこのワインはあなたの魔法と一緒に楽しむとします」
「は、はい!」
アンジェは妙にかしこまって答えた。給仕服を着て隣に並んだときは、こんなに奇妙な言動をする女中ではなかったように思う。うっとり目を細めて頬を染める姿は女中以外の何者かだ。しかも穴があくほど見つめられてはグラスに口を付けるのも躊躇われる。
「……何か?」
「綺麗です……」
「はぁ……そうですか」
それ以外に返す言葉もなく、ロクテーヌはグラスを机に戻した。
そこでアンジェは、はっと我に返った。自分が口走った言葉に、後悔で口元を押さえる。
「えと、失礼しました!」
素早く披露した礼だけは見事な角度だった。体を起こすや否や、泣きそうな顔になって部屋を飛び出す。慌ただしい風のようだ。元気があって大変よろしい。
ロクテーヌはワインと本をバルコニーに移動させて、昼前の穏やかな時を楽しむことにした。季節柄、清々しい空気は肌に心地よく、木の葉が生み出すささやかな音楽は耳になじむ。風が強くない日は尚更だ。
バルコニーからは小さな中庭が見える。取り囲む木々で外界から隔絶されたような空間には花もなければ装飾もなく、よく手入れされた芝が広がっている。下階の部屋を前公爵が使っていた頃は、中庭でよく茶会をしたものだ。公爵家の庭にしては花が少なく狭い庭なのだろうが十分だった。客人に見せるための庭ではないし、何より見ていると落ち着く。
普段ならここで本の内容に集中するところだが、昨晩の出来事が邪魔をした。シェリーの態度や言動が妙に引っかかる。王を敬愛しながら毒を盛る。自らの大罪を悪びれもしないくせに、ロクテーヌには怯えて見せる。人物像に一貫性がないと言うべきか、行動原理が不明だ。
考えすぎだろうか。知ったところで、判断は変わらない。シェリーはシャンペルレ家にとって間違いなく害悪であり、始末することでロクテーヌの秘密も夜に消える。ただ、気持ち悪さが残るだけだ。あれはどう考えても善人だった。
吹き抜けた気持ちの良い風にロクテーヌは深く息を吐いた。考えても結論が出る内容ではない以上、知りたいならば調べるべきだ。
「——まあ、難しいお顔。おつかれでしょうか?」
ふいに届いた声に、さっと表情を殺し目線で相手を探した。声はバルコニーの下から聞こえた。庭師が手入れをする時間ではない。そもそもロクテーヌにいきなり話しかけるなんて公爵とミルティーニ以外いない。あり得ない。
「……誰です」
中庭に女が立っていた。ロクテーヌはその人物に気付いて、立ち上がった。
「やだ、誰なんてあんまりじゃありませんか」
にやついた女は大袈裟な手振りでロクテーヌを見上げる。
「シェリー=ド=レッティーニですわ。殺した相手の名前をもうお忘れになったのかしら」
始末したはずの女が確かにそこに立っていた。豊かな黒髪や意思の強い瞳は、王の使者として振る舞う彼女のものだ。だが、その首と胴が離れた瞬間を目撃しており、フィードが下手な小細工をする訳もない。
ロクテーヌは困惑を瞬時に消し去り、冷静な判断を下した。
「はじめまして、ロクテーヌと申します。貴女は?」
シェリーが死んでいる以上、この女は別人である。
あくまで優雅に美しく、令嬢として完璧な一礼をする。ゆったりと浮かべた微笑みはむしろ威圧的に見えることを重々承知していた。
「まあ、改めてご挨拶なんて……どういった趣向ですの? それともお付き合いした方がよろしいのかしら? 国王陛下の使者、レッティーニ家四女、シェリーですわ」
女は裾を広げて礼をしてみせた。驚くべきことに礼の仕方一つをとってもシェリーと全く同じである。死んだはずの女が大切な中庭の中央で頭を下げている。
ロクテーヌは左右に首を振った。完璧主義は立派だが下らない茶番だ。
「貴女は彼女ほど純粋ではないでしょう。先程から仕草の一つ一つに滲み出ていますよ」
「……!」
「——私と同じ香りです」
つまらない結論は女にとってそれなりに衝撃的だったらしい。目を見開いて固まっている。その姿さえシェリーと同じで、薄ら寒いものがあった。
「それで、お名前は? 別に偽名でも構いませんよ」
ロクテーヌの視線は凍りつきそうなほど冷たかった。膝の上で指を組み返事を待つ間に、ビオがガラス扉を抜けて足元に寄ってくる。しなやかな黒猫の腹の下に手を差し入れ、膝の上にのせた。返事がないなら別にそれでも構わない。
「……あはっ」
王の使者に似た人物は、彼女と異なる笑みを浮かべた。背中を丸め、腹を抱えるようにしてくつくつと笑う。
「面白い……面白い面白い面白いわぁ……!」
「……」
「いいでしょう、私はセーナ。どうぞ今すぐお忘れ頂いて差し支えありませんわ。夕方には消える名前ですもの」
「セーナさん、ですか」
膝の上で黒猫が唸り、セーナを睨みつけている。やれやれと落ち着かせるようにその背に手を乗せた。
夕方に名前を失って、何者に成ろうとしているというのか。答えは一目瞭然だ。
「単身敵地にいらっしゃるなんて勇敢なんですね」
「……」
セーナはにこにこと笑顔を浮かべてじっと動かない。皮肉が通じなかったわけでもないだろうに、欠片も怯まない。ロクテーヌは片眉を上げた。
思えばこの女の行動はおかしい。裏の事情がどうであれ、成り変わるなら勝手にすればいいのだ。わざわざシェリーを殺した相手の前に一人現れる意味などない。同じように消される危険性に、すぐ思い至ったはずだ。
そもそも、地下のワイン倉庫にはロクテーヌとフィード、シェリーの他は誰もいなかった。フィードによれば、シェリーは部屋から隠し通路を使って倉庫までの間、第三者と接触していない。
「……まさか」
つまり、シェリーが殺されたと断定できるのはロクテーヌとフィードだけだ。この女がいかに堂々と成り変わろうと、ロクテーヌの所業を知る由もないのである。
「貴女、犯人探しをしていたのですね」
セーナはロクテーヌの反応を窺っていたのだ。そしてロクテーヌはまんまと嵌められた。姿を消していた令嬢が現れたときに見せるべきは困惑ではなく安堵だった。
この女、役者だ。
「あはっ。失敗しましたね、ロクテーヌ様。貴女と同じ香りがするなんて嘘。私の仕草から滲み出ているなんて大嘘。私が別人だと断言出来たのは、貴女が殺したからなのでしょう?」
「……何をおっしゃっているのやら」
ロクテーヌは証拠を残したりしない。加えて、言いがかりを事実にする権力を持っているのはシェリーではなくロクテーヌの方だ。
「ああ、嫌になりますわ。そう躱されてしまっては太刀打ち出来ませんもの。本当に……殺してしまいたい」
セーナの笑顔が一瞬にして消え去った。同じ顔をしていても、シェリーとは似ても似つかない。他人を踏みつける事をなんとも思わない人間の顔だ。この女は一度としてシェリーを気遣う様子を見せていない。
膝の上でビオが毛を逆立てている。これはロクテーヌもとばっちりで引っ掻かれるかもしれない。
「では、どうなさるおつもりなのでしょうか」
「シェリーは疲れて逃げ出した。けれど日が沈む前には頭を冷やして職務に戻るのです」
セーナは淀みなく答えた。落ち着いた、しかし意志の強さが宿る声音は、優秀な王の使者そのものである。
「そうすれば真実は私だけのもの。……いい終わり方でしょう?」
それだけ伝えると、セーナは——シェリーはロクテーヌに背を向けてルデジエール山の針葉樹の中に消えていった。
「……あなたにとっては、ね」
すっかり姿が見えなくなってから、ロクテーヌは独りごちた。
シェリー殺しを告発されたところで、証拠一つ残していないロクテーヌは痛くもかゆくもない。問題はセーナが何処まで知っているかだ。
それに、セーナが自分の好奇心を満たすために犯人捜しをしていたとは思えない。犯人に復讐するような性格でもないだろう。
「ふふっ」
状況に反してロクテーヌは笑った。なんと食えない人だろうか。
シェリーとして戻ってくるのだと自分で言っていた。シェリーの意思かどうかはともかく、セーナはシェリーに成り替わろうとしている。そして今、ロクテーヌというシェリー殺しの犯人、つまりは成り替わりを知っている人間を見つけ出した。
当然、ロクテーヌを殺しに来る。
「……」
その上で、どう動くかだ。
ロクテーヌは腕を組み、顎を指でとんとんと叩いた。頭の中にいくつもの可能性を広げる。行動が一貫していないシェリー。何処からか手に入れた毒薬と、王家へ献上する予定だったワイン。そこにセーナという女の存在を加える。
あと一歩、何かが足りない。
考えているうちにビオが大きく欠伸をした。落ち着いたようで狸のように丸々としていた体がすっかりしぼんで仔猫に元通りだ。このまま膝の上で眠るつもりなのだろうか。ロクテーヌはやれやれと肩を落とした。いつの間にやら中庭で迷い込んだ野兎が跳ねている。平和なものだ。
テーブルの真っ赤なワインはすっかり祝杯ではなくなってしまった。そっと手を伸ばしたところでグラスに男の影が映し出された。
「今回は早かったですね、フィード。上手く処理できましたか?」
「あ……ああ」
瞬きの間にバルコニーに現れたフィードに、どうやらロクテーヌの声は届いていない。何に気を取られているのかは視線を追えば明白で、ロクテーヌはうんざりと手を止めた。
「……何なんですか、アンジェも貴方も。そんなにワインが珍しいんですか」
「……いや、お前……ワイン、飲むんだな、と」
「あら、飲めないとでも思いました?」
ぶつりぶつりと言葉が途切れるフィードに、ふんと鼻を鳴らす。何でもない行動一つ一つに反応されては、単純に鬱陶しい。フィードは何やらしみじみとロクテーヌに向き合った。
「意外っつうか……うーん、子供のイメージが抜けねえからかな」
「……ふうん」
「うわ、いや、何でもない」
顔を引きつらせ、降参とばかりに両手を持ち上げる。賢明な判断が出来て結構なことだ。
ロクテーヌはビオを抱きかかえ、部屋の棚に常備してあるワイングラスをフィードに手渡した。嘆かわしいことにフィードにはワインの良し悪しが分かる舌などなかったが、彼に相応しい安価なワインはこの城にない。
「あなたも飲むでしょう? この年の銘柄、前評判は良かったですよ」
「いや、やめとく」
「そうですか?」
ロクテーヌはぱちぱちと目を瞬かせて持っていたワインボトルを下ろした。普段なら地下倉庫から持ってきたワインを喜んで飲むのに、今日はやけにはっきりと断ってくる。腹が満たされているからだろうか、と考えながら手に取ったワイングラスにフィードの手が重なった。ロクテーヌの華奢な手のひらなど覆い隠されてしまう大きさで、力強く。
「おまえも、やめとけ」
そのままグラスを奪い取られた。
「ちょっと。勝手なことは……」
眦を吊り上げて放った抗議の言葉は途切れ、呆気にとられた。フィードは奪ったグラスをあろうことか中庭に向けて傾けていた。折角のワインが垂れ落ち、芝生の上に赤い染みが広がっていく。足元にくっついていたビオがワインを追って顔を上下に動かした。中庭に迷い込んだ野兎も、突如降ってきたワインに鼻をひくひくと鳴らす。
「な……何するんですか! それは、アンジェが用意して下さった……っ」
ロクテーヌは腕を掴んで、ワイングラスに手を伸ばした。如何せん腕の長さが違うのでバルコニーから乗り出す必要があったが、バランスを崩す前に取り戻すことが出来た。既に中身は空で、肩を落とす。
「ああ、もう。特別な一杯だったんですよ」
「少しくらい、落ちるかもとか、考えろ……」
「はあ? 支えておいて何を言ってるんですか」
バルコニーから身を乗り出したロクテーヌの腹にフィードの腕が回っていた。もう片方で器用に頭を押さえているが、頭を押さえたいのはこっちだ。するりと引き寄せる手は危なげなく、委ねていれば勝手に元の位置へもどった。
気を取り直してもう一杯注ごうとすると、再び遮られた。
「だからやめとけって」
「しつこいですね……」
じろりと睨みつけてもどこ吹く風で庭を指さしている。中庭に広がった赤い染みに野兎が舌を伸ばした。甘い香りでもしたのか、好奇心旺盛なだけか、草の上に結んだ赤い露を飲む。同時に柔らかな葉を選んで小さな歯ですりつぶして食んだ。
そして、ぴくん、と跳ねて倒れ、手足を痙攣させた。
「……」
痙攣は徐々に収まったが、野兎が再び体を起こすことはなかった。
「で、アンジェが用意したって?」
「……私、は」
「死ぬとこだったなあ。つーか、殺されかけた。騙されるなんてお前にしちゃ珍しいじゃねえか」
にやり、とフィードは笑い、ロクテーヌの反応を窺っている。同じ意味の言葉を繰り返すなと指摘する気にはなれなかった。
アンジェという女中の人物像をロクテーヌは二つ知っている。一つは同僚としての明るく積極的な彼女。もう一つは使用人としてのそそっかしく素直な彼女。今度はそこにワインを加える。
それが契機だった。
「まさか落ち込んでねえよな?」
フィードは俯いたまま黙ってしまったロクテーヌを覗き込み、要らぬ心配だったとすぐに離れた。彼女は笑っていた。
「……ふっ、ふふっ。たった一匙をワインに……だからシェリー様は……ああ、成程そう繋がるわけですね。それなら正体は……」
「どういう意味だ?」
「つまり、全てはセーナさんの思惑なのですよ」
蠱惑的な笑みを浮かべるロクテーヌに、フィードはぽかんと口を開けた。いっそ芸術的なほど何を言っているのかさっぱりわからない。そもそも知らない名前まで飛び出した。
ロクテーヌはくすくすと笑ってバルコニーの椅子に座り直した。
「そうですね、まずそこから……いいえ、悠長にしていられません。彼女がセーナでいるうちにすませておかないと」
頭の中で優先順位をつけた結果、無駄な説明は後回しにする。どうせフィードが理解したって何の利益もない。ロクテーヌの貴重な時間が減るだけだ。
「出かけます」
「昼間だぞ」
「知ってますよ」
フィードを手のひらで追い払うようにして、鏡台の飾りを動かした。慣れた手つきで開いた隠し通路の入口にぽつりと籠が置いてある。中には町娘に相応しい服や革の長靴などが並び、籠ごと寝室に運び込んだ。令嬢を脱ぎ捨て、黒髪の凡庸な町娘が分厚い眼鏡を掛けた。
あっという間に身支度を整えて寝室から出てきたロクテーヌをフィードは呆れた様子で眺めていた。毎度のことながら、この令嬢は頭の回転が早くついていけない。
「ヒントの一つや二つくらいは置いていけよ」
「そうですねぇ……貴方、アンジェが紅茶と一緒に何を持ってきたか、覚えていますか?」
「……は?」
「ああ、シェリー様が城に来た日ですよ」
唐突な質問にフィードは一瞬戸惑う。シェリーがやってきた日は、アンジェがロクテーヌの前に現れた日でもある。初めての応対で会話だけでも精一杯だったアンジェは下手な紅茶を用意するため厨房に向かった。その間にロクテーヌは王の使者への挨拶を済ませ、部屋で優雅にティータイムを楽しんだ。机の上に乗せられた菓子は読書の片手間につまめるようなものではなくて、食べにくそうだったことをフィードは思い出した。
「……アップルパイじゃなかったか?」
「そうです。それも出来立てで大変美味しく頂きました」
「そりゃよかった」
凡庸な返事を返すフィードを見てロクテーヌは目を細めた。フィードの方が上背があったが見下すような笑い方をする。
「ふふっ、ここで気付かないのがあなたらしい。流石……いいえ、所詮フィード。感心しました」
「まーた遠回しに失礼なこと言ってんな?」
「——不可能なんですよ」
フィードの言葉を無視してロクテーヌは続けた。
「あの日、厨房はシェリー様の歓迎で忙しく、アップルパイを作る余裕なんてありませんでした」
「じゃあ、その歓迎用のを分けて貰ったんだろ?」
「残念。茶会に出たのはチョコレートです」
「茶会より前に準備したやつなんじゃねえの」
「それも違います。言ったでしょう?出来立て、だったんですよ」
アップルパイを楽しんだ後、ロクテーヌは気になって探りを入れた。するとやはりアップルパイは城の料理人が作ったものではなかった。さらに言えば使用人の間でそれなりに名の知れたものだった。
シャンペルレ家には専門の料理人がいるが、既製品を購入することもある。使用人向けの食事であれば尚更だ。件のアップルパイもその一つであった。その日は王の使者の歓迎で忙しいと分かっていたため、侍従長はあらかじめパンを発注していた。元々城壁を守る衛兵が休憩時間に購入していたもので、絶品と評判だったようだ。
「つまり何だ」
「御所望のヒントを差し上げました」
何かしら答えを期待して、からかうようにフィードを覗き込む。どうでもいい情報としか思えないのか、反応は芳しくない。
「絶対分からせる気ねえだろ」
「あら、私ほとんど答えを教えたつもりだったんですけど」
ロクテーヌは分厚い眼鏡の下に笑みを浮かべて、ひらりと体を反転させた。隠し通路は既に口を開けてロクテーヌを待っている。窓一つない通路で、昼間だというのに薄暗い。残された時間は少なく、これ以上付き合っていられない。隠し通路の中にするりと体を滑り込ませた。
閉じた通路を寂しそうに見ている黒猫が残された。フィードはロクテーヌの行先に思いを馳せて、腕を組んだ。つい先程毒殺されそうになったばかりなのに、持ち前の頭脳で上手くやるつもりなのだろうか。頭脳なんて暴力の前では役に立たないのに?
ロクテーヌとフィードは契約関係であって、何の命令も受けていない以上出る幕はない。しかし契約主がいなくなっては困るので、ひょっとしたらもっと単純な理由で、バルコニーからひらりと飛び降りた。
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