踏まれた豚の 名前も知らずに

 いったいどこで間違えてしまったのだろう。


 わずかな光も差さない暗がりの中、聞こえてくるのは豚の鳴き声ばかり。


 例の都市伝説の存在は知っていた。でも彼女に限って……。


 そう思ってしまったのが運の尽きで、この現状があるというわけだ。


 いや、彼女のせいみたいに言うのはよくないか……。


 「彼女にだったらたとえ豚にされても構わない」当時は本気でそう思っていたはずなのだから。


 もう戻れないところまで来てしまってから、その覚悟が揺らいでしまった。ただそれだけの話だ。


 狭く息苦しい地下室。敷き詰められているのは数多の僕たち豚共


 かつて人間だった頃、同じ種類の動物同士はお互いの言葉が分かる、根拠もなくそう思っていた。


 しかし今でも、僕たち豚共が何を言っているのかなんて全く理解できない。


 それはそもそも豚という種に言語の概念がないからか。あるいは僕たち豚共が豚としても所詮まがい物に過ぎないからか。


 まがい物同士対話もできず、過ぎる日々。人にも豚にもなれない僕たち豚共が、生を実感する方法は一つだけ。彼女に踏まれ、鞭で打たれ、蔑まれること。痛み、屈辱、押しつけられる革の味。ただそれだけが、僕たち豚共がかつて人間だったことを教えてくれる。


 その歪んだ悦びだけを糧に、虚無の日々を生き長らえ続ける。いや、いっそ虚無ならばどれ程よかっただろう。畜生道というものがもし実在するのであれば、まさにこの事を指すのかもしれない。


 そんなときだった。


「またどうか、いらしてくださいね」


 彼女の優しい声が聞こえた。僕たち豚共にはもう決して向けられることはない類いの言葉。それは、久方ぶりの来訪者の存在を意味していた。


 ああ。君のことは何も知らないけれど、一つだけ言えることがある。


ブヒィここに来てはいけない


 わずかな光の差す方向。僕は必死に訴える啼き叫ぶ


 だがそんな僕を待っていたのは、顔面に押しつけられたいつも通りの革の味だけだった。


 ***


「まったく……。ダメじゃないですか……。誰が勝手に出てきていいなんて言いました?」


 彼が無事に外の世界へと帰った後。聞こえてくるのは、僕たち豚共のよく知る彼女の声。


 僕たち豚共を足蹴に鞭を打ち、罵倒の言葉を浴びせる彼女。


「まったく……。これで満足ですか……?」


 悦びの啼き声を上げ、流涎を撒き散らす僕たち豚共をひとしきり罵り終えると、彼女は一切の光もないその瞳を僕たち豚共へと向け、こう呟いた。


「うわ……きっしょ……」


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