第三十五話 「俺の理想は……」
午後三時三十九分に帰宅した颯太は、寝室の机の脇にバッグをゆっくりと置く。
「縁……」
そして無意識に言葉を漏らすと、窓際に立つ。
窓越しに夕暮れ色に変わり始める前の空を眺めながら、台府銀行硬式野球部との初日の練習を振り返る。
フリーバッティングで、颯太はいい当たりを何球も飛ばした。しかしすべて、颯太にとっては会心の当たりではなかった。
颯太は静かに息をつくと、目を閉じる。颯太の瞼の裏には、自身が右バッターボックス内で構えている姿が映る。
映像の中で颯太は、マウンドに立つピッチャーを凝視し、白球を待っていた。
ピッチャーがキャッチャーのサインに頷くと静止し、モーションに移る。
颯太は木製バットのグリップを強く握り締める。
それからすぐ、白球が颯太の目にはっきりと映った。
颯太はスイングを始める。
そして、白球を弾き返したところで、颯太はゆっくりと目を開ける。
映像の中での颯太は、自身が理想とする打球を飛ばしていた。
「あれが理想だ。でも、今はそれとはまだ程遠い。もっと、練習を積み重ねないといけないな」
颯太は小さく頷くと、一度窓際から離れる。そしてバットを握るように、左手の握り拳の上に右手の握り拳を乗せる。
「ふぅ」と息をつくと、マウンド方向を見つめるように構えの姿勢をとる。
やがて、颯太の左足が僅かに浮く。そして、踏み込む。
「しっかり捉えて……」
颯太は囁くように言葉を発すると、スイングを始める。
自身の理想通りのスイングだった。
しかし、更に大事なのはその先だ。
「理想の打球を飛ばす……!」
颯太はそのように呟き、振り抜いた。
もし、実際に木製バットを持ち白球を捉えたらどのような打球になっていただろうかと、颯太は想像する。
頭の中で流れた映像では、白球は鋭いライナー性の軌道で、センターのフェンスに直撃した。
映像が終了すると、颯太はバットを振り抜いた構えを解き、小さく頷く。
「俺の理想は、センター返し……」
颯太が囁くように言葉を発すると、日差しがやや強さを増した。
颯太は再び窓際に立ち、空を眺める。
その空に、右バッターボックスに立った自身の姿が重なる。
颯太は一瞬だけ目を閉じると低く、力強い声を発する。
「センターの頭上を越える、弾丸ライナーのような打球……! それこそが……!」
颯太はその先の言葉を飲み込むと、口元を緩める。
そしてすぐ窓に背を向け、寝室を出た。
翌日、午前六時二分。
颯太はジャージに着替えると、外へと赴く。
「いい天気だな……!」
微笑みを浮かべ、上空を眺める。
この日は雲一つない、青空が広がっていた。
颯太は目を閉じ、一つ深呼吸する。
しばらくして目を開け、正面を見据える。
颯太の表情には、爽やかな笑みが浮かぶ。
「今日も頑張るぞ……!」
自身のエンジンをかけるように言葉を発すると、風を切るように駆け出した。
午前六時五十七分に颯太は帰宅し、浴室のシャワーで汗を洗い流す。
「体は軽い……」
そう呟くとレバーを捻り、水の流れを止める。
両掌で水気を拭うように頬を擦る。
両掌を頬から遠ざけると、正面の真っ白い壁を見つめる。
「一回戦まで一週間もない。今日も含めた二回の練習で、どれだけ状態を上げることができるか」
この段階での状態は、やや良いという自己評価だった。
「完全という状態とは程遠い。今の状態では、プレーでチームに貢献することはできない。練習の中で状態を上げる。そして、完全の状態で一回戦に臨む。たとえ、出番が訪れなくとも」
颯太は力強く言葉を発すると、右手に握り拳を作る。
「備えあれば憂いなし」
続けて言葉を発し、颯太は浴室を出た。
午前八時四十二分。
「おはようございます!」
颯太が台府銀行野球場に足を踏み入れると、寛人が笑顔で歩み寄る。
「おはようございます、京極さん。今日も、よろしくお願いします」
寛人は颯太に深々と頭を下げる。
寛人が顔を上げると、今度は颯太が深々と頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
颯太はゆっくりと頭を上げると、寛人と談笑を始めた。
「京極さんって、おいくつなんですか?」
「今年の二月で、二十三になりました」
「じゃあ、同学年ですね。私、去年の十月で二十三になりましたから」
「おお!」
寛人が同学年ということが分かり、颯太は気を許したように笑顔で彼と言葉を交わす。
その中で寛人は、競技生活引退後について颯太に話す。
「競技生活に別れを告げても、私はこの銀行に定年まで残るつもりです。セレクションに受からず、野球をやめようかと思っていた私を拾ってくれた銀行ですから。働き続けて、その恩を返したいんです」
颯太は寛人の言葉を聞き、彼の姿を自身と重ね合わせる。
入社した会社、経緯などは全く違う。しかし颯太は寛人の言葉で、自身が彼と似通っている部分を感じ取った。
寛人は微笑みを浮かべ、颯太を見つめる。
颯太は寛人の言葉から少し遅れて、口を開く。
「私も、定年まで今の会社にずっと残るつもりです。夢への門戸を開いてくれた会社ですから」
そして、やさしい笑みを浮かべる。
寛人も颯太の言葉で自身と似通っている部分を感じ取った。
颯太と寛人は微笑みを浮かべ、視線を合わせる。
まるで、強固な仲間意識が生まれたように。
しばらくし、一瞬だけ目を閉じた寛人が、ゆっくりと颯太に右手を伸ばす。
「絶対に優勝しましょう」
颯太は一瞬だけ目を閉じ、再びやさしい笑みを浮かべると、ゆっくりと右手を伸ばす。
そして、寛人としっかりと握手を交わす。
「はい……!」
寛人は颯太と握手を交わした瞬間、あることを感じ取った。
この選手が、全国の舞台で何かを起こしてくれると……。
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