4

「……で、初手で躓いて私のところに来た、と」

 学食の片隅でレモンティーの紙パックを振りながら、切れ長の瞳をこちらに向けてくる香澄は、呆れ半分面白半分といった顔だ。

「いえその……文さんがいない時を狙って母屋に行く、ということ自体が不可能だと悟りまして」

 これでも頑張ってはみたのだ。文が庭掃除をしているタイミングを見計らったり、松和荘のキッチンで住人と話し込んでいる隙をついたり。

 しかし、こっそり母屋の戸口を潜り抜けた瞬間、文が現れて「あら、こちらに何かご用ですか?」と尋ねてくるのである。その素早さたるや、玄関にセンサーでも仕込まれているんじゃないかと思うほどだ。

 屋敷を直接調べられないなら、詳しい人に話を聞けばいい。しかし敷地内だと文に聞かれてしまう可能性が高いので、大学の図書室でレポート消化中の香澄に突撃したわけだ。

「そう、だねえ」

 思案顔でストローを弄っていた香澄だったが、ふと思いついたようにニヤリと笑い、おもむろに口を開いた。

「一応、これって松来家のトップシークレットだから、おいそれと話せる内容じゃないんだけど。かわいい後輩の頼みだ。教えてあげようじゃないか。ただし……」

 わざとらしく言葉を切り、にっこりと微笑む。

「夏祭の屋台、手伝ってくれない?」

 えげつない交換条件が飛んでくることを想像していたのだが、これは予想外だった。

「えっ、そんなことでいいんですか?」

「勿論だとも。今度の土日、二日間ね。十六時から二十時までだから、そこまで大変じゃないと思うよ。今年の担当はかき氷なんで、よろしく」

 町会で行われる夏祭は、小規模ながら夏の風物詩だ。盆踊りが行われて、フランクフルトや焼きそばなどの屋台も出る。あくまで町会の行事なので、屋台を取り仕切るのは近所の大人達だ。

「いやー助かるよ。あちこち声をかけたんだけど、みんな都合が合わなくてね。それじゃあ、前払いで話してあげよう。くれぐれも他言無用だよ。なに、そんなに大層な話でもない。ある男の――懺悔みたいなものさ」


* * * * *


 違う。これは懺悔などではない。

 神仏に告白したところで、この罪がすすがれるはずもないのだ。

 だからこれは――悔恨だ。

 ただただ自分の行いを悔やみ、恨み、そうすることで何が変わるわけでもなく。

 悔恨は呪いとなって、今もなお、魂を縛り付けている。



 それは明治四十年の冬。大晦日が間近に迫る、寒い日のことだった。

 当時の松来家には当主の和臣と隠居した祖父母、そして数名の使用人がいるだけで、かつて大地主として名を馳せていた頃の名残はなく、広い屋敷はひっそりと静まりかえっていた。

 当主と言っても、名ばかりのものだ。現在の松来家はただ大きな屋敷に住んでいるだけの平民に過ぎない。三代前の当主が事業に失敗し、あらかたの土地は売り払ってしまった。高等遊民の真似事をするほどの遺産もなく、また下宿として運用している離れも、ここ数年は下宿人が少なくて収入が安定しないため、和臣は大学卒業後、出版社に勤務して糊口を凌いでいる。

 その日も、和臣は定時まできっちり仕事をこなし、上司や同僚と暮れの挨拶を交わして、いつも通りに退社した。

 日が落ちてから一気に冷え込んできたため、帽子を深く被り、コートの襟元を押さえながら帰路を急ぐ。

 そうして帰宅した和臣が最初に気づいたのは、屋敷の異様な静まりようだった。

 いつもなら真っ先に飛んできて「お帰りなさいませ」と迎えてくれる使用人の文は、もう半月も前から風邪で寝込んだままだ。なので出迎えがない寂しさには、もう慣れたつもりでいた。

 片手に携えていた杖を傘立てに突っ込み、上がり框に座りこんで靴紐を緩める。秋口に庭で転んで怪我をしてから、これが習慣になってしまった。もうほとんど治っているから立ったまま靴を脱ぐことも出来るはずだが、一度染みついた習慣というのは恐ろしいものだ。

 それにしても、この静けさは些か妙だ。この時間なら台所で夕飯の支度をしている気配がするはずなのに、それすらもない。いつも一足先に晩酌を始めている祖父の声すら聞こえてこない。

 嫌な予感がして、慌ただしく靴とコートを脱ぐ。ひとまず鞄を置かなければ、と自室へ向かおうとして、ようやくそこで廊下の向こうに人影を見つけた。

「ちよ、何か――」

「ああ、坊ちゃま! 大変でございます」

 和臣のことを未だに『坊ちゃま』と呼ぶのは、かつて乳母を務めてくれた彼女だけだ。すでに六十を超えており、腰もだいぶ曲がってきたが、今も女中頭として松来家の家事全般を取り仕切っている。

「どうした、ちよ」

 駆け寄ってこようとする彼女を制し、こちらから近づくと、ちよは和臣の手をむんずと掴んで、そのまま小走りで廊下を進み出した。

「ちよ、そう引っ張るな。大丈夫だ、一人で走れる」

 まるで幼い頃、お稽古の時間に間に合うようにと、手を繋いで走ったあの頃のようだ。ちよは実に俊足で、ともすれば置いていかれそうだった。今日もそうだ。足の怪我が治りきっていないことなどすっかり忘れた様子で、ぐいぐいと手を引いてくる。

「一体どうしたんだ」

 問いかけても、ちよは振り返ってさえくれない。そのまま引っ張って行かれたのは奉公人達の暮らす二階建ての離れで、一階奥にある小部屋の前まで来たところで、ようやくちよは足を止めた。

「お入りください」

 ただそうとだけ言って、静かに襖を開ける。

 普段は空き部屋なので、家具の類は何一つない。ただ、部屋の真ん中に布団が敷かれていて、その側に小さな火鉢が置かれている。そんなものでは部屋全体を暖められるわけもなく、コートを脱いでいた和臣は、忍び寄る寒さに肩を震わせた。

 そんな冷え切った部屋の、冷え切った布団で、文が眠っていた。

 ああ、そうだ。眠っているのだと思った。

 酷い咳が続いていて、ろくに眠れていないと言っていた。ようやく咳が治まって、深い眠りに就いているのだと、そう思いたかった。

「文、帰ったよ」

 努めて明るい声を出し、そっと枕元に膝をつく。眠っているのだ、起こしてはかわいそうだから、挨拶をするだけにしよう。

 この半月ですっかり窶れてしまった白い顔。いつもはきちんと結い上げている髪を下ろしているせいか、随分とあどけなく見える。奉公に上がったばかりの、まだ子供といっても差し支えない頃に戻ったかのようだ。

 文が松来家にやってきたのは五年前。まだ十四歳になったばかりだった。両親を流行病で亡くし、しばらくは親戚の家をたらい回しにされていたという。

 当時の和臣は大学生で、家には祖父母と両親、そして年の離れた弟・正臣が暮らしていた。幼い正臣の手を引いて庭を散歩する文の姿を、なぜかよく覚えている。

 文はとにかく働き者だった。働くことが楽しい、必要とされることが嬉しいと、そう言っていた。両親を亡くしてから、色々と辛い目にも遭っただろうに、それらを嘆くことなく、いつも朗らかに笑っていた。

 彼女が泣いたところを見たのは、ただの一度きりだ。

 三年前、和臣の両親が事故で亡くなったと知らされた時、呆然と立ち尽くすばかりだった和臣の隣で、文が泣いた。

 わんわんと、まるで幼子のように泣きじゃくる声。それまで堪えていたすべてを吐き出すような、魂の慟哭だった。その激しい感情が、和臣を現実へと引き戻してくれたのだ。

 文が代わりに泣いてくれたので、和臣は努めて冷静に振る舞うことが出来た。こういう時だけしゃしゃり出てくる口やかましい親族を上手いこといなし、葬儀と相続に関するゴタゴタを乗り越えることが出来たのは、ひとえに文のおかげだ。

 結局のところ、松来家の家督は和臣が継ぐことになった。まだ十歳になったばかりの弟は体が弱かったこともあり、郊外に住む叔母夫婦の元で育てられることになって、そうして松の屋敷には年老いた祖父母と和臣、そして数名の奉公人が残った。

 松来家の懐事情は重々承知の上で、ちよも、そして文も残ってくれたのだ。

 それからは、穏やかな日々が続いた。和臣は日々仕事に追われながらも、たまの休日は趣味の庭いじりに没頭し、文は家事の傍ら、その手伝いをしてくれた。文は字が上手くて、悪筆な和臣に代わって庭仕事の記録をつけてくれたりもした。

「ああ、そうだ。椿がそろそろ咲きそうなんだ。文が好きな、白地に赤い筋の入ったやつだ。咲いたら真っ先に教えようと、そう思って……」

 のろのろと頭をもたげ、窓に目をやる。

 固く閉ざされた障子の向こうには、冬支度をした裏庭が広がっている。開け放てば、寝たままでも見られるだろうか。

 ああ、でも駄目だ。庭なんて見せたら、また「お掃除をしませんと」なんて言って、病を押してでも掃除に出てしまう。

「文、私の足もほとんど治ったんだ。無理に掃除をする必要なんてないのだからね」

 秋雨の合間を縫って庭仕事をしようとした和臣が、濡れた落ち葉で足を滑らせたのは、もう二月も前の話だ。幸いにも骨折には至らなかったが、おかしな風に捻ってしまったのが良くなかった。最初の一週間は杖なしでは歩けず、ほとんど痛みを感じなくなった今も、杖がお守り代わりになっている。

 庭で転んだのは自分のせいだ。長雨で中断を余儀なくされていた庭仕事が出来るとあって、つい子供のようにはしゃいでしまって、足下がおろそかになっていた。それだけのことなのに。

 文は掃除が行き届かなかったせいだと己を責め続け、以来雨の日も風の日も、暇さえあれば庭の落ち葉を掃き続けた。

 その挙げ句、たちの悪い風邪を引き込んで、半月も寝込んでしまったのだ。

「文。早く元気に、なっておくれよ」

 応えは、ない。文は静かに、そう――静かに、眠っている。

 認めたくないのに、信じたくないのに。瞳から熱い滴が零れて、白い頬に落ちる。緩やかな曲線をつう、となぞって、静かに枕を濡らす。

 胸の上で組まれた白い手に触れれば、それは氷のように冷たくて。

「文、どうして……」

 ただの風邪ではなかったのか。すぐ治るのではなかったのか。

 どうして、どうして、どうして――


 どうして、私は間に合わなかったのか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る