銭湯エルフと恋の夏
チョコレ
(1)エルフと銭湯
俺は、子供の頃からばあちゃんの銭湯が好きだった。湯船を磨くスポンジの感触や、古びたタイルを拭くタオルのざらつき。どれも単純で手間のかかる作業だけど、不思議と心が落ち着く瞬間でもあった。夏休みや冬休みには泊まり込んで手伝うのが恒例で、そのたびにばあちゃんが「助かるわ」と嬉しそうに笑ってくれるのが、何よりの報酬だった。
だけど今では、事情が大きく変わってしまった。父は海外に長期出張、母はそれに同行。兄は大学で一人暮らし。俺は家でひとり取り残される形になった。だから、ばあちゃんを手助けするという名目で、この銭湯に住み込むことになった。学校はバイト禁止だけど、ばあちゃんの世話も兼ねているということで特別に許可をもらっている。正直、俺も一人で家にいるより、この銭湯の温かい雰囲気の中で暮らす方がずっと気楽だった。
そんな銭湯が休館の日の夕方。茜色の光が浴場の窓から差し込む中、俺はいつものように掃除をしていた。湯船を磨いてタイルの隙間を丁寧に拭き取る。水滴がタイルを滑り落ちる音だけが響く静かな空間は、時間がゆっくりと流れているような錯覚を覚える場所だ。この一人きりの作業は、いつの間にか俺にとって大切なひとときになっていた。
でも、その静けさが突然、崩れる瞬間がやってきた。
「…なんだ?」
湯船が淡く揺れる光を放ち始めたのだ。最初はかすかな光だったのが、次第に強さを増していき、浴場全体を包み込んでいく。光の揺らぎが湯気越しに映り、水面に不思議な模様を浮かび上がらせている。その異様な光景に、胸がざわついて息が浅くなる。
「うわっ!」
次の瞬間、光がふっと消えた。そこに現れたのは――銀髪の少女だった。
湯船の中で小さく身を縮めている彼女は、俺よりも一回り小柄で、年齢はさほど変わらないように見える。それでも、彼女から漂う雰囲気はどこか現実離れしていて、この世のものとは思えない美しさを纏っていた。腰まで届く銀髪は湯に濡れても尚輝きを失わず、まるで月の光をそのまま髪に閉じ込めたようだった。そして、長く尖った耳――これを見た瞬間、彼女が普通の人間ではないことを直感した。
彼女の大きなエメラルドグリーンの瞳が、怯えながらもこちらをじっと見つめてくる。瞳の奥に宿る、精一杯の勇気と不安。そのアンバランスな表情に、俺はなんとも言えない胸のざわつきを覚えた。
純白の装束を身にまとった彼女の姿は、どこか幼さと神秘さが同居していた。装束は彼女には大きすぎるらしく、袖が余って手が隠れてしまっている。濡れた布地が湯の水面越しに透け、細い足がちらりと覗くたびに、思わず視線を逸らしてしまう。それでも、その無垢な姿は、守ってあげたくなるような不思議な可憐さに満ちていた。
「…あ、あの、君…誰?」
混乱と動揺を押し隠しながら、なんとか言葉を絞り出す。
「…エリサン・クルヴァルト・ティオール…?」
耳に届いたのは、まるで詩のように美しい響きの名前だった。異国の風を感じさせるその言葉に、俺はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
俺の困惑を察したのか、彼女は少し息を吸い込み、震える手をゆっくりと前にかざした。その手から淡い光が放たれ、柔らかく周囲を包み込むように広がっていく。
「こ、これでどうでしょうか…?」
ぎこちないながらも、俺の言葉に合わせて話そうとするその声には、どこか切実さが滲んでいた。その声に、俺の胸のざわめきはさらに深まっていく。
「えっと…つまり、俺の言葉が分かるようになったってことか?」
とりあえずそう聞き返すと、彼女は小さく頷いた。
「さ、先程まで召喚獣の実験をしていたところ…逆に私が召喚されてしまって…見たこともない場所に来てしまいました…の」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が一気に混乱に包まれた。
「…召喚?逆召喚?」
まるで聞き慣れない言葉を繰り返しながら、俺はフィリアの顔を見つめた。彼女は少し怯えたような表情を浮かべていたが、その声にはどこかプライドを感じさせる響きがあった。にもかかわらず、その瞳の奥には不安が透けていて、彼女が無理に堂々としているのが伝わってきた。
「そ…そうなんですの…わ、私はエルフ族の…フィリアと申します…」
名乗りながら、小さな胸を少し張った彼女。その仕草がなんとも健気で、ぎこちないけれど必死に自分を奮い立たせているように見える。その姿に、俺は自然と視線を引き寄せられてしまった。
「…エルフ…?」
思わず疑問の声が漏れる。
「は、はい…その…そ、そうです…!」
彼女は微かに頬を染めながらも、目を逸らさずに返事をしてきた。けれども、その声にはどこか震えが混じっていて、強がっているのがわかる。
「も、もちろん、迷惑をかけるわけにはいきませんので…」彼女は一瞬視線を逸らしながらも、自分を奮い立たせるように声を強めた。「い、今から、もう一度召喚魔法を展開して、元の…元の世界に戻らせていただきますね…!失礼しました…!」
そう言って湯船から立ち上がろうとするが、彼女の体はふらつき、そのまま再び湯に倒れ込んだ。
「だ、大丈夫か!?」
慌てて駆け寄ろうとしたその瞬間、彼女は水面から顔を出し、再び立ち上がった。けれども、自分の体を見下ろした彼女の表情は、次の瞬間驚愕に染まった。
「あ、あああ…!こんなに…幼い姿に…!」
彼女はぶかぶかの装束の袖をつまみながら、小さく震える声で呟いた。その震える手元や、驚きで見開かれた瞳から、彼女が今の自分の姿にどれほどショックを受けているかが痛いほど伝わってくる。
「マ、マナがこんなにも減ってしまうなんて…!異界に飛んで来た影響が…これでは、召喚魔法を展開する力が…ありませんわ…!」
声を震わせながら言葉を続ける彼女。湯気の中で縮こまるその姿は、自らを高貴な存在と語る彼女の言葉とは裏腹に、どこか無防備で頼りない雰囲気を漂わせていた。そのギャップが、俺の中に奇妙な感情を芽生えさせる。
「俺にはよくわからないけど…要するに、そのマナとやらが回復しないと帰れないってことか?」
俺の質問に、フィリアは小さくうなずいた。その仕草はどこか小動物みたいで、思わず目を離せなくなる。
「…そ、その通りでございますの…」
怯えたようにこちらを見上げるフィリアの瞳には、不安の光が揺れている。その頼りなさが、俺の中でじわじわと「放っておけない」という気持ちを膨らませていく。まるで迷子の子供みたいだ。
「でも…こ、この世界の理が、私のいた場所とは違うようで…そもそも、マナが自然に戻るかどうかもわかりませんし…この小さくなってしまった体も…いつ元に戻るのか…」
彼女は自分に言い聞かせるように小さな声で呟いた。その震える声に胸がギュッと締め付けられるような感覚を覚える。彼女の不安と戸惑いが、言葉の端々ににじみ出ているからだ。
「そっか…けど、こっちの世界にはエルフなんて見たこともないから、外に出たらすごく目立つだろうな…」
俺の言葉に、フィリアの表情はさらに不安げに揺れ、その瞳がかすかに潤んだように見えた。
「私のいた場所では、エルフ族以外にもドワーフや他の種族も共にいるのが普通でしたのに…こ、ここでは私だけが異質なのですね…。捕まったり、どこかへ連れて行かれてしまったら、どうしましょう…」
彼女の頼りない声が静かに響き、俺は自然と眉間に力が入る。普通なら「関わらない方がいい」って理性が言いそうなものだけど、この怯えた姿を目の前にして、そんな冷たいことはできなかった。
「…とりあえず、今はここにいるしかないよな。どこかに行くにしても、目立たないように動くのは難しそうだし」
フィリアは小さくうなずき、その瞳にほんの少しだけ安心の色が戻ったようだった。でも、その肩がまだかすかに震えているのが目に入る。その姿に、俺の中で何かが引き締まるような気がした。「守らなきゃいけない」とでも言うような、言葉にならない衝動だ。
「その…俺、まだよく分かってないんだけどさ、その召喚魔法って、準備にどれくらい時間がかかるんだ?帰るためには、何か特別な条件とか必要なのかな?」
フィリアは一瞬考え込み、少し不安げな表情を浮かべた後、意を決したように小声で呟いた。
「…もし、この世界にも月があるなら、その満ちるときの力を借りれば帰れるかもしれませんの…。どうにか戻らないと…族長様に、きっと叱られてしまいますから…」
その声はわずかに震え、責任感と不安が交じり合った響きが胸に響く。
「月ならあるぞ。ちょうど昨日が満月だったんだ」
俺がそう伝えると、フィリアの顔がみるみる輝き始めた。その瞳には、さっきまでの不安が嘘のように消え、喜びと安心が広がっていくのが見て取れる。
「た、助かりましたわ!この世界では、マナの気配が驚くほど希薄なのですが…でも、月ほどの力があればきっと何とかなると思いますの…!ありがとうございます、本当に…」
小さな拳をぎゅっと握りしめ、胸の前で祈るように目を閉じるフィリア。その姿は儚げで、でも確かに希望の光が差し込んでいるように見えた。
俺も少しホッとしたが、彼女が再び不安げな顔を浮かべて、「ただ…次の満月まで、私はどうやって…この世界で生きていけばよいのでしょうか…」と呟いたとき、胸の奥に新たな重みがのしかかった。
この世界での生活なんて、彼女にはまだ想像もつかないはずだ。外に出れば目立つし、下手をすれば危険な目に遭うかもしれない。でも、だからと言って「見捨てる」なんて選択肢は最初から頭になかった。
少し考え込んだ後、意を決して言葉を口にした。
「とりあえず、夏休みの間だけならここに住んでいてもいいよ。部屋も空いてるしさ。」
それは、ばあちゃんにもまだ相談していない話だったが、住み込みで手伝っている俺がしっかり頼めば、きっとばあちゃんも許してくれるに違いない。そんな自信と希望を胸に、さらに言葉を続けた。
「次の満月はたぶん来月末くらいだから、ちょうど夏休みの終わりごろだな。それまでなら、俺もなんとか面倒を見てやれると思う。」
そう口にした瞬間、フィリアの顔がぱっと明るくなった。小さな手を胸の前でぎゅっと握りしめ、大きな瞳でキラキラとこちらを見上げてくる。まるで初めて希望の光を掴んだかのような、その無垢な喜びが表情にあふれていて、俺は思わず目を逸らしてしまった。心の奥が熱くなるのを感じながら、急に照れくさくなり、軽く咳払いをして話題を変えることにした。
ふと、ばあちゃんが銭湯の掃除や接客でため息をついていた姿が頭に浮かぶ。「もっと人手がいればねえ」とぼやいていたあの場面が、なんだか現実味を帯びて蘇ってきた。銭湯の営業がいかに大変かは、俺自身が手伝っていても身にしみるくらいだ。フィリアがここで手伝ってくれるなら、きっと彼女にとっても、俺たちにとっても、悪くない日々になるだろう。
「ただし、条件がある。ここに住むなら、銭湯を手伝ってもらわないとな。」
少し真剣な顔を作りながらそう告げると、フィリアは「て、手伝う…ですか?」と戸惑ったように返してきた。
「要するに…『働く』ってことだよ。」
「…働く?」彼女は小首をかしげて不思議そうに俺を見つめる。その仕草がまるで小動物みたいで、微笑みそうになるのをぐっと堪えながら、俺はなるべく分かりやすく説明を続ける。
「働くっていうのはさ、自分の力を使って、誰かのために何かをすることだよ。俺がこうして掃除してるのも、銭湯を綺麗に保つためでさ。それが誰かの役に立つってことなんだ。たとえば、お客さんが気持ちよくお風呂に入れるようにね。」
フィリアは真剣な顔で俺の話を聞いていた。その大きな瞳には、初めて聞くことへの戸惑いと、ほんの少しの興味が混じっているように見えた。
「この銭湯は広いから、一人で掃除したり、お客さんの対応をしたりするのは結構大変なんだ。だから、手伝ってくれるとすごく助かるんだけど…どう?」
彼女は一瞬考え込むように視線を落とし、それからかすかに頷いて小さな声で「…わ、わかりましたわ」と答えた。その表情にはまだ戸惑いが残っていたけど、一生懸命に理解しようとする姿勢が伝わってきて、なんだか胸の奥が温かくなる。
しばらくして、フィリアがまた不安そうに俺を見上げ、「ど、どうすれば…いいのでしょうか?」と、か細い声で尋ねてきた。その頼りなげな姿に、胸がぎゅっと締めつけられるような気持ちになる。俺もなんとかその不安を取り除いてやりたくて、できるだけ優しく教えてやろうと心に決めた。
とはいえ、濡れた白装束のままでこの見知らぬ世界に飛ばされてきたばかりの彼女に、「今すぐ働いてくれ」と言うのは無理がある。それに、正直、あの透けた布地越しに視線を定めるのはどうにも気まずくて落ち着かない。気まずさを振り払うように、俺は思い切って提案した。
「ともあれ…その…服が濡れたままだと…俺もどこを見ていいか困るからさ。まずはお風呂から上がって、着替えようか。」
慌ててバスタオルを彼女に手渡し、「ここで待ってて」と伝えると、俺は押し入れへ向かい、懐かしい中学時代の体操服を引っ張り出した。少しシワが寄っているけど、選択肢はこれしかない。白いTシャツと紺色のハーフパンツを手に取りながら、正直、彼女にこれを着せるのが本当に正解なのか悩みつつも、時間をかけている余裕はなかった。
そっとフィリアに渡すと、彼女は目を丸くして、まじまじとそれを眺めた。「これが…この世界の服ですの?」と、小さな声でぽつりと呟く。その疑問に対し、俺は「まぁ、これが普段着ってわけじゃないけど…とりあえずね」と答えるしかなかった。
彼女が着替える間、俺はなんとも言えない気まずさを抱えながら待つことに。妙な緊張感で胸がざわつき、時計を見るでもなく、視線を彷徨わせていた。
しばらくして、「着替えましたわ…」という控えめな声が聞こえた。振り返ったその瞬間、俺は完全に言葉を失った。
白いTシャツは少し大きめで、細い腕を包むようにダボッとしている。袖の端が軽く揺れるたびに、彼女の華奢さが余計に際立って見えた。裾は腰回りでふんわりと膨らんで、まるで柔らかな布が彼女を優しく包み込んでいるみたいだ。紺色のハーフパンツは彼女の膝にかかるほど長く、どこかおっとりとした雰囲気を醸し出していた。
服のサイズが合っていないはずなのに、不思議とそのアンバランスさが絶妙にフィリアに似合っている。彼女の持つ純粋さや儚げな雰囲気と、ぶかぶかの服が絶妙にマッチして、まるで無邪気な小動物を連想させる。いや、小動物なんて言葉では足りない。今の彼女は、何か守るべき存在そのものみたいに見えた。
「これで…大丈夫でしょうか?」
控えめにそう尋ねながら、彼女はTシャツの裾をそっと指先でつまんでいる。そのたどたどしい仕草が、彼女の緊張や戸惑いを物語っていて、同時に妙に愛おしく思えた。まるで新しい環境に足を踏み入れたばかりの子猫みたいで、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。
やがてフィリアは、少しほっとした表情を浮かべて、「安心したら…おなか…空きましたわ…」と小さくつぶやいた。そのか細い声が妙に愛らしく、俺は胸の奥で優しい感情が広がっていくのを感じた。
ふと外を見ると、茜色に染まっていた空は深い藍色へと変わり、夜の静けさがあたりを包み始めていた。これからどうなるんだろうという不安が胸をよぎったが、目の前のフィリアを見ていると、それ以上に、温かいご飯でも食べさせてやりたいという気持ちが湧いてきた。彼女のじっとした視線を感じつつ、俺はキッチンへ向かい、ばあちゃん直伝の料理を準備し始めた。
これが、夏の満月が再び訪れるまでの、彼女との一か月だけの不思議な共同生活の始まりだった──
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