『文学歴史学』pp.38-42:ある女貴族の日記 (現代語訳)
今宵は、珍しい来客がございました。
丁度、外でこおろぎが鳴く時分になった頃でした。
「お久しゅうございます」
私の声の先には、紀貫之公がいらっしゃいます。私の親戚でございます。
「どうされましたか、遠路はるばる」
「近いうちに、都を離れることになった。その前に、お前の声を聞こうとね」
「まあ」
簾越しですけでれど、あの方のお顔は分かりました。私を揶揄っていることも、よく分かりました。
「さて。実はお前に、見せたいものがあってだな」
紀貫之公は、一編の読み物を私に見せました。それは、『かぐや姫』というお名前でした。
「かぐやの、姫……?」
「月が綺麗な夜に書いたから、そうなったのだ」
それは、紀貫之公が書いた物語でございました。
紀貫之公は私に仰いました。この姫はつまり、私を真似て書いたのだ、と。
「この話を書く時に、お前のことを思い出したのだ。ほら、お前も並々ならぬ『怨み』を抱えているだろう?」
紀貫之公の仰ることは、じきに分かりました。かぐやの姫が五人の煩い人に言い寄られるお話で、明らかに藤原公に似た人物がいらっしゃったのです。
「……このような憂さ晴らしは、よろしくありません」
私も、知ってはおりました。藤原公の台頭が、紀貫之公の出世の道を閉ざしたことを。それに藤原は、人の怨みを買うようなことばかりしますので、紀貫之公のお怒りも当然のことでした。
「お前とて、あの藤原公が出しゃばっているのは、気に食わないのであろう」
「それは、男君のなさるお話です」
「綺麗ごとを並べおって」
りりり、と鈴虫が鳴きました。
「なに、奴らをどうこうしようと、考えている訳ではない。多少の気晴らしをしたところで、バチは当たらぬだろうよ」
「何をなさったのです」
「少し、な」
紀貫之公は、言葉を濁されました。ですが、私には分かりました。
このご本、相当な呪いが掛かっています。道理で、禍々しいのです。
「それは、お前にやるとしよう。私のことを、思い出せるようにな」
「ご冗談を」
紀貫之公が去った後も、怨み節は残りました。これを書いている今も、少し、恐ろしいのです。
このご本は、私の心の奥深くに、閉まっておくことにいたしましょう。「うつつ」が「まこと」にならないように。
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