Jim(9)

 再びICUと呼ばれる病室の中、母親の脇に腰掛けたケイトは、彼女の手を握り、呼びかけている。

「お母さん、必ず良くなるよ。だから心配しないで、今はゆっくり体を休めてね」

 自分に残された時間を意識しながらも、どこか彼女は、母親に残されている時間の方が、自分のそれよりも遥かに長いことを喜んでいるようだった。

 そしてケイトは、マギーとの別れのときと同じように、切なさと深い悲しみ、そして大きな覚悟を持って母親の頬に口づけをする。

 私には、ケイトの死を逸らしてやることはできない。

 しかし、今の彼女の望みを最大限に聞いてやることができるなら、きっとそれは、残された時間を精一杯家族と共に過ごすことだと考えた。自分の首を絞めるルールなど捨て去り、一歩踏み出すことができれば、その望みは叶えられると私は考えた。

「ケイト。残念だが君の肉体の死は回避することはできない。しかし、その死に方は、君のこれからの行動で変わるんだ」

 静かな昇降機の中で、私は言った。

「それならば、その最後の時間まで家族と過ごすのが、君の望みに合っているんじゃないのか?」

 ケイトは私の進言を聞いたまま黙って何かを考えていたが、急に振り返ったかと思うと、想像もしなかった驚きの言葉を口にした。

「ジム! あなたの疑問の答えが見つかったかもしれないわ!」

 なぜこの状況で、彼女が自分のことではなく、私の疑問の答えを探していたのか理解できないが、とにかく私はケイトに訊ねた。

「私の……疑問? ヴァレリー・クーパーのことか?」

 彼女はまっすぐ私の目を見て肯くと答えた。

「きっと、あなたの疑問の答えは『愛』なんだと思うわ」

「愛……」

 私はその言葉をなぞるように呟き、そしてあの日のヴァレリーの言葉を思い出す。

「ヴァレリー・クーパーは私に言ったんだ。私の疑問の答えは、『あんたも人の親になればわかる』と……その答えが愛か?」

 ケイトは黙って力強く肯く。

『愛』という言葉の意味を知っていても、その『愛』が持つ、底知れぬ力までは、到底私たちには理解できない。

 ケイトが言うように、私の疑問の答えが『愛』なら。

 ヴァレリーはその愛のために、ドニーに殺害される道を選択し。

 ロベルトは家族への愛のために、その場から離れるのを拒絶し。

 サマンサの夫であるジョゼフは、妻への愛のために機械を止めることを選択し、そしてサマンサは、夫のその愛を受け入れた。

 依然、『愛』の持つ計り知れない力は理解できなくても、『愛』には、目には見えない様々な形があり、それにより人は思いもよらない力を発揮する。

 曖昧でも、ケイトの答えによって気付かされた『愛』という言葉の奥深さに、私はサマンサの言った言葉を思い出す。

「愛って、それ以上先がなく、そして、最果てもない。そんな絶対的なものだとわたしは思うわ。神のようにね」

 言葉だけではすべてを理解することはできないが、それでも私は満足だった。以前に比べ、また一つ人間というものを理解できたような気がしたからだ。

 昇降機はやがて地下駐車場と呼ばれるフロアで止まり、ケイトは迷わずそこへ降り立った。結局、私の提案は彼女に受け入れられなかったが、これも彼女の『愛』によるものなのかもしれない。

 地下駐車場では、レイナーと呼ばれる小柄な女性が車の前でケイトを待ち構えていた。自宅に荷物を取りに寄ってから、どうやらこの街のどこかにある施設にケイトの身を預ける段取りがついているらしい。彼女たちは車に乗り込むと、地下駐車場を出て、ケイトの自宅へと車を走らせた。

 街を照らした太陽はすっかり沈み、外の世界は星空輝く夜へと変化している。街を燈す明かりと、夜空の星明かりの間を潜り抜けて、私はケイトの乗る車を追った。

 やがて車が速度を落とし、立ち寄ったその場所が、昼間ケイトと出会った『坊主の公園』の側であることを知り私は少し驚いていた。

 自宅の中へと入っていく二人の後ろに続き家の中へと入ると、一匹の犬が警戒するように私へ向けて吠える。

「ごめんね! チク・タク! あなたを置いていくような真似をして!」

 ケイトは山のように盛られた餌を差し出すが、チク・タクと呼ばれた犬は、依然として私を排除しようと牙を剥き出して吠え続けていた。

「君の言っていた弟とは、彼のことだったのか?」

 私が訊ねると、ケイトは無言のまま目で肯いた。

 動物には、人間よりも敏感で優れた感覚が備わっていると聞いたことがある。チク・タクと呼ばれた弟は、ケイトのように私を目や匂いで捉えている訳ではなさそうだったが、確かな違和感には気づいているようだ。

 彼が吠え続ける中、荷物を纏めていくケイトに向かってレイナーが言った。

「ケイト? 施設に犬は連れて行けないわ」

 ケイトの表情は曇り、レイナーと話し合った。やり取りを聞く限り、どうやら弟分であるチク・タクと行動を共にすることはできないらしく、ケイトはあからさまな不信感を抱き、レイナーに向かって不服を唱えた。

 そのときだった。ケイトはチク・タクを呼び付けると、手に持っていた大きな荷物をレイナーに投げつけ、家の外へと走り去った。

「ケイト! 待ちなさい‼」

 バランスを崩し、その場に倒れ込んだレイナーが呼び止めるが、ケイトは振り返ることはなかった。

 私はケイトを追った。彼女が家を飛び出し、この街を走り回っている間中、彼女は一瞬たりとも後ろを振り返らずに走り続けた。ときには身を隠し、ときには来た道を戻ったりもしたが、それでもケイトは決して後ろだけは振り返らなかった。

 まるで何かに取り憑かれ、その表情は不安と怯えに支配され、得体の知れない恐怖に追われているように、彼女は彼女に覆いかぶさる闇を振り払いながら走り続けている。

 今彼女は、間違いなくこれから自分に訪れる死の恐怖と戦っている。決して逃れることのできない迫り来る死に対して、彼女はそれに抗うように必死に走り続けている。

 ロベルトのように、家族を残し、この世を去らなくてはならないのは本当に辛いだろう。ケイトと接し、彼女の考え方を知り、互いに言葉を交わした分、私はケイトの痛みも、さらには自分の痛みも、今まで以上に特別に感じられた。

 やがて息も絶え絶えになり、走る力も気力も失ったケイトはその場にひざまずき、そして叫ぶように言った。

「ねぇ! ジム! わたし、まだ死にたくないよ! まだ、お母さんにも、マギーおばさんにも、さよならなんて全然言い足りないよ!」

 頑なに家族への『愛』のために、自ら距離を置いた彼女の本音が辺りに響く。

「ねぇ! ジム? 聞いてるの⁉」

 希望の見えない未来に、苛立ちと憐れみの感情を交互に絡めながら彼女は訴える。その小さな肩で、大きく息をしながら。

「もちろん聞いているよ、ケイト。しかし私には、どうしてやることもできないんだ。本当にすまない……」

 ケイトの心の痛みがどれほどのものなのか、私には想像もできない。しかし目の前の彼女と同じく、私の心が涙を流しているのは確かだった。

「オッドは偉いよ……だって……マギーおばさんが悲しまないように、自分の死に目を見せないために大好きな人から離れる勇気があったんだもの!」

 ひざまずき、空を仰ぎ見ながらケイトは叫ぶ。

「おばあちゃんは偉いよ……だって……自分が死ぬってわかってるのに、わたしとお母さんのために残って、もう二度と逃げなくても良いようにしてくれたんだから!」

 ガタガタと震える小さな体と声が、それを見る私の心をさらに締め付けた。

「それに比べて……わたしは……」

 力なく、ケイトは呟いて言葉を止めた。

「それで良いじゃないか……」私はケイトに歩み寄ると、彼女の視線まで腰を下ろして言った。「ケイト。君が話してくれただろう? 『愛』というのは、とても大きな箱で、その箱の中にまた様々な形の『愛』が入っていると……」

 死への恐怖に追い詰められ、ここに来て初めて語れる本音があるのなら、私はそれを見守ってやりたいと思った。

「その大きな箱の中に、君が持つような、意固地で弱く、脆い形の物が入っていたって良いじゃないか。大切なのは、それに気付いた今、何をするかだ」

 私がそう話すと、彼女はきつく目を閉じたまま何度も肯き、そして答えた。

「お母さんに会いたい! マギーおばさんに会いたいよ!」

「それならば、君のしたいようにしよう」

 立ち上がるように促すと、突然彼女の電話が鳴った。ケイトは涙を拭って電話に出ると、相手の声を聞き、その瞬間に拭ったばかりの涙を再び溢れさせ、その頬をさらに濡らした。

 ケイトが一体誰の声を聞き、そしてあんなにも緊張から解き放たれた表情で涙を流せるのか。――そんな野暮な質問などせずとも、私には電話の相手が予想できた。

 さっきまで、自分に迫る恐怖に取り憑かれ、見えない何かから逃れるために必死で走り続けた彼女の表情。どうにも逃れることのできない絶望感の中で、初めて自分の本音をさらけ出した彼女の表情。

 その混沌とする闇に捕われたままの彼女に、優しく手を差し伸ばすだけで、その表情を一変させ、その闇からたちどころに這い上がらせてしまうほどの力を持つもの。


 それは、家族の『愛』だ。


 会話の内容からも、相手はマギーだろう。どうにもならない現実に直面しながらも、彼女たちは決して諦めない。まるで、その『愛』の力で奇跡を起こし、本当に逃れられるはずもない、死すら欺いてしまいそうなほどに。

 そして、その奇跡が実際に起こることを願い、できることなら、その奇跡の体験を彼女の一番近くで見守ってやりたいと私は思っている。

 ケイトがマギーとの電話を終わらせると、私は彼女に向かって言った。

「君たちの『愛』には本当に驚かされる。何もできないとわかっていても、思わず手を貸したいと思ってしまうほどにな」

 そう話す私に、ケイトは嬉しそうに微笑んだ。

「チク・タク! おいで! 病院に行くわよ!」

 ケイトは呼びかけ、辺りを見渡した。しかしチク・タクからの返事はなく、私たちがいる周辺には彼の気配すら感じられなかった。

 ケイトは何度もチク・タクの名前を呼び、心配そうに自分の走って来た道を引き返していく。

「待ってくれ、彼のことは私も知っている」

 ケイトを呼び止めて、私は力を使い、彼の魂の気配を探し始める。今、私たちがいる場所を中心に、小さな円を描くように彼を探していき、見つからなければ、その円をどんどん広げて街の中を探していった。

 そして私が彼の魂の気配を捉えたとき、チク・タクは教会のある大通りの向こう側で、怯えながらケイトの助けを待っていた。

「居た。大きな通りの向こう側だ。ちょうど教会がある、向こう側の建物だ」

 私が指差すと、ケイトはその方角に向かって再び走り始め、私も彼女の後に続いた。

 やがてこの道の切れ目が見えると、正面には大きな通りがあり、そこを車が流れていた。

 私の目がチク・タクを捉えるよりも早く、ケイトは彼の姿を捉えチク・タクの名前を大声で呼んだ。なぜ人間である彼女が、私よりもいち早く彼を見つけることができたのか、それが私にはわからなかった。

 私は焦り、叫んだ。

「駄目だ! ケイト! 彼を呼んではいけない!」

 大通りを何台もの車が行き交い、そして距離もあった。本来ならケイトの声など通りの向こう側で怯えるチク・タクには届くはずもない。

 しかし、彼はケイトの声にすぐさま反応し、そして彼女に向かってまっすぐに、車が行き交う大通りを横断し始めた。

「私が彼の気を逸らして、安全な所で足止めする。だから君はここを一歩も動くんじゃない! わかったな⁉」

 私は念を押すようにケイトに告げると、まっすぐチク・タクに向かって大通りを駆け抜けた。

 私の体はこの世のどんな物も通過していく。何台かの車が私を通り抜けた後、私は大通りの中央部分まで辿り着き、ちょうどその頃、同じように車に撥ねられずに無事、中央部分までやって来たチク・タクの進路を塞ぐように私は両手を広げて彼を呼び止めた。

 しかし、彼の目に私は映ってはおらず、やっとの思いで出会えたケイトに意識は集中し、既に私の気配すら気にしている様子もなく、私を突き抜けて彼は再び大通りに出ていった。

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