Cate Cooper(11)

 死後の世界ってのはどんなだろう? せっかく死神なんて人が傍にいたんだからちゃんと聞いておけば良かった。そんなことを考えてるうちに、わたしの意識は遠退いていった。

 なんだか、とても短い夢を見ているような感覚だ。

 満天に輝く星々と、このフィラデルフィアの天の川の間をフワフワと潜り抜けて、わたしはいつの間にかジムに抱えられてお母さんのいるICUに連れて来られている。

 ジムが眠ったままのお母さんに優しくキスをすると、突然お母さんは眠りから目を覚ました。

 ずっとずっと眠り姫だったお母さんの瞳が開いている。

 嬉しくて堪らなくて、目を覚ましたお母さんに抱きつこうとするけど、体の自由がまったく利かない。どうしてだろう。わたしはただぐったりとジムに抱えられたままで、瞼さえも開けられないでいる。目を醒ましたお母さんの代わりに、眠り姫になってしまったのかな?

 お母さんは慌ててベッドから起き上がり、ジムに向かって叫んだ。

「これは一体どういうことなの⁉ ケイトはどうして目を覚まさないの⁉」

 取り乱したお母さんは、ジムから引き剥がすように強引にわたしを抱き寄せると、何度も体を揺さぶりながら名前を呼んだ。

「ケイト⁉ ケイト、起きて!」

 お母さん、お母さん、どうしたの?

 聞こえてるよ。どうしたの?

 呼びかけられるたびちゃんと返事をするのに、わたしの唇は石のように硬くて動かすことができない。

 お母さんの目からこぼれ落ちる温かい涙がわたしの顔に当たると、わたしの心はお母さんの悲しみの涙で溢れて、窒息しそうなほどに苦しい。

 泣き崩れて体を震わせるお母さんに、ジムはこれまでの出来事をすべて話し始めた。

 アーモットでは、おばあちゃんを迎えにきた死神で、実はおばあちゃんは死神を視る特別な力を持っていたこと。

 そのときにお母さんとおばあちゃんのやり取りを見ていたことや、おばあちゃんは自分が殺されるとわかっていても、お母さんやわたしを無事に逃がす道を選択したこと。

 孫のわたしにも、おばあちゃんと同じ力が備わっていたことや、今度はわたしを迎えに来たこと。そして、教会の側の大きな道路で、チク・タクを救うために自分を犠牲にしたこと。

 ジムが説明すると、お母さんは一層体を震わせて泣き叫んだ。

「ケイト! 本当にごめんなさい! 結局私は、あなたのことを守ってあげられなかった! あなたを傷つけるだけで、一生を終わらせてしまった!」

 わたしは、お母さんに傷つけられたこともないし、お母さんに守ってもらいたいと思ったこともない。むしろその逆で、わたしは今まで沢山酷いことを言ったし、今回だってわたしが一緒にいればお母さんを守れたかもしれないって後悔でいっぱいなんだ。

 だから「ごめんね」って謝りたいのは、わたしの方。

 でも、この夢の中のわたしは、ごめんねの一言をつぶやくこともできないし、書いて見せることもできない。

 悪夢っていうのはいつもそう。何かから逃げ出したくても、目的を達成しようとどんなに頑張っても、気がつけば同じ場所をグルグルと回ってるんだ。

メリーゴーランドの白馬みたいに。

 最後にジムは、泣き崩れるお母さんに気になることをつぶやいた。大きな代償を払わなくてはならないけど、まだわたしを救う手立てがあるって――。それを聞いたお母さんは、一体何を企んでいるのか訊ねると、彼は答えた。

「あなたは一体何をしようというの?」

「君の体に、ケイトの魂を定着させたいんだ。しかしこの場合、君の肉体をケイトのために明け渡さなくてはならない。魂が一つの肉体に混在すると、人格崩壊の恐れがあるからだ」

 あまりの話の展開に、お母さんはもちろん、自分の夢とはいえわたし自身までが驚いている。だって、悪夢はいつだって希望も救いもなく、ただもがいてるうちに、すべてを飲み込んで終わってしまうはずだから。

「それはつまり、ケイトを死なせずに済むってこと⁉ 私が体を明け渡せば、この子はまだ生きられるのね⁉」

 さっきまで泣き崩れていたお母さんの表情は嘘のように晴れやかになり、興奮しながらジムに詰め寄った。内容を理解していないと心配したのか、ジムはもう一度念を押した。

「確かに、ケイトは君の肉体で生き続けることができる。しかし、ケイトの代わりに君が死ぬということなんだ」

 ジムの話を聞いてお母さんがなんて答えるのか、わたしにはわかっていた。これから起こることにどんなリスクがあろうとも、大切なのは娘を救えるという事実、それ一つだけ。だから答えは「イエス」しかない。必ずそうだと言い切れる根拠はある。それはわたしもまた、お母さんと同じ考えだからだ。

「もちろんよ。この子を死なせずに済むのなら、私はこの命を喜んで差し出すわ!」お母さんは満面の笑みを浮かべ、喜びで体を震わせた。

「さぁ! 早く初めてちょうだい! 時間がないと言ってたでしょ?」

 身動きしないわたしを、力強く、そして優しく包み込みながらお母さんはジムを急かす。

「最後に一つ訊いておきたい。君たち家族を突き動かすこの『愛』とは一体なんだ?」

 ジムが常に、人間に対して抱いていた疑問。わたしはその答えを愛だと答えた。色や形、大きさの異なるブロックに例えて。

 愛によって、人は勇気だって希望だって、ときには奇跡だって起こせるって思うから。

 その『愛』について、ジムはずっと考えていたんだ。

 ジムの問い掛けに、お母さんは少し考えた後こう答えた。

「わからないわ。でも、理由など要らないと思うの。だって家族なんだから」

 お母さんはジムの目を逸らさず見つめながら続ける。

「家族って、血で繋がるものじゃなく、心で繋がるものだと私は思うわ。だからきっと、あなたはその疑問の答えをどこかに持ってるはずよ。ケイトを救いたいと心から願い、行動したあなたは、既に私たちの家族の一員なんだから」

 お母さんの言葉を聞いたジムは、微かに震えながら目を閉じて黙ったままだった。

 それはまるで、泣いてるように、わたしには見えた。

 嬉しくて、思わず涙が溢れたときみたいに。

 そのとき、わたしは知った。フラミンゴのイラストレーターのときも、ロベルト・クレモント・パークで子供を見ていたときも、ICUでの光りの燈ったカーテンのときも、ジムは自分がこれから看取る死に逝く人たちに対して、悲しいという感情を持って見守っていたということを。

 お母さんが言うように、ジムは既に『愛』を持っていた。きっとその『愛』を、どう表現すれば良いのか知らなかっただけ。

「目を閉じて。今から君の肉体にケイトを定着させ、君の魂を直ちに冥界へと送る」

 ジムはつぶやくと、お母さんに向かって手をかざした。

 わたしにはわかっている。たとえ彼がどれほどに悲しみを感じていても、彼がこれから取る行動にかけらの迷いも含まれていないということを。

 そしてお母さんは、彼にすべてを委ねるように瞳を閉じた。

 その瞬間、温かな光がわたしを包み込むと、まるでゆりかごのように心地好く、わたしをさらに深い眠りへと導いていった。

 もはやこれが夢なのか現実なのかの区別もつかない。わたしはただこの二人のやり取りを眺め、その大きな『愛』に感謝するだけだった。


 漆黒の闇の中を、光の繭に包まれてどこまでもゆっくりと落ちていく。どれほど深くまで落ちていったのかわからない。最果てなんてものもないのかもしれない。

 このまま永遠に、この闇の中を落ち続けるのだろうか。

 そのとき、お母さんの優しい声が聞こえた。

「ケイト。あなたに贈る私からの最後のプレゼントよ。私のお古で悪いんだけど、あなたのことをどうしても死なせたくなかったの。私のお母さんが命を懸けて私を生かしてくれたように、私もあなたの母親としてあなたを守りたいのよ。マギーとチク・タクを頼んだわよ? 愛してるわ、ケイト。誰よりも、他の誰よりも……」

 そうだ、わたしは帰らなきゃいけないんだ!

 マギーおばさんや、チク・タクのところへ!

 目を開けると暗闇は加速し、今度はすごい速さで上昇していった。

黒からグレー、やがて視界が真っ白になると、この耳に飛び込んで来たのはけたたましいアラーム音、そしてわたしの手を痛いくらいに握るマギーおばさんの泣き声と、慌て叫ぶ看護師の声――。

「先生‼ ジェシカ・クーパーが覚醒します‼」

 相変わらず鳴り響くアラーム音に、すぐにチク・タクが吠えに来ることを予期して手足をばたつかせながら目覚まし時計を探すけど部屋の様子はまるで違っている。

「バイタルは⁉」

「意識レベル100から30に上がります!」

 喉にひどい違和感がある。まるで太いチューブを突っ込まれている気分。そいつが呼吸の邪魔をする。踊れないって断ってるのに、ダンスパーティーで無理やりステージに上げられて踊らされてるみたいに不愉快だ。

「ジェシカ⁉ ジェシカ⁉」

 マギーおばさんがお母さんの名前を呼んでいる。うっすらと瞼を開けると、目の前でぼろぼろと涙をこぼすマギーおばさんが見えた。どうしてだろう、わたしをお母さんと勘違いしたまま手を握り、不安そうに見守っている。

「ジェシカさん⁉ 聞こえますか! 今から呼吸を助けるために喉に入れたチューブを抜きます!」

 看護師に呼ばれて慌ててやって来たドクターも、わたしをお母さんと勘違いしているようだ。

「良いですか? 大きく息を吸い込んで、合図したらおもいっきり吐き出してください」

 ドクターは合図もなくチューブをずるずると引き抜いた。息苦しさから解放されるとごぼっと液体が口からこぼれる。周りを取り囲むように置かれた機械のアラームを止める看護師たちと、ペンライトでわたしの目を照らすドクター。

「マギー……おば、さ……」

「意識レベル20から10」

 依然朦朧として、何が起こっているのかまったく理解できなかった。マギーおばさんは表情をひどく崩して喜んでいる。

「わたし……確か病院に向かう途中で車にはねられて……」

 記憶を辿ろうとするとドクターが言った。

「ジェシカさん? あなたは車の事故に遭ったのではなく、爆発事故に巻き込まれたんです。イタリアンマーケットのね」

 ドクターの言葉に、わたしは一瞬、気が遠退いてしまいそうだ。

「それじゃ……あの夢は……」

 すべてを思い出しわたしがつぶやいたとき、部屋の外から看護師の叫び声と、聞き慣れた動物の鳴き声が聞こえた。

「あなた⁉ 待ちなさい! 病院内はペットの持ち込みは禁止よ!」

 小さな犬を抱いた見慣れた人影が部屋のガラス越しに見えたとき、わたしの目には涙が溢れた。

「違うんだ! 聞いてくれ! 彼は決してペットなどではなく、彼女のれっきとした弟なんだ!」

 慌てふためきながら、黒っぽいレインコートの男が看護師に説明している。


 一足遅かったわね。

 アラーム音はすべて、看護師たちが止めてしまったんだから。


 わたしはマギーおばさんの手を強く握り返しながら、心の中でつぶやいた。

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