サイレン

@marita404

第1話

 追い出されたら死ねばいいと考えながら、玄関の鍵を、ポケットの中で手探りしました。突っ込めばすぐ触れるはずですが、そうでなかったのは意識的に浅く手を入れたためです。ワゴンの後部座席を開ける松山くんの手に、待って、と軽く手を重ねたのは母を刺激したくないといういじけた気持ちのためでした。けれど松山くんの、スローロリス似の潤んだ瞳を見ているうちにあっと気がつき、手を離しました。勘のいい彼は勘のよさを謝って、荷物を玄関に運び入れます。家には饐えたにおいが籠っており、松山くんは気をつかって控えめに口で呼吸をしていました。追い出すもなにもわたしの両親はとっくに死んで、位牌は仏壇の中で仲良く北向きに倒れているのでした。


 閉店まぎわにホームセンターとスーパーに駆け込む以外は、ずっと家に籠って泣きました。風呂でも、トイレでも、咀嚼しながらもずっと涙を流し続けていました。食欲はありましたし、よく眠りましたし、シャンプーも好みの銘柄を吟味する欲がありましたが、泣きやむことができないのです。松山くんからは時々電話がありましたが、取ることはできませんでした。着信音が鳴り終わったあとに、気にかけてくれてありがとうとメッセージを送りましたが、返信はありませんでした。


 泣くことだけに一年を使った頃にお向かいのおばさんが、市役所がアルバイトを募集していると教えてくれました。毎夜二階の窓をあけて敷居にしゃがみ、地面を見つめていた頃です。やけにアスファルトが魅力的に見えたのです。お向かいの窓にはどんなに影が落ちていたことでしょう。


 万歳で送り出され、国道を渡り、増築を重ねた古い建物で道に迷ってから、やっと総務課に履歴書を提出することができました。カウンターには直江くんという丸顔の男の子がおり、話している間じゅうわたしの頬を、蚊でも止まっているように注視します。失礼な話ですが、これだけ世界となじまない彼が働けているのならば、わたしもやっていけると思いました。こぼれ続ける涙をハンカチで押さえていましたが、花粉症でしょう、僕もなんですと総務の佐渡さんが笑ってくれたとき、そう思えばいいんだ、というかそうなのかもしれない、と世界が広がるのを感じました。気持ちが泣いていると、なぜ、思いこんでいたのでしょう。


 洗顔、朝食、夜の洗髪、七時五十分には家を出ること、毎日それだけを守りました。市役所の選挙管理委員会での仕事は単調でしたし、期日まで一ヶ月と日数が決まっていることも救いになりました。重い体も、巨大ロボットだと思って操縦すればいいのだとわかってきました。ゆっくりと左足に体重を移動させて、次に右足を水平に押し出す、正しい呼吸のためには天井のレバーを引きました。最初の土曜日にしまむらに行き、チノパン二本とシャツを三枚、下着と靴下を三組ずつ買って、制服のようにそればかり着ていました。ダンボールの中でぎゅっと縮まった、以前の洋服を引っ張り出す力はありませんでした。


 箱だらけの狭い部屋でわたしはいつも横になっていました。大き過ぎるウールのコートを幾重も着せかけられたようにいつでも疲れていました。わたし自身の中では海辺のお地蔵さんのイメージでした。彼らは愛によって重ね着をしていましたがわたしはなぜかわかりませんでした。

 充電コードでぐるぐる巻きになりながらアイフォンでネットの文字をただ眺めていました。夜十時を過ぎるときまって画面に小さな蛾がぶつかりました。サスペンス映画のように壁いっぱいに黒い影が踊り、わたしは肩甲骨で床をにじって、蚊取りマシーンのスイッチを入れました。加熱された芯が殺しと香りの成分を吸い上げ、拡散して、蛾を落します。そのぽたりという案外水っぽい音を聞いてからまたにじり、スイッチを切りました。一晩に六度オンオフを繰り返した日、ふいに優しい蛾がわたしにつきあってくれているのだと気づくようなこともありました。


 一ヶ月後、選挙が終わり市役所がわたしの雇用を更新しました。体力も労働の感覚もずいぶん戻って来て、仕事があるということをありがたく感じはじめていた頃でした。洋服もともだちもすこし増えていました。

 総務課で更新の手続きをして、事務所に戻ったときにリーダーの天野さんの声が聞こえました。あーあ、明日からまた職探しか、柿火手(かきほのて)さんはいいなあ、なんであの子なんだろう、と。わたしは深呼吸をして、十秒待って、足音をさせました。こういったことで傷つくほど若くはなかったし、天野さんが傷ついていることも十分わかっておりましたので。

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