第三幕 壱
物心ついた時には「コジキ」と呼ばれていた。
他にも「ミナシゴ」「ガキ」「コゾウ」「イヤシイ」……それらが名前ではなく、ただ事柄を指す単語だと気付いたのは、もう少し後になってからだった。
生まれ持った名前はなく、しかし名付けてもらえるほど親しい間柄の者もなく。
他人の真似事をしながら、時に獣同然に這いつくばりながら、なんとか生き延びてきた。
死にたくなかった。ただそれだけだった。
隙間風を感じるようになったのはいつからだろうか。気付いたときには体の中を吹き荒れていた。
止める方法はわからなかった。成長して言葉を覚え、人々の間に溶け込めるだけの演技をして、それでも隙間風は止まなかった。
どうしたら止められるのか。
あてどなく彷徨っている中、ふと噂を聞いた。
血に飢えてひとりでに歩き、腕利きの武将たちを殺して回っている妖刀の話。それは武人のみならず、非力な民をも震え上がらせていると。
面白そうだと思った。
その妖刀の話は眉唾物だが、その名を借りて暴れまわるのはいいかもしれない。
ちょうど進む先には栄えた国がある。あそこをたった一人で滅ぼせたら、さぞ痛快だろう。この隙間風も止むかもしれない。
妖刀の名は村正。
◆ ◆ ◆
ニルウェルを脱出して一週間後。
帰還して早々に儂らは会議室へ連行された。
拘束こそされていないが、雰囲気は罪人を役人の前へ引き立てるあの時に似ていて、つい懐かしいと思ってしまった。
普段刀の姿でいる儂だったが、今回ばかりは円滑な話し合いのために顕現させてもらった。兵士たちが一様に戸惑っていたが、憔悴したアリシアの姿に渋々許可が下りた。
会議室に入ると、途端にクレアとラルフが緊張し始めた。ここにいるのが軍の上層部だというのは、胸の勲章などで理解できる。が、上官相手にも物怖じしないラルフが背筋を伸ばすって、どんな階級の奴なんだ?
「おい、どうした」
小声で呼びかけると、ラルフが同じ声量で返した。
「気付いていないんですか? 正面にいる人、カルロス・ワイズ元帥ですよ。軍のトップですよ!?」
息を呑む。
たしかに一人だけ服装が違うと思っていたが、まさか軍の頂点にいる元帥がお出ましになるとは。
……あれ? ひょっとしてかなり拙い状況なのか?
その予感はすぐに当たった。
「随分と派手にやってくれたじゃないか」
扉が閉められると、待っていたかのように上層部の一人が口を開いた。
それを皮切りに様々な言葉が飛び出す。
「ニルウェルを火の海にするなど」
「あの街は交易と防衛の要だぞ」
「周囲に内乱だと思われたらどうする?」
「魔剣の名は伊達だったというわけか」
――まあ、聞いているこっちが呆れるくらい嫌味と嘲笑と罵倒の嵐。独壇場と言うわけではないが、口を挟んでもいなされるのが目に見えているから黙っている。ここぞとばかりに揚げ足を取りまくるが、聞いている側としては痛くも痒くもない。むしろこいつらの言葉一つひとつが予想を確信に変えてくれる。
「お言葉ですが」
クレアがたまらず声を上げた。
「我々は魔剣の捜索、あるいはマイルズ・アンカーソンの討伐ではなく、ニルウェルに駐留している部隊からの定期連絡が途絶えた理由を探るために派遣されました。必要な情報が開示されていない状態で魔剣と接触すれば、撤退はやむを得ないかと」
「必要な情報が必ずしもあるとは限らないだろう?」
上層部の一人が意地の悪い顔をしながら返す。ああやっぱり。こいつらわかってて言っているな。
「君らを派遣した先にたまたま魔剣があった。しかし君らは魔剣の回収はおろか、そのまま逃走を図った。著しい命令違反だ」
「なっ……!!」
怒りと衝撃で、クレアが二の句を継げなくなる。なるほど、そういう見方もあるか。
常人が触れれば自我を失う呪われた剣に、唯一対抗できるのが儂とアリシアだ。魔剣を見付けたなら、厄災が降りかかる前に回収して封印するのが役目だ。だが、今回の行動はその役目を放棄したとも見て取れる。言いがかりに近いが、上がそう判断を下したら部下はほとんど逆転が見込めない。
「ならどうする?」
儂は口を開いた。
「切るか?」
処分の方法は明言しない。だが、アリシアに手を出すというのなら全力で抵抗させてもらうと、掌の上に一瞬だけ炎を見せて意思表示はする。
儂が本気を出せば、帝都くらいは簡単に滅ぼせる。それだけの魔力量を秘めているとわかっているからか、上層部はいっそ面白いくらい顔を強張らせた。
「いいや」
否定の言葉を放ったのは重厚な声だった。
「すぐに処分を下すのは簡単だ。しかし短絡的な思考は愚か者の証拠」
決して大きいとは言えない声量のはずなのに、部屋の隅々にまで届いて空気を揺さぶる。それを聞いただけで、儂らだけでなく上層部すら背筋を伸ばした。
「君たちはマイルズ・アンカーソンと対峙した。その時、相手のことをどう捉えた?」
声の主、儂らの正面に位置するワイズ元帥が訊ねる。そこに一切の誇張も脚色も許されなかった。
「……掴み所のない人物だと感じました」
最初に答えたのはクレアだった。緊張のせいか声が震えている。
「また、他人の命に頓着していないとも。目的のために手段を選ばない、特異犯罪者特有の気配を感じました」
「ふむ。ラルフ・シュタイナー伍長、君は?」
元帥が話を振る。
「……自分も、ブラント曹長と同じです」
ラルフが冷や汗を流しながら答えた。
「人間として決定的な何かが欠けていると。正面から挑めば勝ち目はないと感じました」
「……ふむ」
元帥が頷く。その姿は自分の抱いている感想との差を確認しているように見えた。
「元帥閣下」
上層部の一人が口を開いた。
「彼らは奴の足元にも及ばなかった。その結果がこの敗走です。ゲルマンの処分も必要ですが、今はこの者たちの処遇が先決かと」
「それを決めるのは私だ。君たちの出る幕ではない」
ぴしゃりと一蹴する。それから元帥は儂を見た。
「魔剣ムラマサよ。同じ魔剣として思うところはあったか?」
「…………。その質問に答える前に、こっちから訊いてもいいか?」
儂がそう訊ねると、何人かが椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
「貴様、元帥閣下の前で何を言い出すか!」
「魔剣の分際でおこがましいぞ!」
「ここにいられるだけ有り難いと思え!」
次から次へとまあ……。こいつら儂を悪く言うことにしか頭を使えないのか? ちょっと元帥に同情してきた。
「騒ぐな」
たった一言。先程よりも一段下がったその声で、部屋の温度も一緒に下がった。
「魔剣ムラマサよ。発言を許可する」
頭にそう言われてしまえば何もできなくなる。居心地悪そうに座り直す奴らに内心で舌を出してやりながら儂は問うた。
「あんたら、いつから気付いていた?」
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