第8話   絶望

 一段一段、探るように階段を踏みしめ、やがて錆びた鉄の扉が行く手を阻むように、その姿を現した。

 スマホを片手に持つシガケンは、もう片方の掌を鉄扉に押しつけ、力を込めたが微動だにしない。

 それならばと、ライトを点灯させたままのスマホをポケットに滑り込ませ、今度は両手で挑む。

 ズボンの繊維から漏れる仄かな光は、無数の縞模様を壁面に投影した。

 彼の一歩後ろに控える千里は、その毛細血管のような不気味な影絵を見て、より一層、不安を募らせる。


 触れずとも重みを感じさせるその扉は、シガケンの手によってゆっくり奥へと沈み始める。

 すると、異常なまでに冷たく眩い光が漏れ出し、壁面に蠢いていた血管は霧のように霞み消えた。


 扉の先、十畳ほどの空間は、壁も天井も無機質なコンクリートに覆われ、至る所に黒い斑点が描かれていた。

 厳密には黒ではなく、赤黒いと言った方が正しい。

 押し寄せる閉塞感に、湿気と錆の鋭い臭いが混ざり合い、息をするごとに喉を刺す。

 入ってすぐの所で、頑丈な鉄格子が部屋を二分している。

 格子の向こう側に目をやると、彼女がいた。


「ミトモモ……!」


 千里は部屋を隔てる鉄の柵に貼り付いた。

 長らく隠密行動をしていたせいか、発声するのが久しく感じる。


「キ……きゃんッ!」


 寝台に縛り付けられたミトモモは、猿轡のせいで上手く言葉を紡げていない。


「もう大丈夫! すぐ助けるから!」


 都市探メンバーを認めた彼女の目に、安堵の涙がボロボロと溢れ、目尻から耳元に向けて流れ落ちる。

 千里も思わず涙腺が緩みかけたが、涙袋を引き締め、格子の開閉口に目を向けた。

 しかし、握り拳ほどの、やけに大きい南京錠で施錠されていることに気付く。


「これやな」


 一方、錠に気付き、すでに動き始めていたシガケンが、壁に向かって呟いた。

 そして振り返り、銀色に煌めく何かを投げる。


「千里!」


 シガケンの手から離れたそれは、千里の胸元をめがけて放物線を描く。


「あいよっ!」


 オーダーを承った居酒屋の店員の如き相槌を打った千里は、片手でキャッチ。

 受け取る前、宙を舞うそれが鍵であることを視認していた彼女は、間髪を入れずに南京錠の鍵穴に差し込み、手首を捻る。

 緊迫した状況が生み出す息の合った連携だ。


 シャックルが飛び出し、輪が途切れる。

 思いのほか重量のある南京錠を取り外し、部屋の隅へ投げ捨てた千里は、鉄格子を引き開けた。

 そして中に走り込み、ミトモモの猿轡や手足の枷を解く。

 シガケンもそれを手伝おうと鉄格子の開閉口を潜ったその時だった。


 ゴゴォー……ガァンッ!


 部屋の入口、重厚な鉄の扉が、地響きに似た音を鳴らした後、勢い良く閉ざされてしまった。

 肩を跳ねさせた千里とシガケンは振り向き、停止。


「え……?」


 風で閉まった?

 否、扉の重さを鑑みれば、風ごときで勝手に閉まるとは考えづらい。

 シガケンが押す様子を見て、それくらいのことは扉に触れていない千里にも分かった。

 そもそも、ここは地下室であり、風が吹き抜けること自体ありえない。

 ならば自動で閉まる扉だった?

 そんな場違いな疑念が頭をよぎったその刹那〝シューッ〟という何かが漏れ出すような怪音が鳴り始める。


「マジでやばいかもしれん」


 口角と視線を落として下の歯を見せるシガケンは、扉の下部を凝視しながら言った。

 導かれるように千里も彼の目線の先を見やる。


「ガス……?」


 鉄扉の下部、僅かな隙間から、地面を這うように白い靄が雪崩れ込んできていた。

 まるで生命を宿し、意志を持っているとさえ思えてしまうほどの奇怪な蠢きで。


「分からん! とにかく急ぐぞ!」


 シガケンは動揺を振り払うように叫ぶと、ミトモモの救出に専念した。

 千里も彼に倣い、懸命に手を動かす。

 やがてミトモモの猿轡が外れ、感謝の言葉を漏らす。


「二人ともぉ。ありがとぉ……」


 疲労の色こそ濃いものの、幸い大きな怪我も無く、彼女は無事だった。

 手足を縛っていた結束バンドにシガケンが手をかけ、力を込めると、ブチブチっと乾いた音を立てて引き千切られる。


「立てるか? ミトモモ!」


 上体を起こした彼女に、シガケンが手を差し伸べる。

 ミトモモは彼の手を握り、寝台から両足を横にスライドさせて放り出した。

 早くも、得体の知れないガスが地面を覆い尽くしていることに気付いた千里は、焦燥感に駆られる。


「急ご!」


 鉄格子の開閉口に最も近かった千里は先頭に立ち、扉へ足を向けた。

 そしてシガケンの肩を借りつつ、ミトモモも続く。


 千里のひ弱な手では、扉は身動ぎ一つとらなかった。

 見かねたシガケンはミトモモを千里に託すと、筋肉が軋むほどの力で扉を引き寄せようと試みた。

 もちろん、うんともすんとも言わない。

 三人とも内心では予感していたはずだが、目前に立ちはだかる壁が、ここまでの絶望感をもたらすとは思い及ばなかった。


 三人は渾身の力で扉を叩き、喉が裂けんばかりに叫び続けた。

 しかし、何の反応も返ってこない。

 冷たく重い鉄はただ鈍く震え、無情なまでに響き渡る音だけが空間を支配する――――ガーン、ゴーン。

 虚しくも単調なその音が、彼らの焦燥を嘲笑うかのように静寂の中へと消えてゆき、閉ざされた密室に圧倒的な孤独を染み渡らせるばかりであった。



「うぅ……」


 千里は、目を開けた。

 しかし鉛のように瞼が重く、いくら持ち上げようとしても閉じる力には抗えそうにない。

 かろうじて、目を細めた状態で辺りを見回す。

 冷たく白い光、灰色のコンクリート、濃褐色の斑点、開け放たれた鉄格子――――依然として地下室にいると理解する。

 そして、ふと視線を巡らすと、僅かな記憶の残像を引きずるかのように、見覚えのある男がすぐそばに立っていた。


「千里ちゃん~。目ぇ覚めたんか~。丸一日寝てたで~」


 笹岡だった。

 相変わらず、朗らかな笑みを振り撒いている。

 地下にいるせいで、時間の感覚が掴めないが、ずいぶん時間が経ったらしい。


「笹岡……さん……私…………」


「大丈夫。もう大丈夫やからな~」


 その穏やかな声は、長らく心の奥に巣食っていた恐怖や不安を消し去り、千里を温かな安堵で抱擁してくれる。

 助かったのだと、理屈ではなく本能で感じ取れた。

 だがしかし、覚束ない思考と視界が、くっきりと輪郭を帯び始めたその時、全身に違和感を覚える。


「……っ!?」


 体が動かない。

 力は入るが、動かせない。

 首を持ち上げ、横たわる全身を覗き込むように見る――――両手、両足、腰、胸、全てが寝台に縛り付けられていた。

 それも結束バンドなどという可愛げのある物ではなく、太さ2センチほどのロープで。


「笹岡さん! どういうことですか!?」


「まぁまぁそんなに焦らんでえぇがな~」


 そう言って笹岡は、地面に置いていた大きな鞄のチャックを摘んだ。


 千里は拘束から逃れようと身を捩りながら、すぐ隣にミトモモとシガケンが、自分と同じく寝台に縛り付けられていることに気付いた。


「ミトモモ! シガケン! 起きて!」


 必死に声を張り上げるが、二人とも目を閉ざしたまま。


「千里ちゃんも、もう知ってんのやろ~?」


 依然として、鞄の中を漁っている笹岡が問う。


「何のことですか……? ていうか、何をするつもりなんですか!?」


「またまた~分かってるくせに~」


 ようやく目的の物を見つけたらしく、笹岡は立ち上がった。

 そして何食わぬ顔で恐ろしい言葉を口にする。


「三人とも、これからテナシになるんや――――」


 柔和な微笑みは、すっかり消え去っていた。

 蛍光灯の輝きを背負うせいか、彼の顔は異常なまでに陰り、その言葉の狂気さを際立たせている。


 ――――千里は絶句せざるを得なかった。

 薄らとした恐怖は確かに胸の奥で灯っていただろう。

 しかしそれ以前に、聴覚が捉えた言葉が予想の範疇をゆうに越えていた。

 そのため、脳は処理を拒むかのように停止し、ただ笹岡の言葉が頭蓋の中で反響し続けるばかりで、声を発することがままならなかったのだ。


「ま、安心してや~」


 笹岡は笑みを取り戻す。

 だがもはや、その面持ちに温もりは無く、ただ冷酷な殺人鬼のようなおぞましさが纏わりついていた。

 実際は以前と同じ笑顔なのかもしれない。

 しかし今となってはもう、これまでと同じ目で見ることなど叶うはずもなかった。


「こんな辺鄙な村でも医療器具は揃うてるからな~」


 自慢げな笹岡が手に握るのは、拳銃のような形をした電動ドリル。

 先刻、鞄から取り出したものである。

 いったいそれのどこが医療器具なんだ、と千里が苛立ちを覚えた矢先、その疑問に回答するように笹岡が解説を挟む。


「これはボーンソー言うてな。骨を切る器具やねんで~」


 そう言いながら、笹岡はボーンソーとやらを千里の顔に近付けて見せびらかした。

 電動ドリルかと思えたその器具には、渦巻いた一般的なドリルではなく、幅2~3センチ、奥行き7~8センチほどの鉄の板が装着されていた。

 鉄板と言っても、厚さは数ミリ程度で、鋸歯状になった先端部分が特徴的なものだ。


「あ、そんなことより」


 ひとしきりボーンソーを誇示した笹岡は、ケロッとした表情に切り替えた。


「この部屋、やし、ボーンソー・・・・・使っても迷惑ちゃうよな~!」


 笹岡の言葉は、狭い地下室に虚しく響き渡った。

 無論、笑ってくれる観客はいない。

 いや、笑えない。

 ブラックジョーク云々関係なく、そもそも面白くない。

 加えて、唯一の観客である千里にとっては、笑いなど遠い過去の感情だ。

 これから自らが辿るであろう末路が、否応なしに脳裏を掠め、恐怖が内臓を搔き乱し、震えが全身を蝕んでいくのを、ただ感じるしかなかった。


「なんでこんなこと……」


「笑うとこなんやけどな~。まぁええわ。なんでやろな~。もう自分らでもよう分からんなってるかもな~」


 笹岡は千里の言葉に一切の興味を示さず、淡々とメイヨーテーブルにボーンソーを含む医療器具を並べ始めた。

 その動作は、高級フレンチレストランのウェイターが銀製のカトラリーを丁重に配置する様を彷彿とさせる。

 静謐さと機械的な正確さが交錯し、ただの準備作業であるはずが、どこか不穏な儀式めいた空気が場を満たしていった。


「まぁとにかく心配せんでも大丈夫。結局みんな笑顔になるからな~」


「笑顔って……そんなわけないでしょ…………」


 千里は潔く、足掻くのを止めた。

 捕らえられたのが自分一人であれば、まだ希望はあった。

 シガケンとミトモモが助けに来てくれると信じ、待つことができるからだ。

 しかし今は三人ともが、このサイコパスの手術待ちを余儀なくされている。

 仮に村人全員が結託しているとすれば、もはや助けがくることは絶対に無い。

 絶望的な状況を理解すればするほど、涙が溢れ出してくる。


 ある程度は覚悟していたつもりだった。

 だが足りなかった。

 彼女は都市伝説が好きなだけで、科学者ではない。

 未知に対する好奇心はあれど、解明が絶対的なゴールではないのだ。

 真実を知ることよりも、その過程だけでも充分な娯楽と言える。

 いっそのこと、迷宮入りするくらいの方が良かったりする。

 しかし今回は運悪く、踏み込んではならない真相に迫ってしまった。

 例のQ&Aサイトで、櫻子のクエスチョンに興味を持ってしまった時点で、この結末は決まっていたのだろう。


「ほんなら早速、千里ちゃんからいこか~」


 テーブルの整理を終えた彼は、小ぶりな刃物を指先でゆっくりと摘まみ上げた。

 ステーキナイフのようにも見えるその刃は、妙に短く、しかし異様なほどに研ぎ澄まされている。


「麻酔せえへんから、初めはみんな叫ぶんやけど、そのうち笑い始めんねん。おじさんもよう分かれへんけど、脳の防衛本能っちゅうやつが働くんかな~。ほんでその引きつった笑顔が貼り付いてまうからテナシはあんな顔なんやで。これプチ豆知識な~」


 ずいぶん流暢に舌を回す笹岡。

 一時は諦めていた千里だが、徐々に心の深部が煮え始め、憤りの念が全身を熱し始めていた。

 なぜ自分がこんな目に合わなければならないのか。

 なぜこんなところに来てしまったのか。

 疑問が浮かび上がる度に、それらが全て怒りに変換される。


「助けてぇぇええ……!」


 再び体を震わせ、喉に力を込めた。


「誰か助けてえ!」


 とにかく声を嗄らした。

 村に助けてくれる人がいないのなら、近くの山路を走る車へ、それでもだめなら田辺市の警察や消防へ。

 冷静に考えれば、馬鹿馬鹿しい悪足掻きでしかない。

 だが今の千里には、それ以外にできることがない。

 憤怒により、情緒も乱れ、単純なことしかできなくなっているとも言える。


「そうやそうや~。人間らしく叫び~。どこにも聞こえへんから、いくらでも叫んでや~」


「助けてえええええええ! 誰かあああああああ!」


 千里は叫喚し続ける。

 無情にも、蛍光灯の光を吸収するように煌めく銀色の刃が、彼女の肩に迫り来る。

 シャツの袖を摘まみ上げられた直後、ポリエステルの布地は一切の抵抗も無く切り裂かれた。

 さながら通販番組で、包丁の切れ味を演出するために、宙に浮かせた紙切れを一刀両断するように軽やかだった。

 その鋭利さを目の当たりにした千里は、自身の皮膚も同じ一途を辿るのだと悟った。


「誰かああああ! お願い! 誰か助けてええええ!」


 元より動かぬ腕が數医者の手に無慈悲に押さえ込まれた。

 鉄が肩の皮膚にそっと触れるや否や、その凍てつくような冷たさが肌に染み渡り、思わず息を詰まらせる。

 だが、その冷え冷えとした感触は、ほんのー瞬だった。

 ひと息の間も無く、冷気はたちまち激しい炎となり、焼けつくような灼熱が皮膚を焦がし始め――――生温い液体がじわりと脇に押し寄せる。


 ――――直後、ドンッという、石と石が衝突したような、鈍い音が鳴り渡る。

 同時に笹岡の手からメスがするりと抜け落ち、彼自身も膝から崩れ落ちた。

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