第33話 言葉は交わさず

 狂歌と野々宮の背中が遠ざかり、氷原の静寂が残る。その場に倒れ伏した冬祢は、力なく大の字に広がったまま、蒼穹を仰ぎ見ていた。


 青空はどこまでも澄み切っているのに、胸に広がるのは乾いたあの時の虚無だけだった。


 ――負けた。その事実すら、もはや彼女にとってどうでもよかった。


 凍りついた指先をわずかに持ち上げようとしても、力は入らない。ただ視界の端に、幼い頃のしゃしゃけの笑顔が浮かんで離れなかった。

 

「……どうして、私は……」


 小さく掠れた声が、氷上に散って消える。忘れたはずの記憶。胸に抱きしめていたはずの娘の笑顔。彼女は目を逸らすように瞬きをしたが、それでも笑顔は鮮烈に焼き付いて離れなかった。


 やがて冬祢は、軋む体を押し起こし、氷の上に膝を立てる。崩れた呼吸を繋ぎながら、片足を引きずるようにして歩き出す。痛みは重い鎖のように彼女を縛っていたが、彼女はそれを振り払うように一歩、また一歩と進んだ。


 「……まだ、終わってない……!」

 

 その声は自分に言い聞かせる呟きのようで、氷原に消えていった。


 ――そして。会場内を揺らす轟音が彼女の耳に届いた。地響きのような衝撃が空気を伝い、壁面を震わせる。瓦礫の舞い散る中央、そこには二人の人影があった。


  剣のように鋭い眼差しで日本刀虚切を構える星七と、両腕に装着された機械仕掛けのグローブが不気味に作動し、鋭い息を吐くしゃしゃけ。


 二人は瓦礫の中、ただ互いだけを沈黙のまま、見据えていた。次の瞬間、天井から崩れ落ちる破片。その一瞬の合図に、二人は同時に動いた。


 星七の刃が銀閃を描き、空気を裂く。振るわれた刀身は瓦礫をも紙のように断ち切り、鋭い衝撃波を生む。しゃしゃけのグローブが唸りを上げ、駆動音と共に鉄塊めいた拳が大気を穿つ。拳の軌跡は轟音を残し、砕けた床をさらに抉る。


 刹那の交錯。刀身と拳がぶつかり合い、火花が弾ける。衝撃が波紋のように広がり、周囲の瓦礫を吹き飛ばした。


 崩れかけた柱が無惨に倒れ込み、粉塵が濃く舞う。視界を覆う灰色の帳の中、金属が軋むような音と振動が続いた。

 

 星七の斬撃が空を裂けば、しゃしゃけは回転を加えた拳で受け止め、逆に拳圧で距離を詰める。床が軋み、壁が裂け、会場全体が悲鳴を上げるかのように。


 互いに一歩も退かず、ただ破壊だけが積み重なっていく。積み重なった瓦礫は既に山を築き、天井には巨大な亀裂が走っていた。このままでは、建物そのものが崩れ落ちるのは時間の問題。


 それでも二人は止まらなかった。星七の虚切が光を帯び、しゃしゃけの拳が稲妻のように迸る。拳と刀身が交わるたび、死をも孕んだ緊張感が場を支配し、空気そのものが震えていた。


 振り抜かれた一閃が床を割り、星七の足元に深々と亀裂が走った。次の瞬間、しゃしゃけの拳がそこを抉り砕き、破片が雨のように四散する。崩れた瓦礫が宙に舞い、落下するたびに爆ぜるような音が轟く。


 会場全体が限界を迎えていた。壁は裂け、鉄骨がむき出しになり、火花を散らしている。天井に走る巨大な亀裂は蜘蛛の巣のように広がり、粉塵が雪のように降り注いでいた。視界は灰色に濁り、息を吸うたびに鉄と石の匂いが肺を満たす。


 その中で、二人だけが鮮烈に動き続ける。星七の刀は閃光のように奔り、斬撃の軌跡が残像となって闇を切り裂く。瓦礫を断ち、空気を震わせるたびに、目には見えぬ刃風が奔流となって空間を削っていた。

 

 しゃしゃけはそれを正面から受け止め、鉄拳を叩きつけるたびに轟音を巻き起こす。拳圧は壁を穿ち、床を陥没させ、崩壊をさらに加速させていく。


 衝突。火花。爆ぜる衝撃。

 会場の外壁が一枚、ついに崩れ落ちる。光が差し込む一瞬、戦場は無数の瓦礫と閃光に照らし出され、二人の影が揺らめく。

 

 床下からも不気味な軋みが響き、支えを失った鉄骨が次々とねじ切れていく。


 ――止まらない。――止められない。


 星七の斬撃がしゃしゃけの防御を押し込み、しゃしゃけの反撃が星七を吹き飛ばす。互いの一撃が、もはや人の限界を超えた破壊力となって交わり、建物そのものを破砕していく。


 ついに天井の大梁が悲鳴を上げて折れ、巨塊が落下した。その直下にいた二人は、同時に跳躍する。星七は壁を蹴り、虚切を振り上げる。しゃしゃけは砕けた鉄骨を足場に、拳を構えた。


 ――交錯。刃と拳が、落下する梁の上で火花を散らす。爆ぜるような衝撃波が奔り、瓦礫の雨を四方八方へ吹き飛ばす。刹那、支えを失った会場全体が、轟音と共に崩れ落ち始める。


 崩壊の渦中で、二人の戦いはなおも続いていた。粉塵と光、炎と破片。全てが混ざり合う混沌の中、星七としゃしゃけはただ互いだけを見据え、最後の一撃を叩き込もうとしていた。

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